クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
荷物の入れ替えの為に仕事帰りの夕方、自宅に戻っていた撫子はキッチンで母親と、そして住み込みの鈴木と三人で夕飯の支度をしていた。
「撫子さん、醤油取って貰っていいですか」
「はーい……はいはい」
「撫子、鈴木君の煮物の味付けね、最近凄いのよ。やっぱり今どきの若い子って動画とかネットの情報を使うの上手いわよね」
「お母さん、ネットの情報を鈴木君が取捨選択してちゃんと使えてるのって“今どき”の中でも十分に優秀な人材」
「そうなの?みんながみんなスマホとかパソコン使えるわけじゃないの?」
うん、と頷く撫子は「鈴木君、今の学校卒業したらお父さんのところじゃなくて私の会社でカタギとして仕事しない?片っ端から資格取ろ?費用は会社持ちだし」と人参を千切りしながらナチュラルにスカウトを始める。
「そうよ、お父さんの所なんて……まあそんな人と結婚しちゃったのがお母さんなんだけどね」
「生まれちゃったのが私だし」
「やはり親子ですね。やり取りにまとまりを感じます」
笑って煮物の味付けをしてくれている鈴木も訳ありの存在で、いつかこの龍堂邸からも去っていく。それまでに生活の全てを覚えて貰おうとしていたのだが彼はとても優秀な青年だった。
「で、撫子……今からお父さんと戦争するつもりなんでしょう?」
「うん」
食後のデザートの果物を包丁で剥いていた撫子の母親は手を止めること無く、隣に立って大量の人参をひたすら刻んでいる撫子に問う。
「あの、俺ここにいて良いんですか」
「鈴木君は第三者の若きご意見番として是非に。あと煮物を完成させて欲しいからいて」
「撫子さんが言うなら」
龍堂邸のキッチンでぽつぽつと始まる言葉のやり取り。家族みたいなものだから、と住み込みの鈴木も一緒に時間が流れてゆく。
「宗一郎君とはうまくやれてるんでしょ?仕事で頭がパンクしたりして休みの日とかとんでもなくだらしなくなる撫子のことを知っても」
「だらし……うん、そう。流石に途中で精神的に限界が来ちゃって見せちゃった」
「あの姿の撫子さんをついに、ですか」
「ついに、よ。お父さんも知らない、お母さんと鈴木君しか知らないオフすぎる私の醜態をね……見せちゃった」
それでも宗一郎は受け入れてくれたのだと撫子は二人に説明をしながら手元を動かす。
「私もね、宗君のことちょっと誤解と言うか良くないんだけど子供の時の印象が強くて。四つも無いくらいだけど年下だからって、さ」
「甘く見てたのね」
ん、と小さく頷く撫子は大き目のボウル目一杯になった人参の千切りに軽く塩を振り、揉みこむ。手にはきちんとキッチン用のポリ手袋をして、わしわしと豪快に調理を続ける。
「だって私、初めてでしょ?この家から離れて誰かと暮すのなんて。それで宗君がどんな感じなのか大まかに分かったりもしたんだけど……ああもう、全部お父さんが悪いし私も……悪いのよ」
宗一郎とは紙面上だけの婚姻を、の考えは彼に対してとても失礼な考えだったと撫子は母親と鈴木に吐露する。
「鈴木君もいつか誰かに恋をするかもしれないし、恋愛はとても自由なことよ。今回は私がずっとのらりくらりとかわして来たツケ。彼に対してきっちり誠実に落とし前を付けなきゃね」
「ヤクザの娘ねえ」
「ってことは撫子さん」
「うん。宗君ともう少し話し合ったら籍を入れるつもり」
そのことも父親に言いに来た、と。
「撫子さん、おかみさん。おめでとうございます」
ばっと極道流に頭を低くし、両膝に手をつく鈴木に「本職のヤクザになるか迷ったら絶対に私に声掛けてね」と撫子は笑う。
「で、撫子。その大量の人参はどうするのよ」
ずっと見守って来てくれた母親とは言え、極道の男と結婚をした女性。娘が宗一郎と籍を入れると明言してもリアクションは薄く、目下の大量の人参の千切りの方が気になっていたようだった。
「キャロットラペにするの。宗君これ好きだから半分持って帰ろうと思って」
その時はにかんだ撫子に母親と鈴木は彼女が本気で宗一郎と暮す決心をしたのだと悟る。お試しの同棲が始まる前までは仕事と龍堂邸の往復ばかり。同級生の関本に誘われでもしなきゃ遊びで飲みに行く事もなく。営業の一環として社交辞令の会食で遅くなった翌日の彼女の悲惨で怠惰な姿など……。
「お父さんはどうなるかしらね」
「念願かなうワケでしょ?でもそれはそれだし、これはこれ」
「そうね、それでこそ龍堂の娘」
「何事にもスジを通せってお母さんいつも言ってたからね」
「嫁いだ者の矜持として、よ」
ふふ、と軽く笑った撫子の母は「まあヤクザと結婚しちゃった部分はどうかとも未だに思うけどね」と言う。利権の甘い汁を啜って暮していることを十分に承知した上での言葉。そんな撫子の母親もデザートの果物を四枚の皿に盛りつける。
撫子の方も、鈴木も、それぞれに夕飯の支度が進みつつあった。
そして、撫子の父親が帰宅する。
予め彼女は連絡先を知っている側近にだけ今日は予定を入れずにそのまま組事務所から帰るようキープさせていた。