クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 がり、と光岡が生クリームについていたトッピングの粒を奥歯で噛んだ音が撫子にも伝わるくらいの静寂。
 不安な瞳のままにすぐ「未開封のペットボトルの水を」と控えの熊井組の構成員に伝え、撫子からの指示に速やかに一名が現場から離れる。

 撫子の声が震えている。
 それを感じ取った宗一郎の眉は切なそうに寄せられ、光岡に対しては威嚇の雰囲気を残しながらも撫子のそばに屈み込みながら自らのジャケットを脱ぐと胸元まで掛けた。

 「これじゃあ本当にマーキングみたいだ」

 ふ、と笑った光岡にまた宗一郎は厳しい表情を向ける。

 「光岡令士さん。いくら健康食品の卸業をされていると言っても違法薬物寸前の物の取り引きはこれからも博堂に属するならば控えていただきたい。あなたが実行犯だと誤認するところでしたよ」
 「光岡興産として、そこそこヤバい物を扱っている事に違いはないんですが……追放しないんですか」
 「俺は光岡さんの思惑が見えない。いくら合法とは言えクスリの売買……あなたはご実家の家業をどうされるつもりなんですか」

 真っ直ぐに人を見つめる癖のある宗一郎が光岡の視線を捉えたまま唸るように言う。

 「熊井さん。こんな三次の小倅の私に付き合うより撫子さん……いや、龍堂さんをこの場から連れ出した方が賢明では?極度の緊張からかお加減が優れないように見えます」

 宗一郎のジャケットが掛けられてから黙ってしまっていた撫子は申し訳なさそうに俯いてしまうがちょうど、彼女に言われて外の自販機まで確実に未開封だと分かるミネラルウォーターを買いに出ていた熊井組のダークスーツが戻って来る。
 それは光岡に手渡され、彼自身が開封をした。

 「一応ですが、光岡さんも大丈夫ですか」
 「だからさ……熊井さん、私のことなんかどうでもいい。連れ出してあげないのなら本当に私が龍堂さんをさらってしまいますよ」

 少し言葉が変わった光岡は宗一郎のジャケットの袖が床に垂れ落ちているのを拾って撫子の膝に置きながら大きな溜め息をつく。

 「龍堂さんともう少し早く出会っていたのなら、私のジャケットを掛けて差し上げたのに」

 あーあ、とぼやく光岡はどっしりとソファーの背もたれに背中を預けてしまう。
 その間にも宗一郎の背後では熊井組と国見組の構成員がばたばたと出入りをしながら客としてやって来ていた同年代の者たちを順次、ホールから外へ出していた。

 「撫子さん、立てますか」

 黙ったまま小さく頷く撫子をエスコートしながら半個室から出ようとした宗一郎は振り向きざまに光岡に短く、しかししっかりと一礼をする。
 分厚い筋肉質な背を屈め、隣を歩く撫子を守るように出て行く一人の男の姿を見つめていた光岡は「私、博堂的にどうなるんですかね」と残っていた熊井組の構成員にまた一つ、ぼやいていた。


 路肩に停められていた威圧感しかない宗一郎用の送迎車。
 外に出されてしまった参加者は奥で何が起きたのか、それは龍堂と熊井が絡んでいて……何かしらの被害者が龍堂撫子であること以外は何も分からず。それでも宗一郎と撫子が揃って車に乗り込む姿に対し、幹部の男たちは立礼をしながら車が走り出すまで見送る。

 通りすがりの一般人からすれば異様な光景ではあるが今の世、ヤクザのちょっとした集まりに警察は見て見ぬふりをする。通報されたとて、だ。二人がホストクラブの前から去ってしまえば残っていた者たちは仲間同士で飲み直しに出たり、帰宅の為に舎弟を呼び出したりする者とそれぞれだった。

 「行き先は撫子さんのご実家の」

 車内では言い掛けて、首を横に振る撫子に止められる宗一郎がいた。

 「でも今夜は俺よりおかみさんがいらっしゃる方が」
 「だいじょうぶ……それに、宗君がいい」

 まだ途切れ途切れな声に迷う宗一郎だったがここでやっと撫子は彼のジャケットをぎゅっと抱きしめて顔をうずめる。

 「宗君は私の旦那さんだもん……」

 彼の上等なフルオーダーのスーツ。いつもだったらファンデーションがついてしまうからと遠慮をしてしまっていたが今、撫子は皺になるのもためらわずに抱き締めている。
 今夜ばかりは運転席以外の助手席にも熊井組の構成員が乗り込んでくれていた。それだと言うのに撫子は構うことなくジャケットを抱き締めたまま潤んだ瞳でちら、と横の宗一郎を見た。

 「では……マンションの方にしますね。親父さんにはもう連絡が先に行っているかと思いますが俺からも一報は入れさせて貰います」

 うん、と了承する撫子はまたそれから黙ってしまった。
 三十分も経たないくらいで宗一郎の移動車は二人がお試しの同棲をしているマンション前の車寄せに到着する。
 まずは宗一郎が降りて撫子をエスコートするのだが……車から降りた瞬間、彼女の背筋が伸びる。

 宗一郎のジャケットを丁寧に腕に掛けて大きく息を吸う気高い女性の立ち姿。宗一郎も慌てて撫子の荷物や自分の持ち物を舎弟から受け取り、その隣に寄り添う。
 次代の極道界隈の立役者となり得る二人がマンションのエントランスに入り、奥の方へと消えていく姿を確認した宗一郎直属の舎弟たちは組事務所に戻る為、去って行く。

 
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