クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
第3話 宗一郎の愛情の重み
光岡が誘ってくれたランチの場所は数は少ないがチェーン展開している喫茶店。そして彼が言うフレンチ風の気軽なランチは確かに美味しく、食事は終始なごやかだった。
「光岡さんでも外回りを?」
「定期的に少し顔を出しておきたい所があったので」
食後の小さなケーキとホットコーヒーを味わいながら話を聞く撫子は「私も、管理している持ち物の癖が強いので定期的に回ってます」と暗に面倒臭い物件の尻拭いをして回っている事を話せば光岡もごく普通に社会人として会話を交わす。
「撫子さんが出張れば一発で話付けられますよね」
「ええ、二度も三度もうちの社員を出すのは流石にコスパが悪いですから一応、一番上の私のフットワークを軽くしてあるんです。それにあんまり経営者がオフィスにいても邪魔でしょうし」
ね、と笑う撫子に光岡も頷いてくれる。
「私の場合、シノギ全般を親父から継いだばかりでまだ方々でナメられがちで。撫子さんに話せて勝手に少しすっきりしてしまったんですが」
「いえ、私の方こそランチに誘って貰っちゃって」
本当はあのまま宗一郎との夕飯を買って六本木の方の部屋に戻る筈だった。
「それとこの前……熊井さん、怒ってませんでしたか」
「え、ああ……大丈夫ですよ」
「あの、失礼ついでにお二人は」
ぎくり、と撫子の心は少し跳ねたが顔には出さない。
「光岡さんはどこまでご存じで……」
「いや、本当に不躾な事を」
「大体みんな知ってることですから大丈夫ですよ」
ここ最近、本格的に博堂に関わりを持つようになったと聞かされていたので光岡が撫子と宗一郎の『許婚』の関係そのものを知らないのも無理は無い。
撫子の左手薬指を彩る指輪はなく、綺麗なオータムカラーのネイルだけが指先に施してある。指輪のあとすら見受けられない。
「えっと、事実婚……?」
案外聞いて来る光岡に撫子は笑ってしまう。
「っふふ。全然まだ、ですよ。まだと言うかこのご時世で許婚、政略結婚みたいなのってどうなんでしょうね」
「いいなず、け……ああ、やっぱり博堂絡みとか」
「そんな所です」
仕事の話からプライベートな話しに移ったが撫子も光岡もデザートを食べ終えてしまい話はそこで切れてしまった。
会計は光岡に先に伝票を奪われたのと『接待費』の名目に同じ経営者でもある彼を立ててやるよう撫子も無粋に財布は出さずに「ご馳走さまです」と礼を述べる。
本当にカフェの前で解散、と言うことで撫子は「寄る所があるので」とタクシーを止めさせて乗り込んだ。
また、と見送ってくれた光岡とのランチのお陰で宗一郎にも何か洒落た物でも買って行こうとそのまま六本木駅直結の巨大商業ビルへ向かうようドライバーに頼み、車内でひと息つく。
そう言えば宗一郎も今日は昼に会食だったが彼の見た目のせいで高級肉でも食べさせられていそうなので夜はさっぱりとした……夜、は。
「ふー……」
幾らでも無い道のり。タクシーから降りた撫子は一歩を踏み出す。
自分もきっと何か変わりたい気持ちがあるのだ。だからこのお試しの同棲でどうにか心に決着を付けたい。
・・・
部屋に帰ってきてからの午後の時間は瞬く間に過ぎてしまった。
ワイシャツ以外の肌着などの身近な洗濯ものも宗一郎が大丈夫だったら一緒に洗っておく、と朝のうちに話をつけていたので彼が洗って欲しいものは洗面台の隅に置かれていた。下着もきちんと手洗いは済んでいて別に置かれている。
その為に撫子は帰って来る道すがらのコンビニで小さな洗濯ネットを数枚とおしゃれ着洗剤を買ってきており、自分の下着類も別のネットに入れて部屋に帰ってからすぐに洗濯機を回していた。
メインの洗面所に置いてあった最新の洗濯機にはデリケート素材を洗って乾かす機能もついていたし、バスルームには更に浴室乾燥機も完備で至れり尽くせり。なんなら自分の部屋より設備が良い。
(二人暮らしってこうなのかな)
日暮れごろ、そろそろ乾燥も終わるかな、と見に来た洗濯機の前。心の中で誰にも聞かれることなく呟かれた撫子の言葉。
パネルにはあと二十分程度の表示。終わるまでもう少し時間があるからその間に夕食の支度を済ませてしまおうとキッチンに向かえばカウンターに置きっぱなしになっていたスマートフォンにメッセージが一つ、届く。
それは宗一郎からの帰宅を知らせるものだった。あと三十分くらいしたら到着するとのこと。それに対してなんて返事を返したら良いのだろう、と少し悩んだ末に撫子は『分かった』とだけ送る。
「どうしよう……」
意識してしまう。
女に二言は無い。だが、久しぶりなのだ。
いや、いつも久しぶりなので気を利かせた宗一郎は自分が挿入できそうになるまで丁寧に時間を掛けてくれる。
それがどうにも恥ずかしい。彼はずっと『可愛い』とか『痛くない?』などと語りかけてくれる。あまりにも準備が整っていなければ入れる方だって多分、痛い。だからこそなのだろうけれど今夜もきっと――。
そうこうしている内に玄関のドアが開錠され、宗一郎が「ただいま」とはにかみながら帰って来てしまった。手には革の男性用クラッチバッグとお洒落な紙袋が一つ。
「おかえりなさい。まだ夕飯には少し早い、かな。お風呂はもう沸いてるけど」
「それなんですけどお酒、買って来てみました。メシがてらゆっくり飲みませんか」
どうやらゆったりとした夕食をとりたいらしい宗一郎は「俺もメシの支度、手伝います」と申し出る。
しかし二人で暮らすと言う事は、そうなのだ。たとえ出来合いでもどちらかが食事の支度をしなくてはならない。外で食べて来る以外、毎日そうなってしまう。
宗一郎は実家でしっかりと躾けられているらしく生活の一通りは的確に出来る。食事の用意もこなせるらしくとりあえず、と手に持っていたリカーショップの紙袋だけをダイニングテーブルに置いて寝室に引っ込むとすぐにジャケットやネクタイを置いてシャツ姿で洗面所に向かう。
「宗君、グラス洗って貰って良い?」
手伝う気がしっかりとある宗一郎が腕まくりをしてキッチンにやって来る。撫子も買ってきておいた惣菜などを「どれ食べる?このくらい?」と備え付けのグラスや皿を軽く水で流してくれている彼に話しかけながら夕食の支度を進め、二人一緒にキッチンに並び立つ。
「宗君の香水って男性物じゃないでしょ」
「あ、分かります?」
「男女どちらでも、の」
「ええ。少し粉っぽい感じの方が俺は好きで……あ、付け過ぎてますか」
食事をする際のマナーとして宗一郎は少し心配するが撫子は「これくらい近くないと分からないくらいだから」と言う。
「そう言えば撫子さんもあんまり」
「仕事で急に食事に誘われたり誘ったりだからね」
「俺もそんな感じです」
二人でじゃれ合うようにすんすんと香水の香りを嗅ぎ合い「変なの」と笑い出す。
撫子による朝の突然の申し出から今は夜。少しだけぎこちなさが緩んだ二人の夕飯は支度から彼が買ってきてくれた爽やかな風味のシードルをお供にメインへとゆっくりと進んでいった。