クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
ミーティングルームから戻ってきた撫子はカラになったコーヒーカップを処分しながらデスクに置いたばかりの仕事用のスマートフォンにメッセージが入った事に気が付いた。
「光岡さん、か……」
彼の方も長丁場だったのかな、と撫子はメッセージを確認する。光岡とは仕事用の方の端末のアカウントを教えていた。
メッセージの内容は当たり障りのないビジネス構文から始まっていたがメッセージの本題は撫子を食事に誘うものだった。
(今日は宗君と約束してるし、今週中なら時間作ってもいいかな)
彼の身元は分かっている。博堂会の三次団体の所の息子。最近、父親から家業を引き継いで『光岡興産』と事業をまとめた人物。彼自身は真面目そうな雰囲気で、この誘いも本気と言うよりは自分の名を忘れないでいて貰う為の身銭を切った営業に近いように感じ取れる。
皆が、必死なのだ。
いかにして『龍堂撫子』と長く良い付き合いをするか。彼女の背後には父親と宗一郎。同級生が所属する国見も付いている。皆が皆、博堂の直参。三次の光岡がこまめな営業をしているのは今朝、カフェへの立ち寄りからして明らかであり、何も不自然さはない。
ガラス張りの執務室の向こうではまだ昼休憩を取っていない先ほどの社員たちがばらばらとオフィスから出て行く。
光岡への返事は昼ご飯を食べながらでいいかな、と撫子も貴重品の入ったポーチを片手にコンビニへと向かった。
これが表の仕事をしている撫子の日常。夜は頻繁に会食が入る為に重要なミーティングは午前中に入れるようごく初期のころから通達している。仕事もバックアップやフォローアップ的な支援タイプの雑務をしたり来客の相手をしたりで一日があっという間に終わってしまう。
日が落ちるのが早くなってきたな、と撫子は窓の向こうをちらりと見た。夕飯の支度をするなら自分の仕事ももう切り上げないと、と単身のせいで気が付かなかった事が見えて来る。
(フルリモート、フレックスも選べるようにしてあるけどパートナーや子供と暮らすとなると夜はとりあえず早く帰りたいわよね。帰ってからでもやることいっぱい……誰かと暮らすって仕事みたいにテンプレ化した物とは違って毎日不規則に変動するから)
うーん、と撫子は考える。
皆には気持ちよく働いて貰い、沢山稼いできて欲しい。
そろそろ大まかでも人事管理や福利厚生の見直しもしなければ、と他の社員とも共有しているタスク管理ツールに忘れないよう、軽い見直し案を入力する。誰でも目が付く最重要の色分けセクションにはしばらくリモートが増える主旨が既に入力してあった。
「ふー……」
小さく軋むオフィスチェア。昼ご飯に買ったコンビニの新作サンドイッチが美味しかった。だが今の世の中はそのコンビニのご飯すら気楽に買えなくなっている。撫子自身、時代の動きに合わせて貸しビルなどの賃料もじわじわと上げて来てはいたがカタギが住まう住居に関しては大きな値上げはしていない。
それには理由があった。
撫子が知る限り、不動産が驚くようなスピードで外資に奪われている。アパート、マンション、駐車場、比較的手堅い人の営みに直結している部分を大陸の連中が掻っ攫い、異常な値上げで住民を追い出している。契約書を熟読し、理解していないと法的な権利に基づく契約無効の抗議すら……それで日本人が出て行って、空いた部屋をそいつらは誰に貸すのか。
暴対法が意味を為さなくなった理由の一つだ。
不況や少子化による弊害での純粋なシマの縮小はともかく、首が回らなくなった者からの債権回収率の悪さも目立つ。
そんな中で流入してきた大陸連中がやりたい放題の限りを尽くし、筆舌に尽くしがたいようなことも……警察連中すらもうアテにならない。それは法曹だって同じだ。時にはどうにもできなくなってヤクザに手を貸して欲しいと自らかかわりに来る者もいるとかいないとか。
だから、生き残っていた極道たちが連合を組んだ。
そしてどこから聞きつけたのか女性の身である撫子に接触しようとしている者も増え、後を絶たない。
(いつまでも経営者がオフィスにいても邪魔だし、帰ろ)
簡単な予定についての入力作業なら帰ってからでも、仕事用のスマートフォンからいつでも出来る。
それに今夜は宗一郎が夕飯を楽しみにしてくれているから早く帰った方が良い。
「ふふ」
彼はどんな表情を見せてくれるだろうか。昨日作ったポトフも味がしみてきっと美味しいから、食べてみて欲しい。
あと宗一郎はどれくらいの味付けが好みなのかも知りたかった。出来合いのものはどうしても味が濃いし、撫子も熊井家でご飯を食べたのは子供時代だったので今がどんな感じなのかもわからない。
けれどそんな“分からなさ”も何だか最近は楽しめている。
ぽつぽつと帰り始める社員の中でもまだ残っている近場の者に「帰るね、お疲れ様」と声を掛けて撫子は会社を後にした。