服毒
53.『躊躇』
リビングの時計が、23時を少し過ぎた頃。
一日の締めくくりの空気が、部屋全体にゆっくりと流れていた。
湯上がりの髪を乾かし、薄手のルームウェアに着替えたレオは、冷たい炭酸水を片手にソファへと腰を下ろす。テーブルには、食べ終えた夕飯の名残。ヨルの作った、落ち着いた味の煮物と、ほかほかの白米。遅い時間でも胃に優しい食事だった。
隣には、いつのまにかヨル。
肩が触れるくらいの距離にいるのに、何か少しだけ“遠い”気がした。
リモコンで音量を一段下げると、レオは視線を横に落とす。うっすら伏せられた睫毛。静かな横顔。けれど、目に見えない波のような揺らぎが、彼女の輪郭から伝わってくる。
「……ヨル」
低く、優しい声で名前を呼ぶ。
「疲れたか?」
差し出された問いは、ただの気遣いではない。
彼女の“沈黙”に、小さな変化を感じ取ったから。そして、それを見逃したくなかったから。
ヨルは何も言わずに瞳を閉じると、レオの肩へと体重を預けた。ただ今この平穏な時間を失いたくないと言うように、ひとつ息を吐いて。
「……レオ」
その声には怒りや悲しみは乗っていない。だが何かを埋めるように、気付けば彼の名を静かに口にしていた。
レオは手にしていたグラスをゆっくりとテーブルへ戻した。少しだけ首を傾けて、そっと彼女の頭に自分の頬を寄せる。
「どうした」
その言葉は、ただの返事じゃない。
沈黙の中に滲んだ、ヨルの心の震えを感じ取ってのものだった。
肩に感じる重さ、すっと抜けたような吐息。
“何か”を抱えているのに、それを言葉にできないでいる彼女。そんなヨルのすべてを、ただ受け止めたかった。
レオはゆっくりと彼女の手の上に自分の手を重ねた。指先が重なる感覚で、心の奥の孤独ごと、包み込むように。
ヨルはゆっくりと瞼を上げると、その黒く澄んだ瞳をレオへと向けた。重ねられた手に視線を落とし、彼の目を見るために少し身体を離す。
正面から真っ直ぐに見返す彼の瞳には自分だけが映っている。その事実に安心すると同時に、尽きることのない貪欲な自分の愛情に少し眉を寄せた。
「……キス、していい?」
レオはほんの一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
その表情があまりに真っ直ぐで、あまりに綺麗だったから。普段なら揶揄うように言葉を返してしまうかもしれない。けれど今は違った。
「……おまえが望むなら、何度でも」
小さく頷くとヨルの頬に手を添え、そのまま滑らせて、顎先を優しくすくう。
そのまま顔を近づけて、ゆっくりと、時間をかけて、彼女の唇に触れた。
深くも、激しくもない。
ただ“確かめ合うため”の、静かなキス。
離れ際、唇が名残惜しそうに微かに震えた。彼女の睫毛は瞳の奥を隠すように伏せられている。
「……レオ」
ヨルはもう一度、彼の名前を口にした。視線を交わさないままに、彼の胸へ額を預けて深く息を吐いて。
「きみは私が怖くないの?」
その声はくぐもっていたが、少し震えているのがわかった。出自も解らず、記憶も持たない自分の存在。そして、相手を壊してしまうほどの愛情を向け続ける自分の感情に怯えるように。
レオの腕が、そっとヨルの背に回る。
抱きしめるというより、彼女の不安が少しでも逃げないように、静かに留めるような強さだった。
「怖くないよ」
すぐにそう言葉にせず、胸の奥にひと呼吸を溜めてから答えた。彼の声はいつも通り低く、けれど驚くほど優しかった。
「たしかに、おまえの愛情は……強すぎるくらいだと思う」
そう続けながら、そっと彼女の髪に指を通す。
重ねられた時間の中で何度も触れてきた髪。けれど今はただ、その温もりを確かめるように。
「けど、俺にはそれが必要なんだ」
ヨルの額に触れるように、彼の頬が寄せられる。ふたりの呼吸が混ざる距離で、静かに、真っ直ぐに言った。
「おまえがいなければ、俺は生きていけない」
言葉を選んでいるわけじゃない。
レオにとってそれは“真実”以外のなにものでもなかった。
「だから怖くなんかない。むしろ、もっと欲しいと思ってる」
少し笑ったような気配がして、それから小さな囁きが落ちる。
「おまえが俺を求めてくれるなら、それだけでいい」
ヨルはその言葉にゆっくりと息を吐いた。顔を上げて鈍く光った彼女の瞳の奥は、相変わらず恐ろしいほどに冷たい。
「私はきっと、きみに普通の幸せをあげられない」
胸に添えられた手が、静かにレオを後ろへと押し倒す。背もたれを滑り、肘掛けに彼の背中が付くと、ヨルは膝を割り入れた。
「……それでもいいの?」
見下ろす彼女の表情には、驚くほど何もこもっていない。ただレオだけを見据え、彼だけを求めている。そこに感情は必要としていないようだった。
レオは押し倒された体勢のまま、どこも力を入れずにその視線を受け止めていた。
熱も涙もないその静かな黒い深淵に、彼は息をひとつだけ吸って、ゆっくりと吐いた。
「……ああ」
応える声は短く、だが、芯があった。
「普通の幸せなんて、とうに望んでいない」
言いながら、彼は自分のシャツの裾にかかるヨルの指先を探すように、手を伸ばす。震えも躊躇もないその手で、彼女の手を取った。
そして、その手の平に唇を押し当てる。
「おまえといるだけで、十分すぎるくらいだ」
薄く目を細めながら、じっと見返す。
「それでもまだ足りないなら、全部くれてやる。心でも、身体でも、名前でも……全部、おまえのものにしていい」
言葉の途中から、感情が混ざり始める。
静かな声の奥にあるのは、圧倒的な執着と、決意。レオの本質とも言える、激しい独占欲が滲んでいた。
「だから、俺だけにその感情を向け続けてくれ、」
唇は柔らかく彼女の手に触れたまま、ヨルの名前を呼ぼうとして、一瞬だけ迷う。自分の答えが彼女を苦しめていないか、確認するように。
ヨルは手の平に伝わる温かな感触に目を伏せた。反対の手を彼の顔の横に置くと身を寄せる。彼が触れている手を頬へと滑らせて、空いたその場所へそっと唇を重ねた。
それは先程と違い許可など必要としない、一方的な口付け。彼女は何度も角度を変えて、何かに縋るように彼に触れていた。
レオは重ねられるキスを、ひとつひとつ、まるでその全てを迎え入れるように受け止めてくれる。押し付けるでも、返すでもなく、ただヨルの心が沈む場所として、黙ってそれを抱いて。
「……私と会ったこと、後悔してない?」
ヨルは少し乱れた呼吸のまま、離れた距離を埋めるように額を合わせると、瞳を閉じて問いかけた。
彼は、問いにすぐには答えなかった。
ただ彼女の呼吸を感じる距離で、そっと手を伸ばして、ヨルの背をゆっくりと撫でる。
「……後悔してるなら、今ここにいない」
低く、穏やかで、そして揺るぎない声だった。
「でも……会わなければ良かったかもしれないと、思ったことはある」
わずかに力がこもる。
それは苦悩を知る者だけが抱く、痛みと誠実の入り混じった本音だった。
「俺じゃなければ、もっと普通に幸せにできたんじゃないかって。……おまえを歪めてしまったのが俺のせいだと実感するたびに、そう思っていた」
どれほど自分を責めたか分からない。
彼女を自分の手元に縛るその選択肢が、本当に正しかったのか、彼女の幸せを奪っているのではないかと考え続けていた。
「けど……俺はもう、おまえじゃなきゃダメなんだ……ヨル」
彼の声が、彼女の名を呼んだ瞬間、温度が変わった。
「……俺は後悔しない。これから何があっても、絶対に」
そう言葉を吐くとそのまま少し上体を起こして、今度はレオの方からそっと口付けた。
深く、強く、そしてどこまでも優しく。ヨルの全てを抱き締めるように。
ヨルはどこか嬉しそうにそれを受け入れていた。彼の熱が伝わるたびに、自分が彼にとって大切な存在であると認めてもらえているように感じて、静かに不安が埋められていく。
彼も彼女も、この感情が異常であることを認識している。傷つけて奪って自分だけのものにしたい。そんな歪んだ闇の中で、見せかけの平穏を保っている。いつ崩れてもおかしくないバランスで互いに感情を押し付け合って、それでも幸せだと誤認し続ける。
「レオ……愛してるよ」
銀色の糸が二人を縛るように繋げて、僅かに微笑んだ彼女の表情は確かに幸せそうだった。
レオはその笑顔を見つめながら、静かに目を細めた。それがどれほど脆い幸福でも、どれほど歪んでいても──彼にとっては確かに、世界で一番欲しかったものだった。
「俺も……愛してる」
噛み締めるように、低く言葉を落とす。
彼の声には、焦がれるような熱と、言葉だけでは伝えきれない苦しみと願いが宿っていた。
「おまえを失いたくない。……たとえ壊れても、絶対に手離さない」
正しさも、常識も、道徳も──すべて投げ捨てても構わないと、彼は本気で思っていた。
彼女が手を伸ばせば、たとえその先に破滅が待っていても、構わず手を取りにいく。
「おまえが“愛してる”って言ってくれるなら、それだけでいい」
そう言って、再びヨルを腕の中に閉じ込める。
息が詰まりそうなほど、強く、深く。
誰にも奪われないように、誰にも見せないように。
その夜、ふたりの影はソファの上でひとつに重なって、言葉よりも先に想いのすべてを伝えていた。
──たとえ壊れても、互いを選び続ける。
それがふたりにとっての、唯一の“平穏”だった。