クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
うとうとしている撫子を指先だけで寝かしつける宗一郎は自分の下半身の方の熱をまだ持て余していた。どうしよっかな、明日とか大丈夫かな、などと不埒な考えをもやもやと抱きながらも無防備に寝顔を見せてくれる撫子に不義理な真似はしないように自身も湯上りの体が冷めたあたりで横になった。
翌朝、もぞりと隣で眠っていた撫子が起き上がり……そのことに宗一郎も気が付いていたのだが狸寝入りをしてみる。
「ふふ……かわい……」
つい口から気持ちが出てしまったらしい撫子はベッドから降りていってしまう。寝室の扉は音もなく静かに閉じられ、彼女の気遣いを知る。
(あああああ……なに、いまの……俺、可愛い?ヒグマなのに?かわいい?)
撫子が行ってしまったので広くなったベッドでごろんごろんと転がる宗一郎はぴた、と動きを止めた。
今日から撫子は朝ごはんを作ってくれる。
がば、と起きた大きな体の男はベッドから降りるとせっせとベッドの上の掛布団などを軽く畳む。枕に掛けていたタオルも撫子に洗って貰う為に回収して、その二つの枕をきちんと並べる。
「宗君おはよ」
「おはようございます」
「今日はちゃんと起きてるんだ」
にこっとする撫子の笑顔が眩しい朝。
それにまだ寝間着にカーディガン姿でキッチンに立っているのもなんとも言えず、良い。
「俺、何か手伝うことって」
「じゃあ私が軽く朝ごはん作ってる間にお風呂掃除とか」
「分かりました。着替える前にやっておきますね」
やって来た当日を含めれば四日目。
本当はハウスクリーニングを入れても良いのだが玄関にあるクロークに掃除道具やワイパー類が入っていたので今日は宗一郎が出て行ったら軽くフローリングを掃除しようかと撫子は算段をしていた。
今は彼が生活の時間を合わせてくれているが実際、自分の龍堂と宗一郎の熊井家の両親の暮らしを見ているとそうも行かない様子なのは子供のころから知っている。
全てをお手伝いさんや通いの舎弟にやらせて自分は今まで通りに働きに出続けても良いだろうし、それについては必ず宗一郎と意見を交わさなくてはならない。
(ってこれ、完全に私は宗君と暮らすこと考えてる)
彼は女の話を聞いてくれない男じゃない。
いつだって「撫子さんは?」とさりげなく聞いてくれる。
徹底した上下関係。それは親たちの育て方の賜物なのかもしれない。宗一郎もおおらかな気質のようなので上手くマッチして、今の『熊井宗一郎』が出来ているとして……。
撫子はぐっと自分の考えすぎになる悪い癖を堪えて冷蔵庫から卵のパックを取り出し、朝食のパンの添え物としてスクランブルエッグを作り始める。
そんな彼女の調理姿を通りすがりに目撃してしまった宗一郎はきゅんと胸が締め付けられて、むずむずと表情がほころんでしまいそうになるのを隠すように、何でもないように洗面所に向かう。
朝のダイニングテーブルは昨日より華やかだった。一品、ごく簡単なスクランブルエッグと昨日の残りのサラダとローストチキンの切り身がお皿に乗り、パンも少し温められて一つの皿に盛られている。
そしてまた二人は向かい合うように席に着く。
「私もね、朝が苦手だったの。夜の会食とかあった次の日なんて最悪で」
「やっぱり疲れますよね」
「うん。相手に気を遣わせてるなーって思うと余計にこっちも気を遣うと言うか……宗君でも疲れる?」
「ええ。相応と言うか人によって態度も都度、変えなきゃいけないですからね。こんなナリをしていますがナメられてもいけないし、面倒を見過ぎても図に乗られてトラブルを被る原因にもなりますから」
家名に取り付こうとする者は龍堂だけではなく熊井家も同じで、宗一郎の愚痴に撫子も頷きながら朝食を食べる。
「味はどう?加減したから薄くない?」
「美味しいです。大丈夫ですよ」
「そっか。なら良かった」
確かにテーブルには昨晩の残り物が並んでいるが宗一郎にとっては新しい感覚。撫子にとってはいつもより豪華な朝食。
彼女の言う朝食は世間一般的にごく普通のジャムトーストだったり、作り置きの温野菜を温め直して付け合わせにしたり。手抜きの日としてシリアルだけの日もあったりなど、ごくごく普通の働き世代の日々の朝食を食べていた。
「それで今日の予定なんですけど……撫子さんと買い物に行きたいって送っといたら昼からなら大丈夫とのことで昼飯がてら」
「分かった。外で待ち合わせにしても良い?少し会社に寄りたいから」
「分かりました。じゃあ迎えはビルの下で良いですか」
この予定のやり取りもスムーズになってきたような気がする撫子は宗一郎の時間に合わせるために「来てくれる時間が決まったらまた送っておいてね」と言う。
「うーん……」
「宗君?」
「なんか、こういうのなんて言うんだろう」
「業務連絡」
「もう、そうじゃなくて」
撫子の冗談に笑う宗一郎は「昼飯も近場を予約しちゃって良いですか」と問う。
「うん。お任せするね」
どこにしよっかな、と彼の頭の中にある名店のセレクトセンスは悪くないがそれは相当、宗一郎も会食をこなしている事を裏付ける。熊井組長が息子に本格的な外交をさせているのも全て、龍堂への婿入りの為の下拵えのようなもの。
また今日も宗一郎を玄関先で見送った撫子はそのままクロークにあったドライシートのついたフロアワイパーを手にするとフローリングの掃除を始める。洗濯機は既に回っているし、タオル類と寝間着を洗っているので出掛ける前までに乾燥が終わるかどうか。まあ粗方乾いたら送風の浴室乾燥でもさせておけば良い。
(フルフラットは掃除が楽ね。引き戸も下にレールの無い吊りのタイプだから広くても案外、普段の掃除は苦じゃないかも)
すたすたと慣れたように床掃除をする撫子はメインの寝室に差し掛かる。ベッドの上の二揃えの布団はきちんと足元の方にゆるく畳まれ、枕もお行儀よく並んでいる。
(夫婦になるのも……悪くない、のかな。って私がずっと結婚から逃げてたからこうなっちゃったんだけど)
父親たちによって強硬手段に打って出られたのは自分のせい。
撫子はワイパーの柄を握り締めて溜め息をつく。
「だって……言葉に出来ないんだもん……」
心の中にある漠然とした不安感。
極道の娘であり、そして次代のトップになろうとしている男の妻になる。表側で、不動産屋として振る舞っている自分と裏社会での自分の立場の間で撫子の心はいつも揺れていた。