クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
支度が出来次第、父親たちが用意したと言う博堂の持ち物のマンションへ向かうと約束をして別れてから三時間後。
十階建ての中層マンションのエントランスホール前の車寄せに一台のタクシーが到着し、撫子が降りてくる。外からでもコンシェルジュの姿が窺えたが既に宗一郎も中に並べ置かれているソファーに座って待っていてくれるのが見える。
撫子が持って来たのは大きなスーツケース二つと細々とした物が入ったボストンバッグが一つ。タクシードライバーがそれらを下ろすとすぐに控えていた宗一郎の舎弟が中から出てきて荷物を引き取ってくれた。そして撫子が抱えていたボストンバッグは「持ちますよ」と続いて出てきた宗一郎が受け取り……事情を既に把握しているらしいコンシェルジュは挨拶だけで全くと言って良いくらいに干渉してこない。
「一応、部屋は最上階みたいで……俺も今、玄関先に荷物を置いて来ただけでまだちゃんと見てないんです」
「そっか。まあ、どうなるか分からないけど宜しくね」
「あ、はい……いやあ、俺が撫子さんに迷惑かけないかどうか」
照れている宗一郎にまたしても胸がときめきそうになる撫子はぐっと堪える。この暮らしで、彼とどう向き合うかをしっかり決めなければならないのだから。
荷物を届けてくれた宗一郎の舎弟を見送り、二人は玄関から中へと入る。既に置かれている彼の荷物の横に撫子も自分のスーツケースを置いて一先ず部屋に上がれば見取り図から予想していた通り、開放感のある広いリビングダイニングキッチンがあった。
「えーっと、確か部屋は左右に分かれてて」
「うん。宗君が広い方のメインベッドルーム使って良いから」
「いや、俺なんて寝に帰るだけですし」
「……ベッドは大きい方が絶対に良いと思う。リビング左がメインで右がセカンドね」
確かに、ヒールを脱いでルームシューズになっている撫子の視線は宗一郎の肩甲骨あたり。二人でメインベッドルームを覗けばクイーンサイズのベッドが鎮座していた。
「うーん……撫子さんが言うならそうします」
「ね、やっぱりこっちのセカンドの寝室はセミダブルだから宗君には手狭だと思う」
自然と内覧会が始まっているが寝返りとか色々考えれば体の大きい宗一郎にクイーンサイズを与えずして、だ。
「宗君ならクイーンと言うかロングサイズベッドの方が良いんだけど多分、家具は全部元からの備え付けね。月極で貸出でもしていたのかしら。照明とか小物類もきちんと揃ってるし使用感はほぼ無いに等しいけど」
「撫子さんが半分仕事モードになってる」
「え、ああ……つい、癖で」
「職業病ってやつですね」
「どちらかと言うと同業だからこその粗探しよ。私の性格の悪さが滲み出る方」
そんなことない、と笑う宗一郎と撫子は手洗いも二つあることやメインのバスルーム以外にも撫子が使う予定の寝室にはシャワールームがついていたりと各自プライベートが確保されている事を確認する。
ホテルのカフェラウンジで作戦会議のお茶をしてから荷物を取りに行って、気が付けばもう時刻は夕方になってしまっていた。
「ばたばたしてたから時間が経つの早いわね」
「とりあえず荷物を広げたりしなきゃですし、早めに言っておけばさっきのウチの若い衆が小遣い稼ぎでメシを運んでくれるから頼みます?今日はもうゆっくりしましょう」
彼の根が優しいのは分かるし、話には必ずスジが通っている。舎弟をこき使っているのではなく、ちゃんとお小遣いを渡しているから何か頼みごとがあっても気兼ねないことを宗一郎は会話の中に織り込んでいた。
何を食べるか先に決める為に自然と二人はソファーに座り込んで宗一郎のスマートフォンの画面を撫子は覗くのだが……近い。必然的に寄りそうように座る撫子からいい匂いがしてしまい、宗一郎は少し身を引く。
横から遠慮なく画面をスワイプしている撫子の指先にふつふつと情が沸く。その指先は自分の指より一回りは細くて、滑らかで、秋色のお洒落なブラウンのネイルが綺麗で。
「宗君はお夕飯、パンでも大丈夫?」
「ええ、何でも食いますから」
「じゃあ今日は近くの商業施設に入ってるフードセクションのお店の牛タンシチューとバゲットのセット……どうする?三人前お願いする?」
返事をしない宗一郎に「ん?」と見上げた撫子の視線が合う。
「あ、ああ……はい、少し多めに。ついでに朝メシになるようなものも買ってきて貰いましょうか」
「そうだった。朝から呼ぶのも可哀想だし、多分同じ所に売ってるはずだからコーヒーと紅茶も。お水はウォーターサーバーがあるから良いとして」
撫子の品の良いタイトスカートから見える膝はもちろん、薄いストッキングで覆われているが宗一郎は彼女のその膝を割り開いた経験を思い出してしまっていた。大好きな人と初めて夜を過ごせた日のことは今でも大切な思い出であり、彼の欲を焚き付けるには十分すぎる記憶だった。
「あとは宗君にお願いしちゃおうかな」
「分かりました。メシが好きなヤツなので良さそうな物を見繕ってくるよう言っておきますね」
ソファーから先に立った撫子は宗一郎の下半身に若干、熱が溜まってしまっているなど知らずに自分がこれから使うセカンドベッドルームに行ってしまった。一応、ドアは開けっ放しではあるが宗一郎は一人、俯いてしまう。
今回の両家が謀った下世話な真似は撫子に対し、とても失礼な事なのだと最初は思っていた。許婚の関係である自分たちに肉体関係があるかどうかなんて親たちはけっして知りえないだろうが思惑は透けて見えている。
(俺は撫子さんが好きで……大切だから、いつか……いや、年下だからって待ってちゃ駄目なんだろうけど)
宗一郎もソファーから立ち、メインベッドルームへと向かうと運び込んでいたスーツケースや大容量のガーメントバッグを開けながら舎弟に電話を掛け、食事の用意を頼む。
そしてふと、小物の入ったポーチを見て手が止まり、大きな溜め息をついてしまった。
このポーチの中には本当に一応、もしも、撫子とそんな感じになった場合に必要な物が入っている。自分は体が大きく、売られている場所も限られていると言うか持っていないならすることもないのだが最近、欲に負けている気がしていた。撫子が笑ってくれるのが嬉しい反面、男女の仲も進展させたいと思ってしまう。それでも一人の手遊びで抜けば良いだけの話なのだが……。
「ああああ……」
大きな背中を小さくさせて宗一郎はポーチを握り締める。
龍堂邸で酒が回っていたせいで抱き締めてしまった撫子の温もりが忘れられない。思い出せば思い出すほど切なくて、たまらなくなる。