クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 悶々としながらも宗一郎は数日の生活がしやすいようにクローゼットにスーツを掛け、とりあえずリビングに戻ってみるがまだ撫子は部屋から出て来ていないようだった。
 舎弟には夕飯を頼んだし、外は暮れて行くばかりで手持無沙汰になってしまうがとりあえずソファーに座る。

 (そうだ、風呂も軽く洗って……って俺、身が持たないかもしれない)

 最初は嬉しかった筈なのに。それに、下半身にはついさっきまで熱がゆるく溜まってしまっていたが撫子に向けてしまう自らの欲の深さに後ろめたさを感じ、意気がしぼんでいく。愛したいのとベッドを共にしたいのは、違う。

 「宗君、お風呂ど……どうしたの?」

 荷物を出し終えてリビングにやって来た撫子の瞳に映るのはソファーに座って身を小さくさせている宗一郎だった。

 「俺、撫子さんの気持ちをちゃんと考えられてないかも」
 「んー……まあ私も今回の事はちょっと思う所あるの。でもね、そのお陰で腹を括った、って言ったら宗君に色々と伝わるかな」

 少し小首を傾げ、見つめてくれる撫子の表情は優しかったのだが確かな影もあった。

 「これはお試しの同棲。でしょ?」
 「そうですが」
 「大きい方のお風呂、どっちが先に入るかじゃんけんしよっか」
 「ッ、もう……撫子さんにはかなわないや」
 「きっとちょうど良かったのよ。そう考えよ?」

 互いに言わなかった事を言葉に含ませ、いつもだったら真っ直ぐに見つめてくれる宗一郎を今度は撫子の方が見つめる。
 今後について真剣に考えているのだと彼に伝わったようで一度深く頷いた宗一郎は「本当にじゃんけんしますか?」と提案し、撫子もそれに乗って拳を作り――軍配は撫子に上がった。

 ・・・

 「いや、俺は最初から撫子さんに使って貰おうかと思って」
 「私、シャワーばっかりだったから広いお風呂久しぶりでつい、長湯しちゃった」

 素の顔に軽くナイトパウダーをはたいただけの撫子がほかほかの状態でリビングに戻って来る。彼の舎弟に頼んで持ってきてもらった夕飯のデリバリー容器を片付けていた宗一郎は自分もあとは風呂に入って寝る支度を、と考えるがどうにも撫子の色気と言うか、温まっているせいで余計にしっとりとしていて甘いような、いい匂いがすると言うか。

 「残りは私が片付けておくから宗君もゆっくりしてきて」
 「はい。あ、もし眠かったら俺に構わず寝ちゃってください。今日一日、疲れましたよね」
 「うん。じゃあ……おやすみ」
 「ええ、おやすみなさい」

 あまりにも健全過ぎる就寝の挨拶。
 熱を孕んだ不埒な考えは本当に疲れていそうな撫子の姿を見ていよいよ冷め、しぼんでいく。まず体の大きさ、体力が違う。気持ちだって今日は自分も随分と掻き乱された。

 それぞれにまだすれ違う同棲生活ゼロ日目は宗一郎が風呂に入って上がって来るまでに撫子もセカンドベッドルーム、彼女が使うことになった寝室に引っ込んでしまっていた為に何ごともなく終わってゆく。

 ――翌朝、同棲一日目。
 宗一郎の欲が熱を持ったり落ち着いたり、撫子の心もざわざわとしていた昨日。撫子の社会人として普通に生活をしている朝は早かった。
 コットンワンピースのルームウェアに軽い羽織り物を着て、キッチンに立っている。
 電気ケトルで湯を沸かし、昨日頼んでおいたドリップバッグコーヒーをとりあえず一杯分だけ淹れるが宗一郎はまだ起きて来ていない。

 中層マンションの最上階、景色も悪くないな、と撫子はコーヒーを片手にリビングのソファーに座る。
 広いリビングに見合う大型テレビの音はごく小さく、撫子は仕事用のスマートフォンの画面を指先でととと、とタップしながらグループチャットにメッセージを送っているとメインベッドルームの扉が開いた。

 「おはよ」

 朝の日差し、コーヒーのいい匂いとソファーにゆったりと座っている部屋着の撫子が宗一郎の視界に入る。

 「お早うござい、ま」
 「まだ眠そう」
 「ん゛……ん……そんなこと、ないです」

 笑う撫子につられて宗一郎も眉尻を落とすが彼の朝の姿を見るのは久しぶりだった。昨晩は特に何も無く、それぞれに就寝してしまった。もとより疲れていたから宗一郎から誘われない限り撫子は距離を置いてしまったのだが……。

 寝起きの宗一郎はくしゃくしゃのツーブロックの髪にゆったりとしたスウェットパンツ。タイトな黒の肌着からは少しお腹が見えそうで。

 「宗君もコーヒー飲む?」
 「いただきます……」
 「本当に大丈夫?まだ寝る?」

 起こしてあげるけど、と言う撫子に頭を横にふる宗一郎は「ドキドキして眠れなかった」と言ってしまった。
 しかし、寝起きにしてはかなりはっきりと言っている。

 「あ゛……あ……あああああ!!」

 今、自分は何を口走ったのか。寝起きの意識のゆるさからあまりにも正直に……両手で顔を覆って身悶え始める宗一郎の頬がみるみるうちに赤くなっていく。

 「ふうん。宗君はドキドキして……ふーん」
 「撫子さんやめて、恥ずかしい、婿に行けない」

 本当に頬を赤くさせている宗一郎を見た撫子は少し多めに息を吸い込んだ。

 「じゃあ恥ずかしがってるついでに……今夜、する?」

 面と向かって、正々堂々と男女の夜を問われることなどあるだろうか。撫子の眼差しは真っ直ぐ宗一郎に向けられているが精一杯の言葉を投げかけられているのだと彼にも分かった。
 朝っぱらからとんでもない問答をしているがスジが通らない事はしたくない彼女の気概には嘘偽りなく答えなくてならない。

 「……したい、です」
 「分かった」

 ふ、と撫子の雰囲気が変わった気がしたが「私、今日は昼で上がって来るから夕飯の買い出ししてこよっか」と言われて「お任せします」と宗一郎は答えるしか出来ない。

 「うう……撫子さんの方が男気があるって」
 「よく言われる」

 そうは言っても強がりの割合の方が本当は多いなど誰も知らない。

 「宗君がたまにスキンシップをしてくれるのは嬉しいの。何て言うかほら……私、あんまりそう言うの上手くできなくて」

 ソファーから立ってキッチンに回り、電気ケトルのスイッチを入れる撫子は「だから私もいろんなこと、試してみようかなって」と宗一郎の分のカップを軽く洗う。

 「朝からとんでもない話をしちゃってごめんね」
 「そんなことないです。俺、撫子さんのそう言う所が好きだから」

 頬が赤い宗一郎の真っ直ぐな瞳が撫子をとらえ、彼女もそれをそらさなかった。
 とりあえず顔を洗って軽い身支度を済ませた宗一郎にコーヒーを渡した撫子は手際よく、昨日近くの商業ビルのフードセクションで買ってきて貰っていた朝食になるようなパン類をダイニングテーブルに置き、自分が朝の出勤の支度をしている間に食べて貰うようにする。

 宗一郎は好き嫌いなく何でも食べるので置いておけば勝手に選んでくれると思った……のだが。
 着替え、メイクをして出て来た撫子は一個しか食べられていないパンを見る。あんな話をしてしまったから食欲が、と心配になるが宗一郎も着替えて部屋から出て来た。

 「撫子さんの好きそうなパンだったから俺が食べちゃうのもな、って」
 「食べられて怒ったりなんかしないわよ、子供じゃあるまいし」
 「だって……これとか特に撫子さん好きでしょ」

 スラックスにワイシャツ姿の宗一郎の子供っぽい物言いに撫子は笑ってしまう。

 「確かに好き。それなら私、食べちゃっていい?」

 ぱああと表情が明るくなる宗一郎はうんうんと頷く。
 さりげなく気が使える真摯な面はあるのに、少年の面影もまだ時折見えて。それもまた彼の魅力ではあるのだが彼の父、熊井組長はこの極道世界に身を置くには危うさのある息子の気質をどう見ているのか。
 撫子とて利権の甘い汁を舐めている。酸いも甘いも、飲み込みがたい苦味さえ知っている。宗一郎の立場ともなれば泥さえ啜らされることもあると言うのに。

 熊井組長も息子だからと甘やかしてなどいないのは知っている。
 むしろ熊井は博堂会にとって必ず取り込んでおかなければならない存在だったなど宗一郎は知っているのだろうか。いくら龍堂と熊井が古くから兄弟盃を交わし、密月関係であっても熊井の系譜は武闘派じゃない。

 言うならば、狡猾。

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