クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
撫子はよく父親から「熊井にしてやられた」と冗談交じりに愚痴を聞かされていた。父親は笑い飛ばしていたがこの自分の『許婚』の件については組の繁栄のほかに理由があったのかもしれない。
どう転んだって極道者の父親の心眼は熊井一族の何を見ていたのだろうか。
極道の繁栄を越えた――龍堂が主権の縄を熊井の首に掛け続けるために宗一郎の婿入り、そして組の吸収を企てた?だとしても、だ。それを熊井組長が認めただなんて。
(熊井の血を継いでいる宗君に龍堂の私が疑心暗鬼になるのは必然で……お父さんだって何か考えがあるのだとしても、宗君本人の表裏の少なさがかえって私に)
朝からまた色々と考えすぎてしまいそうになる撫子は気を取り直すように少し冷めてしまった残りのコーヒーを飲みながら手短に朝食を済ませる。
聞いたところ、今日の宗一郎は昼に会食の予定が入っており、午前中も組事務所の方に詰めるとの事で会社に出勤する撫子は彼の移動車での出勤と相成った。朝から今夜の予定を決めてしまったが撫子も彼のことなど言っていられない。
正直、そわそわしている。
送り届けてもらい、午前中はルーティンの業務をしていたのだが彼女のデスクがある半個室……半分、ガラス張りになっている中でいつも冷静な撫子のどこか落ち着かない様子を従業員たちは目聡く見ていた。
昨日も『家の用事』で昼過ぎに上がって行ったが「今日も昼には上がるから後は任せるね」と言われているどころか明日は「リモートにする」と宣言されている。
(私も、なんであんなこと言っちゃったんだろ)
言い出したのは自分であると言うのになんと情けない、と撫子は進みの悪い仕事を珍しく投げた。別に投げようとも拾ってくれる部下はいるし、撫子の日常業務は他の従業員のバックアップ専門だ。経営者としてしゃしゃり出過ぎず、そこに居たらまあまあ便利な役程度に留めている。
もう仕事に手を出さない方がいい、とビジネスチェアから立って個室から出ると近くのデスクにいたいつもの従業員に「今日、駄目な日かも……」と自分の状態を伝える。
すると間髪入れずに「でしょうね」と言葉が返って来た。
「後のこと、頼んで良いかな」
「マジで働き過ぎなんじゃないですか?二、三日フルリモートでも」
「うん……予定変更あったら早めに送っておくから、その場合もあるかもって頭に入れといて」
「りょーかいです」
そそくさとビジネスバッグに荷物をまとめ、帰って行く撫子。そしてその足でどこかデパートなり駅ビルに寄ろうかとビルのエントランスから外に出た時だった。
「こんにちは」
低くも軽やかな声音で話しかけられた撫子は一瞬だけ身構える。話し掛けてきたのは男性……彼女も知っている人物だったが新宿の雑居ビル群の背景によく溶け込んでいた。
「表向きの方で仕事があって今、引き揚げてきた所なんですが」
光岡令士……先日のクラブで挨拶と軽い会話を交わした博堂会三次団体の組の若き跡目。手にはナイロンのビジネスバッグを提げているところを見ると本当に偶然、通りかかったようだった。
新宿と言っても繁華街からは離れたビジネスビルの多い場所。似たり寄ったりな商売をしていればこうして出会うこともある。
彼の緩いウェーブの掛かった髪は数日前と変わらずにきちんと整えられ、昼間の商売に見合ったビジネススーツ姿からはしっかりとした清潔感が伺える。
「撫子さんはお一人で……お昼ですか?」
「ええ」
それは咄嗟だった。
撫子は嘘に近い言葉を言ってしまう。
「あの、もし良かったら」
どいつもこいつも、誰だってその前フリのあとに同じことを言うのを彼女はよく学習している。
「お昼、食べませんか」
自分に取り付こうとしているのか社交辞令なのかの見極めは出来ていないが光岡は後者であって欲しい、と何故か今日の撫子は感じてしまった。
どうしても付いて回る『龍堂撫子』のブランドに齧り付こうとする連中ばかりの昨今。
世情がよくない方へと向いているばかりに、裏側の自分たちが大手を表で振ろうと思えば振れてしまう。それはまるで自分たちが生まれる少し前のバブル期、まだ暴対法が制定されていなかった時のように。欲をかき、もっと良い身の置き場の確保に乗り出す連中は数えきれない。
撫子は自分の革のビジネスバッグの持ち手をぎゅっと握りしめる。
「私で良かったら」
宗一郎にも似たようなことを言った。
これは営業のようなもの。気前よくしておいた方が良い時もあるのだと。そしてこの光岡はどんな男なのだろうかと少し気になってしまったのもある。
宗一郎以外の男性は龍堂の家の者や会社、それに関する付き合いくらい。あとは博堂会直参、国見組に属する同級生の関本が目立った異性の交友関係。
もし光岡がまともだったなら、一人くらいいつもと違う人物と交流するのも悪くはない。
最近、歳のせいか考え方の視野の狭まりを感じて来ていたところ。光岡もきっとそうであって欲しい。
「光岡さんのおすすめの場所とかありますか?私いつもコンビニかうちのカフェで食べてるので」
「もしかしてこのビル」
黙って頷く撫子に光岡は貸しビルを見上げる。
「あーっと、私と言うよりは博堂の持ち物に近いので。役員に代わって管理している、みたいな」
「でも任せられているのはやはり」
「一応、変な運用とかしないのは確かですから私の会社のオフィスも入れさせて貰ってるんです。ついでに下に入れてるカフェで働いてる若い子たちには社会復帰の場を設けていて……本職のヤクザになんて金輪際関わって欲しくないから生活と言うよりもまず社会的ルーティンに慣れて貰おうと思って」
立ち話にしては込み入った事を流れるように言う撫子に光岡は聞きに回っていたが話の切れがいいところで近くのよくあるカフェチェーンに彼女を誘った。新作ランチが美味しいらしい。
こつ、と小さくヒールが鳴り、撫子は光岡と共に歩き出す。
そんな光景を見たのは撫子が今言っていたビルの一階に入っているカフェの店員である若い女性だった。仕事関係の人ならば撫子はこのカフェを利用してくれるが二人はそのまま少し立ち話をし、連れ立ってどこかに行ってしまった。
体の大きい、一度見れば忘れない熊井宗一郎ではない男性となんて珍しいな、とその時は思いながらも女性店員は窓際のテーブルを拭き始める。