服毒

52.『軟派』


秋の夕暮れ。街灯がぼんやりと滲むカフェ前の歩道。周囲の店もちらほら閉まり始めていて、空気にはどこか静けさが漂っていた。

ヨルは少し冷たい風に眉を寄せながら、腕時計で時刻を確認する。レオの仕事が少し長引いているようだった。

そんな彼女の姿を、少し離れた場所から男が見つめていた。

細身のパンツにダウンジャケット。ナチュラルに身を包んだ雰囲気はごく一般的な若い会社員風。だがその目には、確かな欲望と、軽薄な自信が宿っていた。

「こんばんは、寒くない?」

不意に近づき、軽い声で話しかけてくる。

「こんなとこで一人で立ってるってことは、暇してるのかなって。もしよかったら、そこのカフェで一杯どう?」

その男は、にこやかに笑いながらヨルの顔を覗き込む。ヨルは小さく息を吐くと、その視線を正面から返した。

「恋人を待っているので」

端的に、恋人がいること、暇ではないことをまとめて伝えた。不快感は表面に出さず、ただ事実のみを並べた拒絶。

男は異質な彼女の黒い瞳に一瞬だけ目を丸くした。けれど、すぐに「まだ引き下がらない」とでも言うような苦笑を浮かべて、軽く首を傾げた。

「そっか、でも……こんなに綺麗な人を一人で立たせるなんて、恋人さん、ちょっと罪な人だね?」

言葉は柔らかいが、その目はしつこくヨルを値踏みしている。

「ほんのちょっとだけ話すくらいなら、バレないと思うけど……駄目かな?」

冗談めかして笑いかけるその態度には、どこか厚かましさがあった。

──と、その瞬間。
男の背後から、重く冷たい声が落ちる。

「……何しているんだ」

通りの向こうから歩いてきたのはレオだった。
足音はゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。レオの目は、ヨルには向けられず、ただ男を鋭く捉えていた。

「……レオ」

ヨルは隣に並んだ彼の腕に触れると、ほんの少し口角を緩める。それは安心感からなるものか、甘美な嫉妬の予感があったからか。それでも確かなのは、彼女にとって目の前の男など眼中にないということ。

「遅かったね」

レオはヨルの言葉にだけ、一瞬だけ視線を落とした。その瞳に宿った光は、ふっと柔らぐ。けれど──

「待たせて悪かった」

低く静かな声を返しつつ、すぐにまたナンパ男に向き直る。ヨルの指先が自分の腕に触れていることすら、威圧感に変えて放つような立ち姿。

「……おまえ、名前は?」

ようやく異様な空気を察した男が、狼狽したように数歩下がる。レオの服装に目をやって、やってきた方向から、彼が“警察官”であることを理解したようだった。

「……他人の恋人にしつこく声かけるのが趣味なのか?」

レオの声音が、わずかに低くなる。
警察官としての威圧ではなく、男としての──独占欲からくる、怒りのにじんだそれ。

「す、すみません、でしたっ!!」

男は、額に冷や汗を浮かべながら何度も頭を下げると、そのまま足早に立ち去っていった。

──静寂。

ようやくレオがヨルの方へと正面を向いた。
その表情は、まだ少しだけ怒気を帯びているようにも見える。

「……大丈夫だったか?」

だけどその問いは、どこまでも優しかった。

ヨルは何か面白い劇でも見たように口角を上げると、触れていただけの指先を滑り込ませてレオの腕に絡める。

「大丈夫」

あれくらい軽く躱せるものだったが、彼が心配してくれるのなら悪くない。そんな声色で、自分の身には何も無かったことを端的に伝えた。

レオは、絡められた指先の感触に目線を落とす。長くて白いその指が、自分の腕にぴたりと寄り添っている。それを見ただけで、胸の奥にあった棘のような苛立ちがすっと消えていくのを感じた。

「……そうか」

短く呟いて、彼はふっと視線を逸らす。けれどすぐに、その目はもう一度ヨルに向き直る。

「……それでも、ああいう奴に声かけられてるのを見ると……腹が立つ」

低く、喉の奥で唸るような声。
街の喧騒の中で、ヨルにだけ聞こえる音量。

「他の奴に触られるくらいなら、傷でもつけておいたほうがマシだな」

強く、鋭い言葉だった。けれど、その目に映るのはただ、彼女だけ。世界に一人きりしかいない恋人に対する、言葉にならない執着の色。

「……おまえのことになると、どうにも冷静ではいられない」

不器用に目を伏せながら、レオはそう付け加えた。まるで、独占欲を自覚して苦笑するように。

「きみがくれるなら、傷でも跡でも……何でも嬉しい」

ヨルは、滲む独占欲に応えるように甘い声で言葉を溢すと、レオの瞳の奥を覗き込む。そこに映るのが自分への熱だけであることを確認すると柔らかく微笑んだ。

レオの喉が、小さく上下に動いた。
ヨルの瞳──静かで、深くて、甘く誘うその光を正面から受け止めながら、彼の呼吸が僅かに乱れる。

「……まったく、おまえは」

呆れたような声音の中に、隠しきれない悦びが滲んでいた。
彼女の口からこぼれるその一言ひとことが、すべて自分だけに向けられていると知ってしまえば、もう他になにもいらない。

「言ったな。……覚悟してろ」

低く、耳元で囁く。
その声は脅しでも命令でもない。ただ、深く染み込むような熱のこもった言葉。

「ちゃんと……俺のものだって、印つけてやる」

それは、独占の証。
ヨルの肌も、心も、全てが自分だけのものだと確かめるための、密やかな約束だった。





玄関の扉が閉まる。冷たい風が遮断され、落ち着く自宅の温かい香りに包まれた二人。

ヨルは彼と組んでいた腕を軽く解くと、靴も脱がないままにレオの首へと両手をかける。ヒールでいつもより近い距離のまま、何も言わずにただ彼の瞳を見つめ、そのままそっと額を合わせた。

「あのまま……カフェについて行っていたら、もっときみの乱れた感情を見られたかな」

レオを裏切るような真似は絶対にしない、だからこそのもしもの話。選ぶことのない選択肢をチラつかせて、悪戯に笑うヨル。

レオの眉間が、わずかに寄った。
静かに息を吸い、そして吐く。その間に、ヨルの額に触れた自分の皮膚が、じりじりと熱を持つような感覚に変わっていく。

「……悪い女だな」

囁くような低い声。怒ってはいない。ただ、どうしようもなく彼女に溺れているだけ。
どこまで本気で、どこからが戯れなのか──それを理解した上で仕掛けてくる、彼女の危うく美しい駆け引き。

レオはゆっくりと腕を伸ばし、腰を抱くようにしてヨルの身体を引き寄せた。
玄関に立ったまま、冷たい空気から逃れた静かな密室。

「……見せるまでもない。もう、十分に乱されてる」

その言葉のすぐあと、額を合わせていた彼女を引き寄せると、唇を重ね言葉を残せないようにしっかりと塞ぐ。柔らかく、けれど逃がさぬように。自分のものだと、再確認するように。

「……俺を煽って、どうなりたいんだ?」

目を細め、熱を帯びた声でそう囁くレオ。
彼の中の独占と愛情が、ゆっくりと夜の空気に溶けて広がっていた。

「きみの全てが私のものだって、実感したいの」

自分の言動ひとつで冷静さを失う彼が、堪らなく愛おしかった。離したくない、触れさせたくないと囁く声に満たされ、彼の全てが自分自身だけであることに執着する。

「だから……もっと乱れて、私に縋って」

浮かべた笑顔とは裏腹に、そんな形でしか安心できない己の醜さに苦しむような声だった。

レオはその言葉を聞いた瞬間、息を吸うことすら忘れたように、わずかに動きを止めた。

──縋ってほしい、と。
それは誰よりも強く見える彼女の、奥底からの願い。「乱れてほしい」なんて挑発に見せかけて、本当は、自分だけにすがる彼を、確かめたかった。

レオはゆっくりと、ヨルの両頬に手を添えた。強すぎないように、けれど逃がさないように。
その指先は、彼女が見せた「笑顔の奥」に触れようとするかのように、丁寧で、切実だった。

「……そんな声で言うな」

低く、かすれるような声。
その声音に宿るのは、怒りでも苛立ちでもなく、ただ彼女の痛みに寄り添いたいという必死な温度。

「俺の身体も、心も、声も、言葉も、命まで。全部……ヨルだけのものだ」

額を、もう一度そっと重ねて、今度は目を閉じる。その距離のまま、息を絡ませるように、ほんのわずかな震えを声に乗せて、言った。

「……おまえが望むように、どうしようもなく壊れてやるから」

それは誓いに近い。
この愛の形が、誰かに理解されなくても構わない。ヨルの安心と引き換えるのなら、自分自身なんて、安い代償だった。

「……レオ……」

ヨルは少し眉を寄せると、酷く優しい声で彼の名を呼んだ。そしてそっと、触れるだけのキスを交わす。

「……もし私がレオの全部を奪っても、きっときみは最後まで微笑んでくれるんだろうね」

彼女の瞳の奥に宿る、どこまでも貪欲な冷たい光。それすらも包み込んでしまう彼の熱に静かに身を任せ、ヨルはもう一度唇を重ねた。呼吸なんて必要ないとでも言うように深く、長く、ただレオだけを感じられるように。

レオの腕が、躊躇なくヨルの背を強く引き寄せた。触れた唇に、時すら忘れさせるほどの熱が宿る。

「……おまえが奪ってくれるなら、喜んで差し出す」

低く掠れた声は、もう理性の檻を抜けていた。
どれだけ冷たい欲でも、どれだけ狂気じみた執着でも──彼女が注ぐものなら、すべてが甘美に感じられる。

「おまえのものになれるなら、俺は……それでいい」

押し殺した独占欲も、過去に刻まれた痛みも、今この瞬間には意味をなさない。
ただ、ヨルがそこにいて、自分を求めてくれるならそれでいい。彼女の狂気ごと受け止めて、同じだけの熱で焼き尽くしてやりたいと、本気で思っていた。

もう一度、今度は彼の方から深く口づける。
何度も、何度でも。名を呼ぶことすら忘れて、ただ彼女の存在に縋るように──。

互いに乱れた呼吸と抑えを知らずに上がる体温。ヨルは珍しくはにかんだ様子でレオから少し視線を外すと、彼の胸に手を添えた。

「……きみじゃないと、ダメ」

他の誰かになんて興味などない。今触れている、この彼の心音すらも自分を満たしているのだと、そう言うように。そして、意地悪く彼を試したことへの謝罪を込めて、そう言った。

レオは、その言葉を胸の奥で強く抱きしめるように、瞳を伏せた。

指先でそっと熱を帯びた彼女の頬を撫でる。目を細めて微笑むその姿は、どこか安心したようでもあり、同時に狂おしいほどの愛を抱えているようにも見えた。

「……知ってる」

低く、喉を震わせるように言ったその声には、怒りも咎めもなかった。ただ、愛しさと、どうしようもないほどの安堵だけが滲んでいる。

「おまえの全てが、俺だけを選んでくれていること……ちゃんと分かってるよ」

だからこそ、自分も応えるように、彼女を求め続ける。嘘も試しも受け入れて、むしろその裏にある想いごと抱きしめてしまう。

「俺もおまえじゃないと、もう駄目だ」

ヨルの意地悪さも、独占欲も、柔らかく笑う仕草も全部、レオにとっては唯一無二で、他に代わりなんてどこにもなかった。

抑えきれない想いが、吐息に乗って零れる。
心を縛り、身体を焦がすような、そんな一言を残して、レオは再びヨルの額にそっとキスを落とした。

「ありがとう……レオ」

どんな形でも受け取ってくれる彼の優しさに甘えながら、ヨルはやっと安心したような笑顔を浮かべた。額に残る熱が、どうしようもなく大切なものに思えた。

「……夜ご飯、どうする?」

履いていた靴をようやく脱ぐと、先にリビングへと歩みを進めながら問うヨル。

レオは彼女に倣って革靴を脱ぎながら、その問いかけに目を細めた。ほんの数秒、口元に笑みを浮かべながら、彼女の歩いていく背中を見つめる。

「……そうだな」

わざと少し考えるふりをして、彼女の意図を汲み取るように口角をわずかに上げる。
そして、まるで狩人が獲物を捉えるように、愛おしい彼女の姿を視線で追いながら、低く答えた。

「もうとっくに、“食べたいもの”は決まってる」

その一言に続いて、ゆっくりと彼女のあとを追う。足音ひとつ立てず、ぴたりと隣に並ぶとそのままジャケットをソファへ放り、彼の手が自然とヨルの腰に添えられた。
まるで離さないとでも言うように。

「随分、贅沢なディナーになりそうだね」

ヨルは腰に添えられた手を拒むことなく、近づいた距離のまま彼の瞳を見上げる。整えられた髪に、伏せられた睫毛、仕事終わりの疲労が滲んだ香り、そして幾度となく重ねた唇は柔らかい弧を描いていた。

レオはその視線を真正面から受け止めたまま、片方の手で彼女の頬に触れた。親指でそっと唇の端に触れながら、まるで獲物を味わうような、静かな愉悦をその眼差しに滲ませる。

「あぁ……本当に贅沢だな」

低く落ちた声には、抑え込んできた熱がにじんでいる。だがすぐ目の前の唇に触れず、焦らすように距離を保ったまま、睫毛がふと揺れた。

「おまえが、俺だけのものなんて」

頬から首へ、そしてゆっくりと肩口へ指先が滑る。まるでその熱を逃したくないかのように。
彼女の全てを独占しているという事実。その甘美な執着を言葉にせずにはいられなかった。

そして、もう逃さないというように、腰に添えていた手にわずかに力が込められる。

「……今夜はもう離さない」

囁くようなその言葉の後、レオの唇が彼女の額に、頬に、唇に──丁寧に触れていく。
静かな夜が、ゆっくりと甘く満たされていった。
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