服毒

番外編.『地獄』(前編)


──夜が明け始めていた。

床に転がる男はもう声も出せず、目だけを見開いて何かを訴えていた。
だが青年の瞳には、もうその意味は映らなかった。

「ねえ、僕にも教えてよ」

青年は膝をつき、虫の息の男に顔を近づける。

「いま、どんな気持ちなの?」

声はかすかに震えていた。それが怒りか、憎しみか、それとも空虚か──もう、自分でも分からなかった。

もう彼に残されたのは彼女の虚像を追うことだけ。最期に何を感じて、何を見ていたのか。ただ、それだけが知りたかった。

男の目がわずかに揺れた。

瞼の動きも、瞬きもできないほど衰弱した身体で、それでも彼は何かを訴えようとしていた。けれどそこにあったのは、後悔でも謝罪でもなかった。

ただ──「なぜ、こんなことに」という、理解できない者特有の困惑と、身の危険に対する本能的な怯え。

燃えたタバコが詰められた喉の奥から、呻くような音が漏れる。

「……っ、……ぅ……や……め……」

それは命乞いですらなかった。
人としての尊厳も、己の罪も、もはや言葉にする余力すら持たず、ただ目の前の“痛み”と“恐怖”から逃げたいという、生物としての本能だけが残っていた。

そして、それが青年の心に何より冷たい風を吹き込む。

──彼女が、最後に見た“人間の顔”も、これだったのかもしれない。

12年前に行われた強姦殺人事件。その犯人に対して行った精巧な模倣による報復。

「......俺がしたことに意味はあったのかな...?」

僅かに溢れた彼の本音。"僕"として無情な復讐鬼の仮面を被り、汚し続けていた両手。

本当はこんなことしたくなかった。目の前に転がる醜い生き物と同等に堕ちるなんて、望んだはずがなかった。

それでも何も罰を受けずに、彼女の苦しみを知らずに生きている姿を許すことは出来なかったから。

「教えてくれよ」

静かに部屋に響く声。言葉の端は震え、貼り付けていた笑顔も崩れている。

──返事はなかった。

いや、もう彼にそれを返す力がなかったのかもしれない。それとも、青年の問いがあまりにも遠く、今の彼には届かない“言語”だったのか。

床に転がるその身体は、かつての“加害者”だったはずなのに──今はただ、壊れた人形のように、微かに痙攣するだけ。

きっと青年が欲しかったのは「答え」ではなかった。責めることも、許すことも、本当はもうどうでもよかった。

彼の胸を刺していたのは、“彼女の痛みがこの世に忘れ去られる”という未来そのものだった。
──だから、意味なんて、もう関係なかった。


静寂が訪れる。

剥き出しのコンクリートの床。血の臭いと、焦げた煙草の残り香。
鉄のように重くなった空気が、ただ二人を包んでいる。

そして、青年の目元に滲む水滴は、どこか自分でも知らなかった色をしていた。

──彼女のためだったはずのこの時間が、
いつの間にか、“彼女のいない”現実を突きつけていた。

青年は赤く染まった床に転がると、自身の汚れた両手を掲げた。小さな窓から入ってくる日の光が、己の醜さを浮き彫りにする。

「同じ場所に行きたかったな...」

それはすでにこの世を去った彼女へ向けた言葉。きっと君の待つ天国には、僕は行けないだろうから。

「もう一度会いたかった」

何をしても取り戻すことの出来ない幻影を追いかけて。今日まで走り抜けた汚れた道を振り返る。

「結局、何も手に入らないまま...」

上げた両手は空を切って、身体と同様に床に落とした。

その音は、何よりも静かだった。

乾いた鈍音が響くたび、まるで“終わり”が一つずつ身体の内側に落ちていくようだった。
彼の指先には、もう何も残っていなかった。

ただ、赤く汚れた手と、冷たくなった床の感触と──
触れることすら叶わなかった“ぬくもり”の幻だけが、微かに脳裏に焼きついていた。

彼女がいない世界で、彼女のために生きたはずの自分が、誰よりも“醜く”なってしまったことに、青年は今さら気づいていた。

それでも、もう遅い。

「……ごめん」

誰に向けたのか分からないその言葉は、まるで宙に溶けるようにして、どこへも届かず消えていった。

彼女がもし、この場にいたなら。
あの優しい眼差しで、彼を責めただろうか。それとも、ただ悲しそうに微笑んだのだろうか。

青年はもう、それを知る術を持たなかった。

ただ、“何も取り戻せなかった”という現実だけが、朝の光の中で、容赦なく、そこにあった。

「世界で一番、大好きだったよ」

届かぬ愛の告白は復讐と共に空へと消えていく。青年は小さく笑うと重たいその身を起こした。

頬を伝う涙を拭い、僅かに呼吸を残すものへと視線を向けた。死なないように大切に壊したそれを見て、青年はひとつ伸びをする。

ゆっくりと立ち上がると携帯電話を手に取った。

「もしもし...」

──その声は穏やかで、どこか他人事のようだった。

「……警察ですか?」

涙の跡が乾ききらないままの頬に、朝の光が優しく触れる。

「……はい、一人、男が倒れています。場所は──」

携帯越しの機械的な応答に、青年は少しだけ言葉を区切った。
そして、その視線を再び床に横たわる“それ”に向ける。

「……僕です。やったのは、全部」

告白にも似たその言葉は、あくまで静かに、まるで清算のように口からこぼれ落ちた。

もう逃げる理由も、隠す意味もない。
彼は彼女に誓った“約束”を果たしたのだから。

そしてその約束は、同時に、自らの命も未来も捧げる覚悟だった。

「……はい。……わかりました」

青年は少しだけ笑った。
それは、どこか救いに似た微笑みだった。

彼の願いはひとつだけ。
誰よりも愛した人の名前が、もう二度と、誰にも汚されないこと。

──その祈りと共に、青年はそっと通話を切った。

携帯を机に置き、彼はまっすぐ立ち尽くす。
まるで、すべてを終えた舞台の上で、誰もいない客席に深々と一礼するかのように。

やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくる。けれどその音すら、もう彼の耳には届いていなかった。

ただ、彼女の笑顔だけが、どこまでも鮮やかに、瞼の裏で揺れていた。




──数日後。

ニュース番組の画面に映し出されるのは、全国を震撼させた一連の事件の概要だった。

「12年前に起きた強姦殺人事件の加害者が、被害者の恋人によって復讐された――」

どこかドラマチックに脚色されたそのストーリーは、人々の注目を集めるのに十分だった。
ニュースキャスターの冷静な語り口とは裏腹に、視聴者の心は騒然としていた。

搬送先の病院では、男が集中治療室で懸命な治療を受けている。一命は取り留めたものの、身体には深い傷跡と共に、一生拭うことの出来ない恐怖が刻まれている。

「後悔はしていない」

それはニュースで報じられた犯人である青年の言葉。その後の裁判でも、この事件は社会的な議論を巻き起こすことになった。

彼の行動は賛否両論を呼びながらも、多くの人々の心に深い問いを残していた。

正義とは何か、復讐の果てに救いはあるのか。
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