クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
第2話 お試し同棲生活0日目


 ――龍堂邸に宗一郎が宿泊をしてから三日後のこと。
 いつも通り撫子は持ちビルに入っている不動産屋フロアのちょっとした個室に詰めていたのだがスマートフォンに一つのメッセージ通知が入る。送り主は父親だった。
 普段あまり使われる事の無いアカウント。何か急用でも、と心配になってメッセージを確認しようと画面を指先でタップした途端、撫子は目を見開く。
 送られてきたメッセージには『お父さんたちが用意したから暫く二人でゆっくりすると良い』の文面。追記するように洒落た部屋の画像が送られてきたが明らかにそれはどこかのハイグレードホテルか、似たようなレベルの賃貸マンションか。
 それに『暫く』とはなんだ。ホテルなら二、三泊がせいぜいだろうが自分が知る父親はそんな短い期間など設けたりしない。

 撫子は私用のノートパソコンを仕事用のバッグに押し込み、席から立つ。そして同じく私用のスマートフォンを握り締めて個室から出るとすぐ近くのデスクにいた男性従業員に声を掛ける。

 「ごめん、ちょっと“家の用事”で今日はこのまま帰ってこないかもしれない。後を頼んで良いかしら」

 従業員は基本的にヤクザ、と言うよりは父親直属の部下に近い。彼女が珍しく『家の用事』と言うからにはよっぽどの理由が無い限り拒否する権利は彼らにはない。

 「御苦労様です。あとはお気になさらず」
 「必ず埋め合わせするから、宜しくね」
 「じゃあ鰻が食いたいッスね~」
 「はいはい、分かった。行ってくる」

 慌ただしく外に出てゆく経営者を見送るオフィス内の者たちは「俺、鰻より肉」や「私もー」と口々に、早速とばかりに撫子が埋め合わせとして買ってくれるランチをどうするか、話に花を咲かせ始める。
 定期的に良い昼飯をおごってくれる彼女は口うるさいことはあまり言わなかった。何より撫子は立場的には出社しても遊んでいていい身分だが彼女も他の従業員と同じくらい、時には従業員以上に働いている。

 龍堂の娘だからと驕ることなく、スジの通った面倒見の良い若手女性社長は皆から信頼されていた。
 そんな龍堂撫子は自社ビルの一階に入っているカフェに身を滑り込ませると一番提供の早いSサイズのアメリカンを頼み、父親に電話を掛ける。

 「撫子さんお待たせしま……大丈夫ですか?」

 カフェももちろん撫子の持ち物。働いているのも世間一般的にはちょっと『訳ありだった』者たち。撫子は自分より十歳は若いような店員に名字ではなく名前で気軽に呼ばせており、エプロン姿の女の子が持ってきてくれたホット用の紙カップを手にすると「ちょっとトラブル、みたいな感じ」と困った表情を見せる。

 しかも当の父親は電話に出ない。
 そっとしておこう、と店員の女の子は撫子に「ゆっくりしていって下さい」と声を掛けて離れてくれたがこの父親の暴挙の理由は検討が付いている。

 三日前、宗一郎が泊まってくれたのがきっかけだ。

 そして自分が彼と籍を入れない事に父親は内心、焦っている。
 端から見れば自分と宗一郎の仲は悪く見えないだろうし、撫子も宗一郎の事は嫌いじゃない。素肌を見せる事を許している相手だ。

 (でも、宗君はそれで良いのか……ってホント、私の方から聞かなきゃいけないのにいつまでも先延ばしにして)

 浅煎りの酸味が効いたすっきりとしたコーヒーを味わいながら撫子はきっと同じように慌てているであろう宗一郎の方に電話を掛ける。

 「……あ、宗君」

 直ぐに出た、と言う事は彼もスマートフォンを手にしていたのだろう。

 「今、電話大丈夫?」

 彼も忙しい身とは言え電話口の向こうでは『ウチの親父からのメッセージを見たんですけど……撫子さんも?』との声に続いて『撫子さんの方も大丈夫だったら外でお茶しませんか?昼がまだだったらメシでも』と誘われる。
 会社にいるなら自分の所の車が迎えに行きますよ、と言う宗一郎に撫子も「お願い」と言うに留まった。

 ほどなくして宗一郎が乗っている方の外国産の大きな黒塗りではなく国産のセダンが横付けされ、迎えに出てくれたドライバーにエスコートをされながら撫子は車内に乗り込んだ。
 どうやら宗一郎は外資系ホテルのティーラウンジを手配したらしく、黒塗りは六本木方面へと滑るように走り出す。

 新宿からの移動だったので移動時間とも言えないような距離ではあったが撫子は父親が送って来た画像の後に更に添付されていたサイトのアドレスを指先でつつき、深く息を吸う。

 (これ、博堂の持ち物……?だから契約も何もかもすっ飛ばして)

 幾つか間に縁者の業者を噛ませる常套手段、あるいは直接ケツモチをしてやっているか。どちらにせよ、住所などをよくよく見た撫子は自分も小耳に挟んでいた博堂本部の新規事業の場所と一致しており、そんな場所を自由にどうこう出来るのは現在の博堂会会長か自分の父親か、それこそ宗一郎の父親くらいで。

 ドライバーがホテルの車寄せに滑り込むとすぐに宗一郎が出迎えに来てくれる。目立つなあ、と撫子はどうしても思ってしまうがこのクラスのホテルの場合はあまり他人に干渉をしない客層ばかりなので多少は気が楽だった。

 「撫子さん」
 「宗君はお昼食べた?」
 「ほんの軽く、ですけど撫子さんは……」
 「少し甘い物食べよっかな」

 今から話し合いをする内容からして、疲れる。
 撫子も先ほど少しコーヒーを飲んだだけだったのでケーキのセットあたりでも、と考えながら歩き出す。そして宗一郎の触れるか触れないかの絶妙な距離感のあるエスコートはどこまでも紳士的だった。女性が嫌がるようなことは絶対にしない。だからこそまわりから『ヒグマ』だなんだのと呼ばれながらも交友関係の中に女性が結構存在している。甘いルックスと彼のその優しさに好き、を越えてしまうことだって……。

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