服毒
60.『平穏』
カーテンの隙間から射す、白くやわらかな光。
風ひとつない、まるで世界が止まったみたいな静寂の中。レオは静かに目を覚ました。
体にかかる重み――その正体に気づいて、彼は自然と息を緩める。
胸元に寄り添うように眠るヨル。
長い睫毛が影を落とし、夢の中でも眉間にはかすかな皺が残っている。
それでも今は、彼女の寝息が静かに、規則正しく、レオの鼓膜をくすぐっていた。
「……良い夢みれてるか」
隣に彼女がいる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
初めてじゃない。何度も同じベッドにいた。
でも、「全てを受け入れて」、そう言い切れる夜を越えたのは……たぶん、初めてだった。
レオは、そっと指先で彼女の頬に触れる。
少しひんやりした肌。触れた瞬間、ヨルが小さく身じろぎした。
寝ぼけてるのか、ぎゅっとレオのシャツをつかむように指を動かす。
その仕草が、たまらなく愛おしかった。
何も言わなくても“ここにいたい”と彼女は身体ごと伝えてくる。
「……大丈夫だ。どこにも行かせない」
囁いた声は、風にすら届かないくらいの微かな音。
間違ってなんかいなかった。
全てを捨てたとしても、ヨルと生きると決めたこの選択を、彼は――生涯、誇りに思っている。
再び目を閉じて、彼はそっとヨルを抱き寄せる。ぬくもりが、胸の奥まで染み込んでいく。
「……レオ」
温かく抱き寄せられた感覚で目を覚ましたヨルが、愛おしそうに彼の名を呼んだ。
「おはよう、早起きだね……」
寝ぼけた柔らかい声でそう言うと、彼女の方から彼の身体を抱きしめる。二人の間に残る空間を消してしまうように。
「……起こしたか?」
レオはそう囁いて、ヨルの額にそっと唇を落とした。彼女の髪からふわりと香る、眠りの名残。その柔らかさを確かめるように、指でゆるく髪を梳く。
「……おはよう、ヨル」
彼の声は低く、でもどこか安心したような響きを帯びていた。
抱きしめ返された腕のぬくもりに、ゆっくりと自分の体温を重ねていく。
ヨルの小さな肩に、自分の全てを預けるように。
「ずっと、こうしていたい」
ぽつりと落ちた言葉は、誓いでも、懇願でもなく。ただ心から、自然に湧いてきたものだった。
「……だいすきだよ、レオ」
夢心地の甘い声で、瞳を閉じたまま心地良い感覚に身を委ねているヨル。まるで、レオという存在そのものに安心しているようだった。
「……」
言葉に詰まった。
ただの「好き」じゃない。
そこに込められた重さが、温かさが、彼の胸を突いた。
レオは、そっと彼女に額を重ねる。
瞳を閉じたままのヨル。そのまつ毛が震えるたびに、彼の中の何かがほどけていくようだった。
「……おまえが、そう言ってくれることが、どれだけ俺を……幸せにするかのわかっているか?」
苦しそうな、けれど幸せそうな声。
言い終えると同時に、彼は彼女の頬を両手で包んで、そっとキスを落とした。触れるだけ、だが逃げ場のないほど真っ直ぐに。
「俺も、おまえが……大好きだ、ヨル」
言葉にしても追いつかない。
この感情をどう言えば伝わるのか分からない。
それでも――言葉にせずには、いられなかった。
「どうしたの、今日はいつもより声が甘いね」
ヨルは黒く冷たい瞳でレオを見据えると、寝起きのキスに満足そうに微笑んだ。昨日のことなんて、まるで夢だったかのような純真無垢な表情で。
「……おまえが、そんな顔して俺を見るからだ」
ヨルの笑顔を見つめながら、レオはぽつりと答えた。
優しげな声の奥に、微かな苦笑がにじむ。けれどその瞳は、彼女を一瞬たりとも見逃すまいとするように真っ直ぐだった。
その表情の裏に何が潜んでいるのか、レオは気づいている。夢の中の少女のような笑顔が、本当の“彼女”じゃないことも。
だけど、だからこそ、愛しい。
「どんなヨルも好きだ」
唇の端にかすかに笑みを浮かべながら、彼はヨルの頬に指を滑らせた。その目がどれほど冷たくても怯えたりはしない。
「俺はおまえの全てを抱えるよ」
指先が、彼女の唇をなぞる。
その唇が昨日、何を囁いたのかを思い出しながら。
「……無理に笑わなくてもいい、そばにいてくれるだけでいい」
そう言って、彼は再びそっとキスを落とす。
今度は、昨日の涙も、痛みも、全部肯定するような、優しいキスだった。
ヨルは離れるのが惜しいというように唇を優しく甘噛みして、距離を埋めるようにそっと彼の背中に回した腕に力を込めた。
「……ちゃんときみが捕まえててくれるから、こうやって笑えるんだよ」
昨日の約束。離れないように縛って捕まえていて、そう言ったことはちゃんと忘れていないと示す言葉だった。
レオは動けなかった。
彼女の言葉も、微かな甘噛みも、回された腕の温度も、全部が胸に焼きついて――
逃げることも、逆らうことも、もうできなかった。
「……ヨル」
囁くように名を呼ぶ。
それは確かめるためでも、返事を求めるためでもない。ただ、自分の中に満ちていく感情が名前の形をとって、自然と漏れた。
「そうか……」
苦笑混じりに呟いたその声は、どこか誇らしげだった。彼女を縛っているのが、彼自身だと気づいている。でも同時に、それを彼女が望んでいることも、ちゃんと分かっていた。
「だったら……もう二度と、離すわけにはいかないな」
そう言って、レオはそっと体を起こすと、ヨルの腕を引いた。
少し強引に、けれど拒絶の余地を与えない力で。ふたりの距離は、もう指一本分すら残っていない。
「俺のことも離すなよ」
吐息が触れるほど近くで、低く、熱を帯びた声。まるで呪いのように、ヨルの心に焼きつける。
「俺のためだけに、怒って泣いて苦しんで……笑っていてくれ」
その言葉のあと、再び唇が重なる。
執着と、愛情と、決意が全部混ざった、
壊れた者同士にしかできないキス。
朝の静けさに紛れた、誰にも見せない、ふたりだけの愛の契約のようだった。