クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
別にそれはそれで構わないのだ。
でも、彼のそばにいると言うことには強い覚悟が必要になる。
相手は次期、博堂会の若頭。補佐役など一年くらいで終わらせて自分の父親の下、二番座に就く。彼の大きな背中に背負っているのは黒い裏社会の業だ。それを少しでも肩代わりする気概が必要、と。
「撫子さん?」
「え、ああ……ごめん、考えごとって言うか」
「今から多分その話をしなくちゃならない」
「うん……」
「でもその前に腹ごしらえしないと」
眉尻を下げて優しく笑う彼の笑顔に流されてしまいそうになる。
そう、宗一郎は生まれも育ちも筋金入りのヤクザ。人心掌握どころか人を支配する技術に長けている。熊井組長が息子を名代に立てているのも修行どころかきっともう彼は相当、仕上がっている。
カフェラウンジに通された撫子たちの席は上客用にリザーブされているような景色の良い窓辺。客と客の視線が重ならないよう上手く配慮されている。
少し食べたいと言う宗一郎の提案で担当の給仕係にアフタヌーンティーセットを頼むとどちらともなく「どうしよっか」「どうしましょうか」と話を始めた。
「お父さんたちが用意したから暫く二人でゆっくりすると良い……って多分、宗君がうちに泊まった時に閃いちゃったんだと思う」
「ええ、なんとなくお酒をいただきながらそんな話もしていたんで」
「そうなの?」
そうともなればこの件、宗一郎も軽く承知をしていた事になる。
だから父親は無理を通そうとした、のかもしれない。多分今ごろ妻である母親に怒られているに違いない。熊井組の方も似たり寄ったりな筈だ。
「宗君は嫌じゃない?私から父に強く言えばどうにかで、き」
宗一郎の表情が、明らかにしょんぼりしている。
雨に濡れた子犬……子熊のような。筋肉質な大きな体をしゅんと小さくさせて少し視線を下げている仕草など本来、腹の内を見せないよう育ってきてしまった自分たちのような者の中では珍しい。
感情を出し過ぎれば下手を打つ。だから、自分の心を時に握りつぶしてしまいそうになる時もあるがしかし今、目の前にいる宗一郎は他人への干渉が少ない空間と言えども心の内側を外の場で隠していない。
下げられていた視線から少し戸惑いを含んだ瞳が上目遣いのように撫子をとらえると「撫子さん」と改めて宗一郎は彼女の名を呼ぶ。
「俺とお試しで同棲、してみませんか」
「お待たせいたしました」
意を決した宗一郎の言葉とオシャレなアフタヌーンティーセットがちょうど来てしまった。
だがそこはプロの給仕係、宗一郎が何を言ったか聞こえてしまっていたであろうに丁寧な所作で給仕と今日のサンドイッチやケーキの説明を流れるように伝え、早々に立ち去ってくれる。
撫子たちも彼らの仕事を邪魔したりしない。プロにきっちり仕事をさせなくてはならないことも弁えているが今のは完全に宗一郎にとっては偶然の悲劇だ。
「ああ……もう、俺……」
奇跡的なタイミングの悪さにますます子熊化していく宗一郎に撫子は「着る服とか取りに行かないとね」と言う。
「えっ、え、あ……良いんです、か」
「うん。宗君が良いなら私は」
「本当?ほんとに、良いんですか?」
はにかみながら「やった」と小さく笑う宗一郎に撫子はサンドイッチやケーキの乗ったセットに視線を移す。
ただ、そこに撫子の意思はあっただろうか。
小さな時からずっと、ずっと……宗一郎の事は好きで、でも他の男性の事だって気にならなかった訳じゃない。恋愛がどういうものなのかは頭で理解していても経験がない。宗一郎に素肌を見せたのも当初は彼への贖罪が混じっていた。タダで、後腐れもなく、外部に肉体関係云々が漏れようとも自分たちは許婚の仲でシようがシまいが誰にも文句は言えない体の良い……。
「宗君、サンドイッチもう一個食べられそう?」
「ええ。いただきます」
取り分けるね、と撫子の視線は取り皿に移る。
今、宗一郎の表情を見たら自分の考えが揺らいでしまいそうだったから。この『お試しの同棲』だって撫子は数日くらいのこと、としか考えていない。一応、立場が上である身としてケジメはつけようと考えてもいる。本当に彼は自分と結婚しても良いのか、と。彼の心がどこにあるのか、面と向かって問わなくてはならない。
――それは宗一郎からしてみても同じ事だった。
撫子の心が見えない。
彼女はいつも優しくしてくれるし、気に掛けてくれる言葉をくれる。耳に障りの良い声で「宗君」と呼んでくれる。ヒグマのような極道者としてではなく、一人の男として向き合ってくれようとしている。でも、本当にそれで「撫子さん」は良いのだろうか。