クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい

 メインのバスルームでシャワーを浴びている撫子はシャワーの音にまぎれて隣の洗面所で宗一郎が実家に連絡を入れてくれている声を聞く。

 数時間前、撫子が定食屋で軽い夕飯を済ませた頃。
 宗一郎から一つのメッセージが届いた。

 それは今夜の集まりは国見が仕掛けた撫子をエサとしたシメ上げの現場だ、と言う知らせ。近頃、博堂近辺で流通している大陸製の危険なデートドラッグ。マークしていた輸入食品の代理店に出入りしていた光岡令士の存在は国見も注意深く観察していたのだがアテは大外れに終わる。しかしすぐに自分の持ち物であるホストクラブのデザート担当のシェフの存在が浮上した。

 その業者も店に頻繁に出入りをしており、何も知らなければただの熱心な営業としか見えない。しかしその裏ではホストに貢ぐような女性をターゲットにした薬物の売買がされていた。
 そして今夜、そのシェフとグルになって撫子を嵌めようとしていたのがホストクラブのキャストの一人、宮野木兄弟の弟だった。
 そちらはどうやら店の売掛金の回収が間に合わず、そこに漬け込んだシェフが弟のカネを肩代わりしたことから歪な上下の関係が出来てしまったらしい。

 開業資金を必死に集めて頑張っている兄には借金があることを黙っていてやる、などと言うよくある口車。下手な所から借りるよりも知り合いの自分の方が安全だ――それらは悪い人間の言葉だと宮野木も分かっていながらも断れなかった。

 さらにそのシェフは『龍堂撫子』を売ろうとした。
 デートドラッグで昏睡させ、彼女の尊厳を穢そうとした。

 「宗君どう?お父さん何か言ってた?」

 浴室の扉が少しだけ開き、洗面所に顔だけ出した撫子はまだそばで番をしてくれていた宗一郎に問う。

 「今夜は俺に任せてくれるそうです」
 「そっか……って当たり前じゃない。自分たちが結婚しろ、って小さな時からけしかけてた癖に」

 む、と唇を尖らせる撫子の調子もクラブ内いた時から随分と良くなっていたが無理はさせられない。
 宗一郎は扉の隙間から撫子にバスタオルを差し出す。
 お洒落なバスルームのスモークガラス一枚を隔てている二人だったがその心の間にはもう、隔たりは無かった。

 「宮野木君はシェフに逆らえなかった。お兄さんの方はとても熱心に私に開業プランを教えてくれてね。ちょっと無茶な感じはあったけどまあ常識の範囲かな。お兄さんの夢だから私も応援しようかと思ってたんだけど」

 体にバスタオルを巻いて出て来た撫子を見て大丈夫そうだと確認した宗一郎は話を一度切り上げ、洗面所から出て行こうとする。その手にはつい今しがた、撫子の父に口頭で状況の説明をしていた為にスマートフォンが握られていた。

 ドラッグの売人であったシェフ。その男は撫子用だと明らかに分かるようにピンクを基調としたプリンアラモードを作り、生クリームには粒の小さなドラックを振りかけた。しかし宮野木は何故、その場にいた国見組や同系統の博堂の者に相談をしなかったのか。あるいは撫子に食べてはならない、と打ち明けなかったのか。
 帰ってきてから洗面所で番をしていた宗一郎の耳にはそのシェフはどうやら博堂とは違う、別の会派と繋がりがあったのだと国見の側近から連絡が入った。
 シェフはいわゆる他の派閥から寄越された『間者』であり宮野木にもバックに他のヤクザが付いている、とかなり強い脅しをかけていたそう。

 熱心に開業資金を貯めている兄に迷惑は掛けられない。売人にも逆らえない――しかし彼は一人の女性への加害に加担した。宮野木の弟は、自分だけが助かろうとした。

 プリンが提供されてからの売人側のシナリオは至ってシンプルだった。
 薬が効いて来た頃を見計らい、宮野木は救護の要領で撫子をバックヤードへと誘う。そして裏口からシェフの仲間たちが彼女を連れ去る。バックヤードに監視カメラは無く、宮野木さえ黙っていれば「お前にデメリットはない。お前は給仕し、介抱しようとしただけだ」とまたしても都合の良い言葉を吹き込まれていた。
 シェフ自身も裏口から勝手に入って来た見ず知らずの奴らに具合の悪かった撫子を連れ去られただけ、と言えば……。

 国見に言わせてみれば『お粗末なシナリオ』だった。
 騒動となる寸前、クラブの裏口近辺に別会派の下っ端がいたのを国見組は確認していた。
 そしてそんな末端の売人であるシェフではなくクスリを扱う大元の売り手の方――どこの会派にも属さない輸入食品の代理店について。
 シェフとの繋がりを見出したのは本当に偶然だった。国見も初めは光岡を追っていたのがまさか自分の店に卸しをしていた業者だったなど、あまりにも身近すぎて気が付かなかった。
 さらに情報を得る為に国見は代理店にそこそこのカネを積み、自分の所の黒服たちにもウラを取るためにいくらか小遣いを渡した。博堂と撫子の事を思えば痛くも痒くも無い金額。

 念のため、光岡についても細かく調べたが彼は本当にまだ日本では違法とされていない方のブツを仕入れていただけ。
 最初は撫子にやたら近づいていた為に要注意人物とされていたが、どうやら光岡の方は様子が違うようで。

 「撫子さん、今日は一人でゆっくり眠った方が……朝の支度や洗濯も俺が全部やりますし」

 ボタンをいくつか開けたシャツにスラックスだけの宗一郎はリビングにあるダイニングテーブルの椅子に座って撫子がやって来るのを待っていた。
 しかし当の本人は湯上りでほんのりと色付いている顔で視線を少し下にずらしながら「一緒に寝る」と言う。

 「ん……じゃあ俺の方も粗方の連絡は終わったので撫子さんは横になっててください。風呂入ってきます」

 彼女との適切な距離感を考えての提案を本人から断られたが内心、宗一郎は嬉しかった。撫子は確実に自分を信頼してくれている。
 夫として、これより嬉しいことはない。
 そんな宗一郎の嬉しさの籠った優しい眼差しに気づいた撫子も嬉しくて、恥ずかしくて。また目元に涙が滲みそうになるのを隠すように「先に寝てるね」とそそくさと一旦、寝る支度をする為に自分の部屋に向かった。

 
< 52 / 58 >

この作品をシェア

pagetop