クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
結局、関本とは喋るだけ喋って“奥さんと戦争をしている”らしい彼の解決策は見つけられず、撫子も自分の状況の悩みの話をして料亭での会食は終わった。
「なあ撫子」
「ん?」
帰りしな、関本の舎弟の一人が送ってくれるとの事で下足番からヒールを出して貰っていた撫子は関本を見る。
「無理すんなよ」
置かれている状況を笑い飛ばすでもない関本の真剣な眼差しに撫子は少しだけ言葉に詰まる。ごく短い間のあとの返事も「私の方こそ、いつもありがとね」だった。
顔見知りの舎弟に送って貰いながら撫子は途中、南麻布にあるスーパーに寄ってから宗一郎と暮らし始めた部屋へと戻って行った。
(ついシーズニングとドレッシングの両方を買っちゃったけど……残ったら私が使えばいっか)
物が増えちゃったな、とキッチンにスーパーの紙袋を置いた撫子は外出用の硬いビジネスジャケットからラフな格好へと軽く着替える。ブラウスとスカートは皺になりにくいウォッシャブルだから、と部屋着のロングカーディガンを着こむと仕事をする気が完全に失せてしまった体はソファーへと向かってしまった。
昨夜、宗一郎と夜を過ごすことは予め分かっていたので今日の撫子は本来休みの扱い。体力的に無理だろうと考えて仕事は端から入れていない。
本当に偶然、関本が連絡を寄越したから宗一郎に嘘に近いことを……と言うか関本に内縁の妻がいることは外部に伏せられていた。そのことについて宗一郎は知っているのか撫子も分からない。彼の身辺を調べ上げていて知っていたとしても、会話の中で関本の話が続くようなこともない。
誰かに嘘をつくのは撫子の道理に反しているがこればかりは彼女もどうしようもなかった。関本のプライベート……特にパートナーは完全にカタギなのでなるべく話は広まらない方が良い。
「ふー……」
まるで私と正反対、と撫子はソファーが電動リクライニング付きだと今さら気づき、少しだけ背もたれを倒す。環境に頓着しないせいでサイドポケットにリモコンが入っている事に気がつかなかった。
この部屋は広く、天井も高い。
まるで海外の洒落たコンドミニアム。宗一郎と暮らすならこのくらい開放感のある部屋の方が良い。彼が窮屈に感じないくらいに広くて、でも静かで落ち着いた雰囲気のある……組事務所、博堂の本部がある場所からそう遠くないこんな感じの部屋。
二人で暮らすならどんな家具を置こうか。撫子は自分の持っている知識を頭の中で反芻しているうちに快適な空調と昨晩の疲れ、関本との食事のおかげでいつしか眠ってしまった。
ハッとして起きれば手触りの良いタオルケットが一枚、体に掛けられていた。
「あ、起きちゃった」
まだ上下ともにスーツ姿の宗一郎が寝室から出て来る。
「まだ横になっていてください」
「宗君ごめん、なんにも気づかなかった」
どうやら宗一郎は撫子のことを心配して早めに帰ってきてくれたらしい。
昼の会食と買い物、昼寝を過ぎて時刻はもう四時。二時過ぎに帰って来ていたので軽く一時間は眠っていた。
「もう少ししたら夕飯の支度、俺がしますから撫子さんはテレビでも見てて 」
ここは彼の言葉に甘えてしまっても良いのだろうか。
撫子の脳裏に浮かぶ選択肢。
「お願い、しよっかな」
「ええ、何か温かい飲み物とかは」
宗一郎に甘えてみよう。
今まで撫子は送迎や食事以外のことで彼に甘えるような真似は一度たりともしたことがなかった。この『お試しの同棲』と言う免罪符で普段選びはしない方を選択すれば宗一郎はとても嬉しそうにしてくれる。
体は確かに疲れている。体の大きな宗一郎を受け止めるにはそれなりに負担はあるし、短い睡眠の後に軽く仕事をして関本と食事をして買い物に行って帰って。昼寝とは言え深く寝てしまうのも仕方なかった。無理を通すには一度立ち止まって考えなくてはならない歳の頃合い。
「着替えてからで良いから、紅茶をお願いしても」
「もちろんです」
ほんの小さなことでも撫子から頼まれた宗一郎は嬉々として着替えに向かう。あっと言う間に緩い部屋着に着替えて出て来た彼を見ていた撫子は自分はカーディガンを羽織っただけだったな、と紅茶を頼んでいる間にもっと緩い、寝間着として使っているコットンワンピースに着替え、背もたれを戻したソファーに座る。
膝にタオルケットを掛け、支度をしている宗一郎を眺めていればぱちっと目が合う。
「宗君、キッチン似合うかも」
「本当ですか?」
「なんて言って、宗君に全部お願いしちゃうとか……」
「俺は全然構いませんよ。メシの支度も、洗濯も」
撫子の為ならなんでも、の気概を見せる宗一郎はソファーの背もたれに深く背を預けてタオルケットを手放していない彼女の姿が少し心配になっていた。
女性の体のことは常識的な部分はちゃんと把握しているし、それについてはかなり個人差があるから男がむやみやたらに口出しをするのも無粋だと知っている。
(昨日、ヤっちゃったからなあ……嬉しかったからって、本当に調子に乗りすぎ)
いくら撫子とは許婚で幼馴染みでも踏み入れてはいけない場所はある。だからまずは自分から内側を見せていた宗一郎だったが繊細な撫子が今日は少し甘えてくれたのすら嬉しくて堪らない。
今すぐにでもキスの一つ……とそれが調子に乗ってるのだと自覚しつつも小さなトレーに紅茶の入ったマグカップと小包装のお菓子を山盛りに乗せ、撫子の座っているソファーへと向かう。