クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
第8話 あなたはわたしの


 「撫子さん、こんばんは」
 「あ、光岡さん。早く見つかって良かった」

 撫子は「ご一緒して貰って良いですか」と光岡に着席を促す。しかしここの卓のソファーは特別仕様とばかりに総レースの裾の長い豪奢なカバーが掛けられており、姫とキャストの親密さを高めるように横幅が若干狭い。

 「熊井さんはまだいらしてないんですね」
 「今日は他に一件済ませてから来る予定。ついさっきまでいた関本さんも電話で出て行ったきり」
 「こんなに美しい姫を一人で置き去りにするなんて」
 「今日は光岡さんまで変なこと言う……」
 「え、そうなんですか?」

 嬉しくないわけじゃないけど、とぼやく撫子に光岡はそっと愛おしそうに目を細める。光岡は相変わらずきちんとした服装だった。少しアダルトな年齢の物たちが集う夜の会合に合わせて光沢感のあるネイビーのポケットチーフ。髪もいつも通り、癖っ毛なのかパーマなのか緩く波打っているがワックスで綺麗に流されていた。

 「これ中身はウーロン茶ですか?」
 「アイスコーヒーですよ。関本さんがブランデーを少し入れてくれたんですけどそれが美味しくて」

 同じ物を作りましょうか、と撫子が申し出るが光岡はせっかくプリンアラモードを食べているらしい彼女の手を止めさせないように先に自らグラスを手にする。

 「光岡さん、お仕事はいかがですか?」

 繊細なガラスの器を手にしたまま撫子がとん、とソファーの背面に背中を預ける。その視線は彼ではなくスモークガラスの向こうを見ているようだった。

 「そうですね……撫子さんに愚痴をこぼしたくなるようなこともありますが、情けない姿はあまり見せたくありませんし」

 からからと鳴る氷の澄んだ音が心地良い。

 「私も少し、アイスコーヒーを足して貰っても」
 「撫子さんはわりと苦いモノ、イケる方ですよね」

 頷くようにカラフェに視線を落とす撫子に光岡は何となく、彼女の異変に気付き始める。

 「ここに来る前に軽くご飯を食べて来たから酔いはしてないと思うんですけど、なんか」
 「新しくお作りしますよ、姫」

 未だ冗談めかしている光岡に撫子も少し笑うが視線は誰かを探しているように確かに揺れ始める。
 光岡が作ってくれたグラスを取ろうと一先ずプリンの乗ったガラスの器を置いた撫子は便宜的に「乾杯しましょう?」と彼を誘う。今夜の撫子は妙にしっとりと、いつにも増して綺麗と言うか色気があったのだが……そこに憂いや不安の色が見え始める。

 「美しい高嶺の花に」
 「もう……」

 軽い乾杯の仕草。
 艶のある唇はグラスにあたり、こくりと小さく飲み込む撫子に光岡は静かに深呼吸をする。
 今夜の彼女は、クる。ビジネス的な付き合いをしてくれていたがそれだけでも光岡は……撫子を想いながら濁った欲望を扱き出していた男は彼女の膝から床に滑り落ちたハンカチを見た。

 すぐに屈み込み、軽く払ってからどうするかを撫子に聞こうとした時だった。

 「ふ、う……」

 溜め息と言うよりは、切ない吐息。

 「撫子さん?」
 「え、ああ……ごめんなさい。拾っていただいて」
 「大丈夫ですか?」

 はふ、と息を吐く撫子は手にしていたグラスを見つめるが隣に座っている光岡はそっとそのグラスを奪う。

 「いくらなんでも姫を長時間一人にしておくなんて、甘いな」

 光岡令士の言葉が撫子の耳に吹き込まれる。

 「え……みつ、おかさ……?」

 急接近する光岡に撫子の肩が竦む。

 「今すぐあなたを正々堂々とさらってしまおうか」

 ふふ、と笑った男は自らの口もとを手で覆いながら「何があったんですか」と真剣な声音で問う。続けて「そのプリンのクリーム部分に掛かっているカラースプレー、一粒も口にしていませんよね」と言う。

 撫子はその言葉に短く頷いた。

 「でもどうして光岡さんそんなこと知っ……」

 言い掛けた途端、半個室のスペースに大きな影が飛び込んだ。
 それでもひるまない光岡と驚いてびく、と肩を震わせた撫子は飛び込んできた大きな影……怒りの表情をしている宗一郎を不安げな瞳で見上げる。

 「それ以上、私の妻に手を触れないでください」

 ヒグマの低い呻り声と途端に鳴りやんだ店内のBGM。なだれ込んでくるのは明らかに警察どころかカタギなどではないダークスーツの男たち。

 「宗君……私は大丈夫よ。言われた通りデザートは口にしないで足元のグラスに入れて“食べたふり”をしたから」
 「撫子さんの皿ともうひと皿の方も押収して関本さんと国見さんに報告を。あと龍堂筆頭のお耳にも」

 静かに怒気を纏う宗一郎の背後に控えていた熊井組の構成員がすみやかに卓の上にあったプリンアラモードの皿を回収しようとした。しかしその瞬間、光岡が撫子の皿の方の生クリームを指先で掬い取り、口にしてしまった。

 「ッ、光岡さん駄目!!」
 「ああ、大丈夫ですよ」
 「だってそれは」

 デートドラッグのはず、と言葉に出来なかった撫子だったが当の光岡は「粗悪だな……不味さを消す為の人工甘味料の割合が不自然だ」と言う。

 「多分このピンクのハートがドラッグ紛いの物でしょう」

 冷静に分析をしている光岡に不安を隠さない撫子と怪訝な表情を解かない宗一郎。

 「ああ、先に言っておきますが私はコッチの方のシノギに関しては現行法では“まだ”合法のブツしか取り扱ってないので。精力剤のちょっと過激な感じの健康食品」

 いきなりこの男は何を言い出すのか。
 妙な空気になっている半個室の向こう、厨房の方では何やらひと騒ぎが起きているようで大きな物音と怒号が撫子たちがいるフロアまで響き渡っていた。なにより今、クラブ内は事態を飲み込む為に静まり返っている。

 
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