クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
宗一郎が気づいた時には撫子は体を起こして隣に座り、スマートフォンの画面を指先で操作していたが自分が起きたと知ってすぐにスリープにしてしまった。
「宗君おはよ」
「おはようございます……」
「もしかして宗君って朝、弱い?」
「んん……」
昨晩の激しさから打って変わって朝の彼は少々、子供のようにぐずり気味だった。撫子も昨日はあんなことしてきたのに、と思ったが「今日は在宅にしてあるんだけど昼にちょっと外回って来るから……夕方には帰って来る」と軽い予定を告げる。足で稼ぐ撫子の“外回り”はどこかの物件か土地でも自らが見に行く、と言うこと。仕事の話なので宗一郎も「体、しんどくないですか」と問う。
「ぐっすり寝たから大丈夫。でもお腹空いちゃったから朝ごはんの支度するね」
ベッドから降りる彼女の温もりが名残惜しいが宗一郎ももぞもぞと体を起こして朝の支度に取り掛かる。今日は組事務所の方に午前に来客があり、対応をする手筈になっていた。それなりの人物が来るのでスーツや腕時計などもそれなりの物を身に着けなくてはならない。
「気乗りしないって顔してる。今日も接待?」
「ええ、午前からなんで……二度寝して撫子さんに起こして貰いたかったな」
もう少し、撫子と一緒にベッドにいたい。
それが素直な宗一郎の思いだったのだが撫子はベッドから降りてしまう。そして昨日のことなど何でもなかったかのように、彼の言葉を気軽な冗談と受け取って笑いながら寝室から出ていってしまった。
それから暫くして、リビングの方からコーヒーの良い香りがしてくれば宗一郎のぐずった意識もやっと切り替わる。
あんなに情熱的な夜を過ごしても大人の朝は淡々としていた。
特に撫子の方は表向きの仕事があるので規則正しい生活を送らなくてはならない。たとえ夜更かしが過ぎても朝にはちゃんと起き、身支度を済ませる。
そうでもしないと身を置いているのは裏社会。不規則な生活は体どころか精神まで黒く蝕んでしまう。
今日の撫子は本来ならばフルリモート。食事などの買い物に行く時間まで外には出ずに仕事をするつもりだったのだが宗一郎には「昼から外回りに行ってくる」とあたかも仕事での外出があるかのように伝えた。
外回り、と言えばまあ似たような感じではあるのだが先ほどベッドの上でメッセージを送り返した撫子の同級生、関本と食事の予定が急遽入ったのだ。
撫子は宗一郎に対する小さな嘘の後ろめたさよりも今は関本の様子が少し気になってしまっていた。いつもはそんなメッセージを寄越さないような男からの深刻そうな文面に朝から少し眉を寄せたくらい。
予定が合うなら国見組が使っている料亭で昼に、とのこと。
それならちょっとした買い物などは昼食が終わったついでに、と撫子は考えながらダイニングテーブルについてコーヒーを飲みつつスマートフォンで今朝のニュースをチェックしている宗一郎になんとなく目をやる。
左の手首に着けられている腕時計のブランドで彼が今日、誰と会うかが大体察せてしまった。一番なんでもない日の彼はほどほどに稼ぎが良いビジネスマンが使うような一本数十万程度の堅実な腕時計を着ける。
しかし今日は違う。先日のクラブ内で出会った時と同じ外資の物だ。それ一本で良い国産車が買える。
「宗君、すごく簡単な物で良いなら明日から朝ごはんつくろっか」
「へ……」
「調理器具も包丁とか一揃えあるし、味付けもシーズニングで賄えるスクランブルエッグとか一品くらいだけど火の通ったものを」
撫子は昨日と同じように買い置きのパンに手を伸ばそうとしていた宗一郎に問いかける。
「私ね、食事を三食……朝ごはんもなるべく少しでも食べるようにしていたの。ほら、私の部屋にも小さいキッチンあったでしょ?」
「撫子さんの手料理……」
「そんな、料理とか調理とか言えるようなシロモノじゃないけど」
「しかも朝から?」
じーっと見つめてくる宗一郎に撫子は「宗君のその体だと炭水化物だけじゃ偏っちゃう気がして」と昨晩の彼の素肌に触れてなんとなく考えていたことを伝える。
これはお試しの同棲生活。自分のルーティンと宗一郎のルーティンがどう違うのかを撫子は知りたかった。とりあえず今のところ分かっているのは宗一郎の朝は若干、弱い。
「頑張って起きます」
大真面目に言う宗一郎に撫子は笑う。
「じゃあ私も頑張って作っちゃおうかな」
彼とどうやって暮らすのか。本当に手探りの朝、撫子は宗一郎から滑らかに視線を移して壁掛けの時計を見やる。関本との会食は少し早めの十一時半に入っていた。多分、料亭の口開け時間。
その時間までは軽く部屋で仕事を済ませるとして……撫子は下のエントランスに迎えが来たと言う宗一郎に「いってらっしゃい」と部屋の玄関先から見送った。
寝起き直後は接待に気乗りしないような表情をしていたが出て行く頃にはすっかり、だ。撫子が朝から手料理を、との事でむしろ上機嫌な部類。
そんなご機嫌になった宗一郎を見送った撫子は食器を洗ったり軽く洗濯物を片付けつつ、自分の仕事をする為にダイニングテーブルの方へと仕事用バッグを持ってきてメールのチェックを始める。
返信作業やら各部署の進捗の確認、上がってきている案件の確認など……指先だけがせわしなく、自分自身はじっと動かず。出掛ける前にシャワーを浴びようと席から立つ頃にはビジネス家具ではない椅子とテーブルで体が痛くなっていた。