服毒
54.『因縁』(1)
風が冷たくなってきた休日の午後。
リビングに差す斜めの陽光が、ヨルの袖口に落ちる。その時、ふとした仕草で彼女の手首が覗いた。
──赤い跡。
レオは瞬時に目を留めた。まるで誰かに強く握られたような、擦れた痕がそこに確かにあった。だが、ヨルは何も言わず、何事もなかったかのようにすぐ袖を直す。
「……ヨル」
低く絞るような声で呼びかける。
その瞳は、彼女の手首を見逃してはいない。
「その跡、どうした」
ヨルはその問いに少し目を伏せたが、すぐにレオへと視線を返した。
「何でもないよ」
ローテーブルに乗った空のグラスを手に取ると、自然に立ち上がりレオから距離をとった。これ以上踏み込まれないようにするために彼に背を向け、キッチンへと足を進める。
「腕時計が合わなかったのかも」
自分でも気づかなかった、とでも言うように素っ気ない返事。その声に動揺はなかった。
だがレオはその一言を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「……嘘だな」
レオの声は、低く落ち着いていたが、いつもより数段温度が低い。ゆっくりと立ち上がり、グラスを洗うためにシンクに向かうヨルの背へと近づく。
「隠すな……」
声を荒げることはない。ただ、じわじわと体温を上げるような怒りと焦りが、その言葉の端に滲んでいた。彼女の背後に立ったまま手首を取ろうとする。だが触れる直前で指先が止まった。
「誰にやられた」
問うたその声には優しさではなく、明確な怒りが滲んでいた。
そして、その怒りは“相手”に向けたものだけじゃない。自分に黙っていた彼女にすら、痛むほどの執着が芽を覗かせている。
「誰でもないよ」
ヨルはグラスをシンクに並べると、袖を捲り僅かに赤みの残る皮膚を彼の前に晒した。明らかに腕時計で出来たものではないとわかる跡だが、彼女は平然と言葉を続けた。
「……痛くないもないし、きみに心配させたくなかったから言わなかっただけ」
ヨルは口角を上げていたがその瞳の奥には何かを隠していた。
レオは黙ってその腕を見つめた。
晒された皮膚に刻まれた赤い痕、その細い手首が、自分以外の何者かに強く掴まれていたという事実。
ゆっくりと、だが確実に、彼の中の何かが軋みを上げていた。
「……それは俺が判断することだ」
噛み殺すような声。
彼女の嘘も、笑顔も、隠しているすべてが今は苛立ちに変わっていく。
「……なぜ嘘を吐く」
その声は、かすかに掠れていた。怒鳴るでもなく、詰め寄るでもない。ただ、目の前のヨルの嘘を見透かした上で、静かに、しかし確実に怒りを孕んでいた。
「俺のものに、勝手に触れたヤツがいるなら――そいつに、“代償”を払わせないといけない」
ゆっくりと手を伸ばし、ヨルの手首をそっと取る。指先が赤みを帯びた箇所をなぞるように撫でた。優しさよりも、確認するような、確信に変わるような静かな動作。
「……誰に、どこで、何をされた?」
そう問いながらも、その声には静かに噛み殺した怒りと独占欲が混ざっていた。“何でもない”という言葉の奥にある、“俺に触れさせたくない何か”が、レオの理性を静かに削っていく。
そんな彼の様子にヨルは目を伏せると、小さく息を吐いた。この状況を収めるために、静かに思考を回して。
「……昨日、買い物帰りに知らない人に呼び止められたの。彼女も人違いだったみたいで直ぐに謝ってくれたし……レオが怒るようなことは何もなかったよ」
表情は変わらない。レオに触れられている自分の腕に視線を向けながら、ヨルは事実のように言葉を紡いだ。
レオの指がぴたりと止まる。
「……知らない奴?」
その言葉を繰り返す彼の声は、掠れるように低く落ちた。ヨルの平坦な語り口が、まるで“事務的な報告”に聞こえて、思わず苦笑が漏れる。
「……なぁ、ヨル」
低く落ちた声には、明らかに何かが引っかかっている様子が滲んでいた。
「じゃあ、なんで隠した?」
言葉の切れ端が、少しずつ棘を帯びていく。怒鳴りもしない、感情を露わにしないぶん、冷静すぎる声音がかえって危うさを孕んでいた。
「おまえに触れた奴が、“偶然”であろうと何だろうと、俺は……その跡を見るだけで頭の中が真っ白になるんだよ」
そして、やっと目を上げて、ヨルの黒い瞳を見据えた。
「誰にも、触れさせたくない。たとえそれが、一瞬でも、勘違いでも、そんな理屈、関係ない」
その瞳に宿っていたのは、嫉妬でも怒りでもなく、狂気すれすれの独占欲だった。手首をつかむ力は強くない。けれど、逃げられないようにするには十分な圧をかけている。
「言えよ、ヨル。なぜ話さなかった」
どこか静かに、しかし確実にレオの“理性”が軋みを上げていた。
「こうやって心配させたくなかったから、ただそれだけだよ」
彼の怒りの矛先が触れられた事実ではなく、嘘をついた自分へと向けられたことを感じ取る。このまま、さっきの説明を彼が飲んでくれればそれで済む。
「……ちゃんと話さなくて、ごめんね」
この謝罪は決して嘘ではなかった。
レオはその謝罪を聞いても、すぐには返さなかった。
彼女の手首を支える手に、微かな力がこもる。けして強くはない。けれど、離せないという意思がそこに滲んでいた。
「……謝るな」
低く、息を混じらせるように吐き出した声。
目を伏せて、しばらく黙ったまま、彼はヨルの手首に口づけた。
ゆっくり、跡の残るその赤みに唇を重ねる。
「誰に何されたかなんて、正直どうでもいい。おまえが何も言わずに、こんなふうに傷を隠してたことが……一番、苦しい」
そして静かに顔を上げた。
目の奥は静かに揺れていた。
「俺に、全部見せてくれよ。怖くても、重くても……そういうのを、俺は受け止めるために隣にいるんだろ?」
静かな怒りと、圧倒的な寂しさが混ざっていた。ヨルを疑っているのではない。ただ彼は、何も知らずに彼女の痛みを見逃すことが怖かった。
「俺にとっておまえは……命より重いんだ」
その声は、誰よりも不器用で、誰よりも切実だった。
ヨルはそっと彼に触れると優しく抱きしめた。安心させるように背中を撫でて。
「ごめんね、レオ」
謝るなと言われたが、口から溢れたのは何かを埋めるための謝罪だった。真実をちゃんと告げられないこと、これから自分がしようとしていることも同じ様に彼から隠すこと。
「きみのこと、大好きだよ」
レオはその抱擁を受け入れたまま、目を閉じた。背中に感じるヨルの手のひらの温もりが、静かに彼の胸の痛みを和らげていく――はずだった。
けれど。
「……まだ、何か隠してるだろ」
低く、穏やかなのに、鋭く心の奥に突き刺さる声だった。
レオはヨルの肩に手を添えて、ゆっくりと距離を取った。けれど、その瞳はまっすぐに、逃がさぬようにヨルの目を見つめている。
「……ヨル」
その声には苦しさが滲んでいた。信じたい。信じてる。けれど、それでも、どうしても胸の奥で引っかかる「違和感」が、レオを締めつけていた。
「……俺に言えないことが、あるのか」
優しさよりも、哀しさよりも、深く――執着に近い確信が、そこにはあった。
「……あるよ」
ヨルは言葉と共に笑みを消した。それは、ほんの一瞬だけだったが、彼女の本質が垣間見えたかのようだった。
「でも、私を信じてるなら、追求しないで」
そう言った彼女には、いつもの穏やかな笑みが戻っている。そしてレオが離した距離を縮めると、彼の頬に軽く唇を落とした。
「お昼ごはん、食べよ」
いつも通り、彼女は変わらぬ姿でレオに呼びかけていた。レオは、頬に触れた微かなぬくもりを受け止めながらも、すぐには動かなかった。
「信じてる」
吐き出すように、けれど真っ直ぐな声でそう答える。信じている。それは本当だった。
「だからこそ……怖いんだ」
彼は視線を落とし、ヨルの細い指先を取る。その指に、自分の手のひらを重ねるように包み込んだ。
「おまえが俺に見せない顔のほうが、きっと“本物”なんじゃないかって、たまに思う」
静かな言葉だったが、その中には痛みも、戸惑いも、確かな執着も混じっていた。
追い詰めたくない。でも、逃がしたくもない。
そうして一拍の沈黙のあと、彼はふっと目を細めた。
「……飯、作りすぎるなよ。」
その一言で、張り詰めていた空気を切り替えるように。いつもの口調に戻って、ヨルの手を引いた。
けれどその背中には、ずっと変わらない問いが刺さっていた。
――彼女が隠しているものは何か。
それが自分の理性を、いつ壊すのか。