クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
タクシーに乗り、予定時刻ちょうど。
指定の料亭に慣れた様子で撫子は入って行く。国見組がよく使っている、と言うことは博堂の者も使うわけで撫子も数回、食事をした事があった場所。
既に玄関には下足番や客室係の従業員以外のダークスーツの男が控えており、関本も到着していると告げると廊下の奥まで客室係と共にエスコートをしてくれた。
「ああ、来たか。急に呼んで悪かったな」
「別に……どうしたの?真夜中に連絡寄越すなんて珍しい」
奥の座敷は畳敷きではあったが椅子とテーブルが置かれており、撫子は客室係に椅子を引いて貰い、着席する。その目の前にはピンストライプのスーツ姿の男。髪はこざっぱりと流行りのスタイルに刈り上げ、年齢に見合う奇麗な格好をしている昔馴染みの同級生は少し吊り気味にきりっと整えられている眉をしかめた。
「あの時間、関本君だって流石に寝てる筈なのに」
「まあな」
撫子は時間的に宗一郎に抱き潰された後、ぐっすりだった午前三時。
「お前が朝早いのは分かってたから」
「んーまあ、そうだけど。それにしてもここ、国見さんの持ち物になったの?」
「相変わらず目聡い不動産屋だな」
「だって関本君の舎弟の黒服がうろついてても従業員の人たちまるで無反応だったし」
「まあなァ。昔からこの手の場所は俺たちヤクザと切っても切れねえ……ってなあ撫子、与太話はこれくらいにして本題に入らせてくれよ」
うん、と頷く撫子は用意されていた食前の冷酒の小瓶を手に取ろうとしたが関本に止められる。
「今日のお前は俺の客だ」
彼の酌によってお洒落な江戸切子のグラスに注がれたのは淡い桃色をした梅酒。いい匂い、とその香りを楽しむ撫子に手酌で自らのグラスに梅酒を注いだ関本は軽く口をつけると溜め息をついてしまった。
「撫子、アイツに詫びを入れるにはどうしたらいい」
「アイツって……この期に及んで喧嘩したの?仲良かったじゃない」
「喧嘩どころじゃねえ、ありゃあ戦争だ」
「冷戦じゃなくて?」
撫子もグラスに口を付けて風味の良さを味わいながら関本をじっと見る。
「俺が、食っちまったんだよ……まさかアイツが朝から五時間並んで買ったモンを……クソッ……てっきりアイツは自分の分を確保していたと思って」
「食べ物の恨みって怖いとは言うけど」
「しかも俺と一緒に食おうと思ってたらしいんだ」
「あーらら。別に悪気があった訳じゃないんでしょ?連絡の行き違いみたいな」
「俺たち、同棲して十周年の記念日だったんだよ。なのに俺はアイツにくれてやる物を用意し忘れた挙句に祝いの菓子を」
極道の男が菓子ひとつでここまで落ち込むことは早々無い。
そして関本は無類の菓子好き。フリーク。国見組の事務所に行くと必ず美味しいコーヒーとお茶菓子が出て来るのは彼の食への探求心のせいだった。
「それで“奥さん”怒っちゃったんだ」
「お前も知っての通り、ここ最近は忙しさを理由に構ってやれなくて……アイツとは内縁だから人一倍、いや二、三倍は大切にしてやらなきゃならねえってのに」
「じゃあ私とお昼してないで誘えばよかったじゃない。ここのご飯、美味しいし」
「無理……こええよ……」
項垂れている関本に撫子は掛ける言葉を頭の中で探す。
国見組若頭補佐、関本には内縁の妻がいた。付き合い始めたのは大学三年生の頃。その後に同棲を始めたのだが相手は撫子とも共通の友人である一般家庭の女性。その女性と撫子が友人になったのも関本が紹介をしてくれたからなのだが……どうやら二人の雲行きが怪しいらしい。
「まあ当時からヤクザの奥さんになる覚悟を決めていたくらいの子だし、関本君より心根が強いのは分かってたけど」
「ああ、アイツはつええ……だから惚れて」
「ちゃんと謝ったんでしょ?詫びを聞き入れないような子じゃないと思うけど……何か知らない内に積年の恨みつらみが」
「それが分からねえからお前に心当たりを聞いて」
そんなことで一流の料亭の懐石を奢られても、と撫子は思ったが二人は昔からとても仲が良いのを知っていたので余程の事態なのだと言うのは分かる。自分がもし、宗一郎と険悪になったら真っ先に関本たちに相談をするだろうと思うくらい、二人に信頼感もある。
「帰りが遅いとか」
「連絡は都度、出来る限り事前に入れてる」
「奥さんが作ったご飯をちゃんと食べて無い」
「食ってる」
「……下世話だけど夜は」
異性の友人関係とは言え関本も昔馴染み。踏み込んだ話を撫子からされても気にする様子もなく彼は「してねえ」と呟いた。
「でも戦争してんだ。今さら誘えるわけねえだろ」
「案外、待ってるかもよ」
「は……ンなこと」
「関本君が忙しいのも分かってるだろうし。でも本当は……寂しくなっちゃった、とか」
これは私の勝手な考えだから当てはまらないかもしれないけど、と撫子は言葉を付け足すが今度は宙を仰いでいる関本は最後に奥さんと夜を明かした日の記憶をたどっているようだった。
それくらい辿らないといけない程に間が空いて……。
「この際だがお前、宗一郎とは」
「一緒に住んでる」
「悪い冗談は止せよ」
「強制的に、一緒に住んでる。今日が二日目」
驚愕の表情を見せる関本に撫子は顔色ひとつ変えずに梅酒の入ったグラスを傾ける。
「私もそろそろ腰を据えなきゃとは思うんだけどね」
「まあ、そうだろうが……筆頭はご健勝か」
「だからその“ご健勝”のせいなのよ。私と宗君が一緒に住むことになっちゃったの」
「ああ、なんか分かるな。筆頭、言い出したらわりと」
「そう。だからとりあえず黙らせる為に……あ、でも……そんなこと言ったら宗君が可哀想、か」
物の弾みで出てしまった言葉を訂正する撫子も関本がしたように宙を仰ぐ。
「宗一郎は未だにお前のこと、子熊みてえに追いかけてるもんな」
「いい子なんだけどね」
「俺も同棲しようか考えていた時はお前に相当、相談したが……宗一郎が婿入りすりゃあ暫く龍堂の箔が鈍るようなことはねえだろう。でも当の本人たちの心中は……特にお前の腹ン中は穏やかじゃねえか」
「うん……」
「もう何年悩んでンだよ」
「軽く十年」
まあ分かるよ、と慰めの言葉を掛ける関本は気を取り直すように息をつく。
食前酒の入った小ぶりの飲み切りボトルがいい塩梅に減り始める頃には懐石料理がテーブルに並べ置かれ始めた。