服毒

59.『因縁』(6)


電気の消えた部屋。
月明かりだけが僅かに入るベッドの中で、静かに抱き合う二人。流れた涙でまだ頬は濡れており、互いを離すことに恐怖を抱いていた。

だがそれでも、彼らにとってそれは穏やかな時間で、眠りにつかないままに言葉を重ねていた。

「……ねえ、レオ」

ヨルは自分を抱きしめる彼の腕の温度を感じながら、彼の名を呼んだ。ほんの少しだけ、引っかかっていたあることを確認するために。

「なんで施設でのこと、私に話してくれなかったの」

内藤の悪事を暴くためにレオが起こした暴力騒動。ヨルは今回初めて自分の手で彼の過去を知った。全てを話せと問うつもりはないが、彼が自分に伝えてくれなかった理由だけが気になっていた。

レオはすぐには答えなかった。重ねた腕の力も緩めず、ただヨルの額にそっと唇を落とす。

「……聞かれなかったから、って言ったら、ずるいか?」

その声は、どこか申し訳なさそうで、けれど少しだけ苦笑していた。

「おまえには、ちゃんと笑ってる過去だけを渡したかった」

彼の声は低く穏やかで、月明かりに照らされた天井を見つめながら続ける。

「俺の中で、あの出来事は“守れなかったこと”の象徴なんだ。正義感とか、信念とか、そんな綺麗なものじゃなかった。……ただ悔しくて、怖くて、必死だった。誰も信じてくれなくて、子どもの力じゃ何も変えられなくて……」

言葉がゆっくりと滲む。まるでその日の記憶が再び、静かに胸に広がっていくように。

「そんな自分を、おまえに見せたくなかったんだと思う。……ちゃんとした人間でいたかったんだよ」

ヨルの髪に頬を寄せながら、レオは少しだけ息を詰めた。

「……でも、結局は隠しきれなかったな」

その言葉には、どこか苦い安堵が混ざっていた。

「おまえに知られて、よかったのか悪かったのか……それはまだ、答えが出ない。でも、今こうして隣にいられるのなら、それだけでいいと思ってる」

そっと、ヨルの頬を親指で拭う。涙の跡が冷たく、胸の奥がまた少しだけ締め付けられた。

「……ごめんな、話せなくて」

頬に触れる彼の優しい指先に微笑みながら、ヨルは小さく息を漏らした。

「……そっか」

それは責めるような声ではなかった。ただ、今改めて伝えてくれたことに対する、感謝のようだった。

「そばに居たかったな……小さなきみの隣に」

届かない彼の過去に手を伸ばすように、そう呟いた。言葉が届かず、辛く苦しんでいた幼い彼に、自分が触れられていたらよかったのにと、ヨルは僅かに眉を顰めていた。

レオはその呟きに、喉の奥で短く息を詰めた。

瞼を閉じて、その情景を想像する。あの頃の自分に、ヨルの声が届いていたら──と。どれだけ救われただろうと、心の奥底で思う。

「……そばにいてくれたら、もう少しまともに育ったかもな」

淡く笑いながら、額を彼女の額にそっと重ねる。

「でも……」

そこで一度、言葉を切った。

「今、おまえが隣にいてくれてる。それだけで俺は充分だよ」

抱き寄せる腕に少しだけ力がこもる。
肌の温度、柔らかな髪、鼓動の重なり。どれもが「今ここにある」という確かな証だった。

「……ありがとな、ヨル」

それは本音だった。すべてを知っても尚、ここにいてくれることが、どれほど心を救っているか、言葉にできないほどに。

心地の良い彼の腕の中で、ヨルは自分の手首に視線を落とした。

「……あの人、レオの過去を歪めて私に話してきたの。きみが暴力事件を起こして、自分は冤罪でクビになって苦しんだんだ、って」

もう赤みが引いて何の跡も残らない手首だったが、掴まれたあの嫌な感触だけは記憶に残っていた。

「レオ以外が私に触れたこと、きみが感じたのと同じくらい私も嫌だった」

握られた赤い跡を見て、彼が怒りを露わにしていたことを思い出し、少し笑ってそう言った。あの男が耳元にかけた息も、腰に添えられた手も、全てが不快だった。

「でも、それよりも、あの人がきみの過去を汚すことの方が許せなかった」

レオの喉が、かすかに鳴った。
怒りでもなく、悲しみでもなく、何とも言えない感情が喉元までせり上がってくる。

「……そうだったのか」

低く落とした声は、どこか悔しさを滲ませていた。内藤が、自分の過去を捻じ曲げてヨルに吹き込んでいたという事実が許せなかった。

だがそれ以上に──

「おまえが……俺のこと、信じ続けてくれたことが、何より救いだよ」

ヨルの手首に視線を落とす。もう跡はない。だが、そこに触れると、自分の中にまだ熱を持った怒りが渦巻いていることを自覚する。

「おまえに触れたあいつが、ただ“存在している”だけで……殺意が湧いた」

囁くように言った言葉は、あまりに率直で、あまりに静かだった。

「……本当は、俺の手で殺したかったよ」

けれど、おまえがやった。
俺の代わりに。俺の手を汚させないために。

レオは目を伏せ、ヨルの額にそっと唇を落とした。

「……だからもう、苦しまなくていい。おまえのやったこと、俺が全部背負う」

それがどんな形であれ。
たとえ正義じゃなくても、道を外れても。
彼女のために、自分のすべてを差し出すことに、もう迷いはなかった。

「……レオ、私は確かにあの人を消そうとした。でも実際に死んでしまったのは、本当に“偶然”」

レオが抱えようとする罪を軽くするように、彼女は己の嘘を僅かに開いた。

「お酒を大量に呑んで、大雨で冠水しかけた地下鉄に向かって、偶然足を滑らせて、人通りの少ない場所で発見が遅れた」

それは彼女の計画でもあり、紛れもない事実でもあった。

「私は気分良くお酒を呑めるようにして、あの階段に導いただけ」

直接手を下した訳ではない。ただ綿密に下調べをして思うように動かしただけ。

レオは黙って、ヨルの言葉を聞いていた。
怒りでも驚きでもなく──ただ、深い理解に満ちた沈黙だった。

「……そうか」

その声はあまりにも静かで、凪いだ湖面のようだった。ヨルの言葉の裏にある全ての意味を、彼はすでに察していた。誰かを殺すという結果をもたらしたのは彼女の手ではない。
だが、その場所に“導いた”のは確かに、彼女だ。

「……それでも、俺の中では変わらない」

低く、掠れるような声だった。
責める気配は微塵もなく、ただ、その事実を胸の奥で抱え込もうとする声音。

「偶然じゃなくていいよ、ヨル」

レオはそっとヨルの髪に指を絡め、顔を寄せた。耳元に落とす囁きは、祈りのように震えていた。

「おまえがやったことを否定しようとは思わない。正当化もしない。もう、“正しくあること”に、価値なんて見出せなくなってるんだ」

冷たい階段で、誰にも見られずに死んだ男の末路。ヨルの導いたその最後を思い描いても、何も胸が痛まない。

「……俺が手を汚さなかった分、おまえが全部背負ってくれた」

その重さを思うだけで、胸が焼けるようだった。

それでも。
だからこそ──

「……愛してるよ、ヨル」

囁きながら、彼女を抱きしめる腕にほんの少しだけ力がこもった。その温もりを手放さないように、確かに彼はそう言った。

「……レオ」

ヨルはその名を呼びながら、どこまでも真っ直ぐに自分を見続ける彼に苦い笑みを浮かべた。

「私も、きみを愛してる」

愛してしまっている。そう言いたげな僅かに震えた声で。

「きみの中から、私の存在が消えてしまえばいいのにな……」

レオの胸に添えられた手は弱々しく、口元に浮かべられた笑みはどこか苦しかった。

「……消させない」

レオの声は、ひどく低く、そして決して許さぬような強さを孕んでいた。胸に添えられたヨルの手に、自分の手を重ねる。掴むように、でも優しく。

「おまえがいない世界なんて、俺には無意味だ」

その言葉には一切の迷いがなかった。
脆く笑うヨルの姿を、視線で、呼吸で、そして心で否定する。

「たとえ、おまえが俺を傷つけて、壊して、どうしようもない存在にしたとしても、」

そっと、彼女の手を自分の胸元に押し当てる。
そこにあるのは、確かに鼓動。彼女の存在だけに揺れる生の証。

「それでも、おまえが俺の中にいない方が、よほど恐ろしい」

言葉を続けながら、額をヨルの額にそっと寄せた。

「俺が正しくあれるようにって、苦しんで……勝手に限界作って……」

でも、もう全て関係ないと言うように言葉を切った。

「おまえを選んだ時点で、もう俺は十分、間違ってるよ」

それでもなお、こうして抱き締めて、肌に体温を感じて──それを何より尊く思っている。

「……壊されてもいい。だから消えるなんて言うな。俺を“ひとり”にするな」

小さくても、確かにその声は泣いていた。
レオの狂気と愛が、ただひとつの想いに収束していた。

「……ねぇ、レオ」

ヨルは彼を安心させるように軽く唇を重ねた。ただ触れただけなのに、どこか痛みを伴うような口付け。

「それならもう、私のことを縛っておいて。……逃げないように、離れないように、これ以上きみを傷つけないように……捕まえてて」

レオはその言葉に、わずかに瞳を伏せた。
触れた唇の温度を反芻するように静かに息を吐くと、目の前のヨルを両腕でしっかりと抱きしめ直した。もう、逃げられないほどに。

「……わかった」

その声は低くて、震えていた。けれど、確かに決意のこもったものだった。

「おまえがそう望むなら……俺が縛る。絶対に、どこにも行けないように」

彼の指先が、彼女の背中をなぞる。優しく、けれどまるで印を刻むように、確かめるように。

そして、ゆっくりと距離を取ってヨルの顔を両手で包んだ。目をそらさせないように、真っ直ぐにその黒い瞳を見つめて。

「俺はずっと、おまえの鎖で、おまえの檻でいてやる」

唇の端にわずかに浮かんだ笑みは、どこか哀しく、それでいて美しい執着を孕んでいた。

「だから──おまえも、俺を離すな。二度と」

その言葉にヨルは諦めにも似た笑みを浮かべた。

「……ありがとう、レオ」

二人の痛みも苦しみも犯した罪でさえも、その声と共に夜の闇へ消えていった。
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