クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
一方、宗一郎が掃除を始めた頃。会社に到着していた撫子は一階のカフェで仕事の相棒用のコーヒーを受け取っていた。朝に軽く飲んだがそれはそれ、これはこれ。
「撫子さん」
「うん?」
馴染みの若い女性店員がカップにスリーブを付けながら話しかける。
「この前、撫子さんとビルの外に居た人って」
「んー……ああ、光岡さんかな。髪の毛が少しウェーブがかった」
「そう、その人です。背のすらっとした」
「光岡さんがどうかしたの?」
「今朝、ここでコーヒーを買って行ってくれて」
「ああ、また何か呼び出しでもくらったのかしらね。話を聞いてみたら厄介そうなお客さんだったし」
ちょうど出勤ラッシュから外れた時刻。カフェの客も途切れており、受け渡しカウンターで軽い立ち話をする撫子に女性店員は「なんとなくお疲れ気味みたいで気になっちゃって」と言う。
一昨日、光岡に誘われてランチをした時にも彼はこの近くの貸しビル業をしている者の愚痴を言っていた。父親の代からの顧客だそうでなかなか一筋縄ではいかないとのこと。
「まあねえ、業界的にほら……色々あるし」
「あ、光岡さんてもしかして」
「内緒ね」
うん、と深く頷く女性店員は彼が極道者であると勘付いたようだった。しかしそれを口には出さずに頷くだけ。
「跡を継ぐってやっぱり色々あるから」
龍堂撫子が何者なのかを知っているからこその店員の「それは流石に凄い説得力」との言葉に続けて辺りに人がいないのを確認する。
「私、ホンモノの人ほど正体を隠すし直接的には手を出さないって撫子さんに言われて……もっとしっかりしないと“また”悪い人に騙されちゃいますよね」
過去、相当痛い目にあったことがある女性店員。誰にも公表はしていないが彼女は撫子に大恩があった。二年ほど前、悪い女友達に騙されて作ってしまった博堂系末端の金融機関の借金。
それを撫子が名を隠し、清算したのだ。その金は今、店員自らがきちんと毎月決まった額を撫子の口座に振り込み、返していた。それに撫子は彼女の給料を把握しており、その中から遅れること無く返し続けてくれているので利子も付けていない。
この女性店員のように本職のヤクザを騙っただけの悪知恵をつけた者たちから喰いモノにされている層が世の中にはあった。本来ならば関わってなどいけないのに、巻き込まれる。巻き込まれそうな時に助言や警告をしてくれるような頼れる人間が身近にいない者を……巧妙と言うよりは洗脳に使い手口で喰いモノにする。
孤独で不安な人間に付け入るヤクザよりもタチの悪い者たちは男も女も関係ない。
「撫子さん、時間大丈夫ですか」
「あ……うん。もう行かなきゃ」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
今は一人の自立した女性として朗らかに笑って送り出してくれる店員の悲惨な過去を誰も知らない。知っているのは撫子と手を貸してくれた龍堂の者数名。
撫子が人を動かせたとしても全員を救える訳じゃないし、救おうとして手を噛まれることだってある。けれどその時、偶然にも縁が出来てしまった撫子は彼女を救う判断をした。
結果的にそれは間違っていなかったが本当に世の中、事態がどう転ぶのか分からない。
たった一つの週刊誌へのタレコミ、告発、ネット状での暴露……とてもじゃないが情報の全てなど追いきれない。撫子自身も最悪の事態を避けるだけ、自分のことにしか手が回らないがヤクザの娘として、目に見える形でカタギに迷惑を掛けた分は少しでも清算したかった。
(私がやっていることなんて、偽善と言う言葉すら大層に感じるものだけど)
ビルのエントランスホール。顔見知りと挨拶を交わしながら撫子はエレベーターへと乗り込む。ちょうど乗り合わせた社員と小さな立ち話をしながらオフィスに向かえばデスク業務をしていた者たちが口々に挨拶をした。
「社長、お呼び立てして申し訳ありません」
「全然。博堂系の仕事はオンラインじゃなくて直接出るって決めたのは私だからね」
「それで今日の資料はこちらに」
荷物を置く前から社員は撫子に資料がある、とデスクに準備をする。これはオンライン上には出さない方が良い裏帳簿……ではないがそれに近いもの。博堂関係の機密に近い情報が印刷されていた。
「ではミーティングは三十分後と言うことで」
「ええ、分かった。あ、下でお茶菓子買って来たから食べながらにしましょう。コッチの話となると頭抱えがちだし」
これ、とカフェに置いてある小包装の菓子類もコーヒーと一緒に買ってきていた撫子が社員に袋を差し出す。
この会議は社員の中でも中枢の……龍堂と関わりのある者しか参加をさせていない。もし何かあった時に腹を括れるような父親の直属の者だけで構成されていた。
それは撫子の日常の中の影の部分。
定刻通り、ミーティングルームの中の上座に着席をすれば暫くの間、そこへは誰も近寄らなくなる。途中休憩でお手洗いに出る者の表情は渋く、博堂が絡む案件はいつもそうだった。
酷く長いミーティングではないが約二時間、話はなんとか纏まり……時刻はもう昼の十二時を過ぎていた。しかしこればかりはどうしようもなく、各自所要を済ませ次第規定通りの昼食時間を取るように経営者として撫子は休憩を促す。
あらかじめ茶菓子を出すのも時間の超過を見越してのことだった。