規制されてしかるべき私達の
4.春のときめきクレープ②
——金曜日 朝の校門前 星見凛虎
私は必ず、ホームルームのぴったり一時間前に校門へ着くようにしている。
部活動の朝練習にも被らず、登校する生徒も少ない時間だからだ。
それに生徒指導の先生にも余裕があって、指摘をしてもらいやすい時間帯でもあった。
私は今日、どうしても特別指導にしてもらいたかった。
そうしてもらわないと、こんなに情緒の安定しない日は、とてもやり過ごせない。
もうすぐ校門から、私の髪色に苦言を呈する声が、いつものように飛んでくる。
そう思っていたのに、声をあげたのは私の方だった。
「頭、大丈夫ですか?」
大きなガーゼを額に貼った先生に驚き、思わず罵るような言葉が飛び出てしまった。
「お前が人のこと言えた頭かぁ⁉ 休み前よりも真っ金金じゃねえか‼」
校門から、宗道先生がお返しとばかりに声を張り上げる。
その大喝を搔い潜り、顔を覗き込むと、頬骨の辺りにまでアザがあった。
血気盛んな四十代の体育教師らしく健康的に焼けた肌が、青黒く染まっている。
「……事故ですか? まさか、生徒にやられたんです?」
「あ、いや、……まぁ、三年生の奴が、ちょっとな。まぁ、色々と難しい時期だからな」
宗道先生は、まごまごと誤魔化すように口を動かすと、急にカッと目を見開いた。
「そういう奴もいるんだから、あまり悪目立ちするような髪色は控えなさい! 以上!」
そう言って先生は一人頷くと、私から目線を外してしまった。
「えっ……、今日はそれだけで終わりですか?」
焦りはじめる私とは対照的に、先生の厳しい表情は和らいでいく。
「ああ、通っていいぞ。華美過ぎる頭髪は禁止だが、その基準も曖昧だからな。……それに、金髪は駄目だなんて差別的だ、と逆に批判されかねん時代でもあり」
宗道先生は、思想を話し始めると長くなる。早く、特別指導にしてもらいたいのに。
「だが生まれつきと染髪とではワケが違うし、やはり目立つというのは大きなリスクであるわけで、俺は、生徒を危険から守るという最重要……、あ、おはようございます!」
話し終えるのを待っているうちに、他の先生達が来てしまい、議論が始まってしまった。
グローバルな現代に寄り添いつつも道徳的な服装指導について、の議論が。
慌てて私は、その意義深そうな談論の輪から、宗道先生を引っ張り出す。
そして、横髪を耳に掛けて、精一杯の切実な目で訴え掛けた。
「宗道先生、服装チェック、お願いします」
「んお、なんだ、そんなに睨むな。……あぁ」
私を見た先生が、眉を八の字にして、ため息を吐いた。
察してくれたのだ。
「あー! ピアスをしているな! ピアスはダメだといつも言っているだろう! ピアスは化膿や裂傷につながる危険があるから、完っ全に校則違反なんだぞお!」
わざとらしいほどに大袈裟な反応を周りの先生達へ示してから、宗道先生は渋々といった様子で言葉を続けた。
「……まったく。特別指導だ! 昼休み、体育教官室に来るように」
その言葉に、安堵の息をつく。
これで私は、安心して昼休みを過ごす事ができる。
「よかった。では、よろしくお願いします」
「よくない! 指導なんだぞ⁉ あと、お前は沙和菜先生の一組だからな!」
宗道先生の喝声に背中を押されながら、足早に教室へと向かう。
廊下から二年一組を覗いてみると、思っていた通り、まだ誰も来ていなかった。
安心して中へ入り、教卓に貼られていた席順表を確認しながら、私は祈る。
願わくば、窓際の一番後ろの席であって欲しい。
可能性は高い。
一学期の席順は、入口側から名前順で決まっていく。
そして星見という苗字は、今までの学校生活で五回もその席に私を座らせてくれた実績があるのだ。
「星見……、星見……、あ、あ!」
最後列に自分の名前を見つけて、心が舞い上がった。……のだけれど、星見凛虎は窓側から二番目。
本願の隣の席だった。
がっかりしながら、恨めしげに自分の名前の後を指で追っていく。松井、松岡、松田、松村、松本……、松多いな。
その松の群生林を越えて、特等席を勝ち取った名前に、私の指先が辿り着いた。
「和佳、治正……」
その名前に大きく落胆する。
ワ行は、ずるい。
うちの学年には和田さんも渡辺さんもいない。
つまり、どのクラスだとしても、高校三年間の一学期の特等席は、この和佳くんのものなのだ。
心底羨ましい。出来る事なら、私も和佳さんになりたい。
私は、とぼとぼと自分の席に向かい、憂鬱な気分のまま鞄の筆記用具を机の中に……、あ!
「クレープ……!」
鞄の中のそれを見つけ、思わず、一人で歓喜の声を上げてしまった。
そうだった、忘れていた。今日の私にはクレープがあるんだ!
陰りつつあった気持ちに花が咲く。
まだ時間にも余裕があるし、ゆっくりと堪能できそうだ。
おしゃれ可愛い包装を開き、逸る気持ちを抑えて、まずは目で味わう。
苺に掛けられたフルーツソースとアラザンが朝陽を浴びて、実に煌びやかだ。
ついに、念願の憧れを食べる事ができる。
そう思うと、もう、我慢できない。
「いただきぁ」
ちゃんと言い終える前に、もりっもりのクリームと苺に大きくかぶりついてしまった。
瞬間的に、クレープ生地の優しい小麦の香りが、一気に広がってくる。
生クリームたっぷりで濃厚なのに、苺とフルーツソースの酸味は爽やかで、まさに絶妙だ。
朝にピッタリのビタミンを、しっかりと感じられるのもとても嬉しい。
しゃくしゃくと瑞々しい苺と、なめらかでとろとろのカスタードクリームを、もちもちの生地で包んでいて、口当たりも優しい。
だけど、コーンパフやクラッシュナッツまで入っているから、カリコリ、ザクザクッと食感はバラエティに富んでいて飽きが来ない。
小気味良い音で、耳まで心地良い。
すごい、すごいな、クレープ。
この感激は、豚とろに匹敵する。
「ん……! ん……!」
喉が、身体が、勝手に喜んでしまう。
なんとか歓声は堪えるものの、足がパタパタと床を踏むのを抑えきれない。
もっとゆっくりと味わいたいのに口が止まらず、あっという間に小さくなってしまう。
名残惜し過ぎて、目を閉じて味わう。
味覚に集中するために、というよりは、気煩わしい教室にいるという事を少しでも忘れたかったから。

「……くてよかった」
思わず、少し声に出た。
昨日、ベランダから飛び降りなくてよかった、と。
結局いつも、私はこうして生きている。
生き苦しさを、食べ物で緩和しながら生きている。
所詮、私の苦しみなんて、お店で買えるお菓子やお弁当で誤魔化せてしまう程度のものなんだ。
安いものだな、と情けなく思う。
それなのに最近の私は、その程度の苦しみでも、生きることをやめてしまいたくなる。
ただ道を歩いているだけなのに、何故か不意に、もう限界だと感じて、立ち尽くしてしまうことも増えてきた。
私なんて、恵まれているほうなのに。
私より辛い人のほうが、ずっと多いのに。
そういうことは、ちゃんと自分でもわかっている。
わかっているからこそ、どうして、こんなぬるま湯で自分が死に掛けているのかが、わからない。
きっと、いつか本当に心が摩耗しきって、食べ物の味も感じられなくなって、衝動的に身体が動いてしまう日が来るまで、私は、この暗鬱とした日々を咀嚼し続
「そのクレープ、どこで買ったのかな?」
「ゔぁ⁉」
ナッツのザクザク食感を掻き分けて、急に聞こえてきた声に、心臓が跳ねる。
目を開けて、その声のほうを向くと、いつの間にか、隣の席には男の子がいた。
一番後ろで、一番窓側の席に。
「あ、急にごめん。クレープって、この辺になかなか無いからさ。いいなーって思って」
私の欲した特等席に座って、彼は私を見ていた。
クレープをいっぱいに頬張った私と同じくらい、パンパンに頬の膨らんだ男の子。
和佳、治正くん……?

「もしかして、一番近くのコンビニかな? 凄く美味しそうだね」
「見ないえ‼」
膨れた顔を見られるのが嫌で思わず叫んでしまう。ハッとした様子で彼が慌てだす。
「あ、ごめんごめん。美味しそうだったから、つい。……一番近くのコンビニかな?」
「話ひたくないの、分かんないッ⁉」
私はつい、怒鳴ってしまった。
また、きつい態度で相手を拒絶してしまった。
気を悪くさせただろうと思って彼の表情をうかがうと、彼は至って穏やかに微笑んで、私にぎこちないウインクをしてきた。
「ごめんごめん。楽しんで」
食べることを、楽しんで、と促す感性が少し独特だな、と思いつつも、彼を傷つけていないことに安堵する。
「……一番近くのコンビニ」
最後の一口を飲み込んでから、呟くように彼へそう伝えて、私は机に上半身を伏せた。
教室に人が来てしまったら、授業が始まるまで、私はもう机に突っ伏すしかない。
活気づいていく騒音と、窮屈な姿勢のせいで眠れもしないが、そうするしかないのだ。
友達のいない私には、目のやり場なんて、教室のどこにもないのだから。
スマートフォンをいじっていても、視界の端で団欒する皆が、私は気になってしまう。
そこに馴染めない自分の異質さが浮き彫りになっていくようで、心はざわめき、かえって疎外感が強まって、辛くなる。
だから私は、机に伏せて目を閉じて、眠いふりをし続けるしかない。
窓側の席を勝ち得ていたら、ただぼんやりと外を眺めていられたのにな……。
そんなことを思っていると、私の隣の席に、わらわらと明るい声が集まってきた。
「和佳くん、おはよう」
「和佳、ナイスボディ!」
「治正、チョコあるぞ。食うだろ」
特等席だけではなく、人気まで勝ち得ているらしい和佳くんが気になり、伏せたままこっそりと横目で覗き見る。
改めてちゃんと見た和佳くんの印象は、森のクマさんだった。
穏やかな目元と、端正な鼻と、きゅっと結ばれた口元が、広めのフェイスラインの中心でバランス良く整っている。
柔らかそうな白い頬に、ぷくぷくと膨らんだお腹。
どことなく醸し出される安心感。
愛されボディというのは、彼を表す言葉なのかもしれない、とすら思えた。
女子からはモテないけれど、男子からは圧倒的な人気を得るタイプだろう。
それを立証するように、和佳くんの周りには、大人しそうな男の子達が集まって、わやわやとしていた。
笑いの為に誰かを乏しめるような事もなく、強さを誇示しあう事もなく、彼らはお味噌汁の好きな具について話し合っている。
その穏やかな光景を眺めていると、小さい頃に絵本で読んだ、森の集会を思い出した。
優しいクマさんを中心に、ウサちゃんやシカくんが集まって、楽しく遊ぶ話だった。
その絵本では、誰も仲間はずれにならない。
トラも、ヘビも、はてはドラゴンすらも
「えっと、……いります?」
キツネくんに似た男子から小さなチョコを差し出されて、我に帰る。
気がつくと私は、完全に顔を上げて、彼らに見入ってしまっていたのだ。
不思議そうな顔で、おずおずとこちらの様子をうかがう彼らに、私は慌てて笑顔を作って答えた。
「ッハ、いらない」
案の定、嘲笑するような言い方になってしまった。
彼らの表情が、シュンと陰っていく。
それを見ていられなくて、私は逃げるように、また上半身を机に伏せてしまった。
「あはは、……はは」
私のせいで不必要にコンプレックスを刺激されてしまった様子の彼らは、ただ乾いた笑いを繰り返し合っている。
先ほどまでのお味噌汁談義が醸していた温かな空気は、完全に冷え切ってしまっていた。
そこに助けを出すように予鈴が鳴って、彼らはどこか安心したように、各々の席へと戻っていく。
申し訳なさに胸を締め付けられながら、私は横目でそれを見送った。
そして、ふと、昨晩の母の話を思い出す。
草食動物は、強い肉食動物を繁栄させるために存在している、という話を。
あの男子達は、可哀想だけど草食動物側、食べられるために存在する側にカテゴライズされてしまうのだろう。
そして、母は、真理だとして、私にこう言ったのだ。
安心して暮らしていくには、捕食者で在り続けなくてはいけない、と。
つまり、私が肉食動物として暮らす為には、あの優しそうな彼らを、貪り食わなくてはいけない、というのだろうか?
……仮に、仮にそうだとしよう。
さっき彼らは、一粒のチョコを私に差し出してくれた。
だけど、強い捕食者で在り続けるためには、それだけではきっと足りない。
なので、どうしたらもっと多くのチョコを奪えるか、と考えるべきだとする。
彼らの困惑や嘆きに胸を痛めていては、肉食獣である私は、いつか飢えてしまう。
そんな暮らしは、安心とは程遠い。
だから、罪悪感なんて忘れるほどに、狩る歓びに鋭敏になって、溺れなくてはいけないのだ。
血の涙すらも、勝利の美酒として堪能するのだ。
自分は奪われない様に再三の注意を払いながら、反撃されないギリギリのラインを見定めて、より多くの弱者から搾取していくのが、やっぱり良いだろう。
それが、私でも知っている世の権力者達の常套手段であり、正攻法だから。
そうして、私は、たくさんのチョコに囲まれる。
これでようやく、安心できる。
昇りつめた高台から、悲しい顔の群衆を見下ろして、私は……、安心して暮らせる?
安心できるだろうか?
絶対的な強さなんて、現実的じゃない。
上には上がいる。多くを持つ強者は、より強い者達から狙われる。
チョコを増やせば増やすほどに、私を狙う強敵は増えていく。
私は、より強い力を渇望し続けなくてはいけなくなる。
安心を求めて強くなったはずなのに、私は日に日に怯えて、どんどんと渇いていく。
だけど、私から奪われる人達は、もっと渇いていく。
じゃあ、私はいつ、安心できるの?
そんな渇きの中で、ずっと戦っているのが、私の母なのだ。
昨晩は、部屋を出ていく母の背中が憎かった。
なのに、今になれば寂しく感じる。
うちは、母子家庭にしては、類稀なほど裕福だと思う。
衣食に不自由はないし、セキュリティが万全の綺麗なマンションで暮らせている。
だけど、昔はそうじゃなかった。
小学校の途中まで、うちは貧乏だったのだから。
そこから母は、血の滲むような努力の末に会社を興し、成功させた。
間違いなく、母は多くの戦いを勝ち上がった実力者なのだと思う。
だから草食動物の話だって、強い母親から未熟な娘への、純粋な教諭だったのかもしれない。
だけど、その弱い娘は、頷くことすらできなかった。
疲れて帰る母を労わることもできず、笑顔で送り出すこともせずに、その娘は、裕福さだけを享受し続けている。
……ふいに、上着のポケットが小さく震えて、自責の沼から顔を上げる。
スマートフォンに、母からのメッセージが届いていた。
今日は帰りが遅くなります、と。
本当に母は多忙だ。
なのに家に帰っても、まともな癒しや寛ぎはない。
労わってくれる素直な娘もいない。
ごめん、お母さん。
面と向かえば出て来ない言葉を、胸の中だけで唱えて、わかった、とだけ返信した。
私は必ず、ホームルームのぴったり一時間前に校門へ着くようにしている。
部活動の朝練習にも被らず、登校する生徒も少ない時間だからだ。
それに生徒指導の先生にも余裕があって、指摘をしてもらいやすい時間帯でもあった。
私は今日、どうしても特別指導にしてもらいたかった。
そうしてもらわないと、こんなに情緒の安定しない日は、とてもやり過ごせない。
もうすぐ校門から、私の髪色に苦言を呈する声が、いつものように飛んでくる。
そう思っていたのに、声をあげたのは私の方だった。
「頭、大丈夫ですか?」
大きなガーゼを額に貼った先生に驚き、思わず罵るような言葉が飛び出てしまった。
「お前が人のこと言えた頭かぁ⁉ 休み前よりも真っ金金じゃねえか‼」
校門から、宗道先生がお返しとばかりに声を張り上げる。
その大喝を搔い潜り、顔を覗き込むと、頬骨の辺りにまでアザがあった。
血気盛んな四十代の体育教師らしく健康的に焼けた肌が、青黒く染まっている。
「……事故ですか? まさか、生徒にやられたんです?」
「あ、いや、……まぁ、三年生の奴が、ちょっとな。まぁ、色々と難しい時期だからな」
宗道先生は、まごまごと誤魔化すように口を動かすと、急にカッと目を見開いた。
「そういう奴もいるんだから、あまり悪目立ちするような髪色は控えなさい! 以上!」
そう言って先生は一人頷くと、私から目線を外してしまった。
「えっ……、今日はそれだけで終わりですか?」
焦りはじめる私とは対照的に、先生の厳しい表情は和らいでいく。
「ああ、通っていいぞ。華美過ぎる頭髪は禁止だが、その基準も曖昧だからな。……それに、金髪は駄目だなんて差別的だ、と逆に批判されかねん時代でもあり」
宗道先生は、思想を話し始めると長くなる。早く、特別指導にしてもらいたいのに。
「だが生まれつきと染髪とではワケが違うし、やはり目立つというのは大きなリスクであるわけで、俺は、生徒を危険から守るという最重要……、あ、おはようございます!」
話し終えるのを待っているうちに、他の先生達が来てしまい、議論が始まってしまった。
グローバルな現代に寄り添いつつも道徳的な服装指導について、の議論が。
慌てて私は、その意義深そうな談論の輪から、宗道先生を引っ張り出す。
そして、横髪を耳に掛けて、精一杯の切実な目で訴え掛けた。
「宗道先生、服装チェック、お願いします」
「んお、なんだ、そんなに睨むな。……あぁ」
私を見た先生が、眉を八の字にして、ため息を吐いた。
察してくれたのだ。
「あー! ピアスをしているな! ピアスはダメだといつも言っているだろう! ピアスは化膿や裂傷につながる危険があるから、完っ全に校則違反なんだぞお!」
わざとらしいほどに大袈裟な反応を周りの先生達へ示してから、宗道先生は渋々といった様子で言葉を続けた。
「……まったく。特別指導だ! 昼休み、体育教官室に来るように」
その言葉に、安堵の息をつく。
これで私は、安心して昼休みを過ごす事ができる。
「よかった。では、よろしくお願いします」
「よくない! 指導なんだぞ⁉ あと、お前は沙和菜先生の一組だからな!」
宗道先生の喝声に背中を押されながら、足早に教室へと向かう。
廊下から二年一組を覗いてみると、思っていた通り、まだ誰も来ていなかった。
安心して中へ入り、教卓に貼られていた席順表を確認しながら、私は祈る。
願わくば、窓際の一番後ろの席であって欲しい。
可能性は高い。
一学期の席順は、入口側から名前順で決まっていく。
そして星見という苗字は、今までの学校生活で五回もその席に私を座らせてくれた実績があるのだ。
「星見……、星見……、あ、あ!」
最後列に自分の名前を見つけて、心が舞い上がった。……のだけれど、星見凛虎は窓側から二番目。
本願の隣の席だった。
がっかりしながら、恨めしげに自分の名前の後を指で追っていく。松井、松岡、松田、松村、松本……、松多いな。
その松の群生林を越えて、特等席を勝ち取った名前に、私の指先が辿り着いた。
「和佳、治正……」
その名前に大きく落胆する。
ワ行は、ずるい。
うちの学年には和田さんも渡辺さんもいない。
つまり、どのクラスだとしても、高校三年間の一学期の特等席は、この和佳くんのものなのだ。
心底羨ましい。出来る事なら、私も和佳さんになりたい。
私は、とぼとぼと自分の席に向かい、憂鬱な気分のまま鞄の筆記用具を机の中に……、あ!
「クレープ……!」
鞄の中のそれを見つけ、思わず、一人で歓喜の声を上げてしまった。
そうだった、忘れていた。今日の私にはクレープがあるんだ!
陰りつつあった気持ちに花が咲く。
まだ時間にも余裕があるし、ゆっくりと堪能できそうだ。
おしゃれ可愛い包装を開き、逸る気持ちを抑えて、まずは目で味わう。
苺に掛けられたフルーツソースとアラザンが朝陽を浴びて、実に煌びやかだ。
ついに、念願の憧れを食べる事ができる。
そう思うと、もう、我慢できない。
「いただきぁ」
ちゃんと言い終える前に、もりっもりのクリームと苺に大きくかぶりついてしまった。
瞬間的に、クレープ生地の優しい小麦の香りが、一気に広がってくる。
生クリームたっぷりで濃厚なのに、苺とフルーツソースの酸味は爽やかで、まさに絶妙だ。
朝にピッタリのビタミンを、しっかりと感じられるのもとても嬉しい。
しゃくしゃくと瑞々しい苺と、なめらかでとろとろのカスタードクリームを、もちもちの生地で包んでいて、口当たりも優しい。
だけど、コーンパフやクラッシュナッツまで入っているから、カリコリ、ザクザクッと食感はバラエティに富んでいて飽きが来ない。
小気味良い音で、耳まで心地良い。
すごい、すごいな、クレープ。
この感激は、豚とろに匹敵する。
「ん……! ん……!」
喉が、身体が、勝手に喜んでしまう。
なんとか歓声は堪えるものの、足がパタパタと床を踏むのを抑えきれない。
もっとゆっくりと味わいたいのに口が止まらず、あっという間に小さくなってしまう。
名残惜し過ぎて、目を閉じて味わう。
味覚に集中するために、というよりは、気煩わしい教室にいるという事を少しでも忘れたかったから。

「……くてよかった」
思わず、少し声に出た。
昨日、ベランダから飛び降りなくてよかった、と。
結局いつも、私はこうして生きている。
生き苦しさを、食べ物で緩和しながら生きている。
所詮、私の苦しみなんて、お店で買えるお菓子やお弁当で誤魔化せてしまう程度のものなんだ。
安いものだな、と情けなく思う。
それなのに最近の私は、その程度の苦しみでも、生きることをやめてしまいたくなる。
ただ道を歩いているだけなのに、何故か不意に、もう限界だと感じて、立ち尽くしてしまうことも増えてきた。
私なんて、恵まれているほうなのに。
私より辛い人のほうが、ずっと多いのに。
そういうことは、ちゃんと自分でもわかっている。
わかっているからこそ、どうして、こんなぬるま湯で自分が死に掛けているのかが、わからない。
きっと、いつか本当に心が摩耗しきって、食べ物の味も感じられなくなって、衝動的に身体が動いてしまう日が来るまで、私は、この暗鬱とした日々を咀嚼し続
「そのクレープ、どこで買ったのかな?」
「ゔぁ⁉」
ナッツのザクザク食感を掻き分けて、急に聞こえてきた声に、心臓が跳ねる。
目を開けて、その声のほうを向くと、いつの間にか、隣の席には男の子がいた。
一番後ろで、一番窓側の席に。
「あ、急にごめん。クレープって、この辺になかなか無いからさ。いいなーって思って」
私の欲した特等席に座って、彼は私を見ていた。
クレープをいっぱいに頬張った私と同じくらい、パンパンに頬の膨らんだ男の子。
和佳、治正くん……?

「もしかして、一番近くのコンビニかな? 凄く美味しそうだね」
「見ないえ‼」
膨れた顔を見られるのが嫌で思わず叫んでしまう。ハッとした様子で彼が慌てだす。
「あ、ごめんごめん。美味しそうだったから、つい。……一番近くのコンビニかな?」
「話ひたくないの、分かんないッ⁉」
私はつい、怒鳴ってしまった。
また、きつい態度で相手を拒絶してしまった。
気を悪くさせただろうと思って彼の表情をうかがうと、彼は至って穏やかに微笑んで、私にぎこちないウインクをしてきた。
「ごめんごめん。楽しんで」
食べることを、楽しんで、と促す感性が少し独特だな、と思いつつも、彼を傷つけていないことに安堵する。
「……一番近くのコンビニ」
最後の一口を飲み込んでから、呟くように彼へそう伝えて、私は机に上半身を伏せた。
教室に人が来てしまったら、授業が始まるまで、私はもう机に突っ伏すしかない。
活気づいていく騒音と、窮屈な姿勢のせいで眠れもしないが、そうするしかないのだ。
友達のいない私には、目のやり場なんて、教室のどこにもないのだから。
スマートフォンをいじっていても、視界の端で団欒する皆が、私は気になってしまう。
そこに馴染めない自分の異質さが浮き彫りになっていくようで、心はざわめき、かえって疎外感が強まって、辛くなる。
だから私は、机に伏せて目を閉じて、眠いふりをし続けるしかない。
窓側の席を勝ち得ていたら、ただぼんやりと外を眺めていられたのにな……。
そんなことを思っていると、私の隣の席に、わらわらと明るい声が集まってきた。
「和佳くん、おはよう」
「和佳、ナイスボディ!」
「治正、チョコあるぞ。食うだろ」
特等席だけではなく、人気まで勝ち得ているらしい和佳くんが気になり、伏せたままこっそりと横目で覗き見る。
改めてちゃんと見た和佳くんの印象は、森のクマさんだった。
穏やかな目元と、端正な鼻と、きゅっと結ばれた口元が、広めのフェイスラインの中心でバランス良く整っている。
柔らかそうな白い頬に、ぷくぷくと膨らんだお腹。
どことなく醸し出される安心感。
愛されボディというのは、彼を表す言葉なのかもしれない、とすら思えた。
女子からはモテないけれど、男子からは圧倒的な人気を得るタイプだろう。
それを立証するように、和佳くんの周りには、大人しそうな男の子達が集まって、わやわやとしていた。
笑いの為に誰かを乏しめるような事もなく、強さを誇示しあう事もなく、彼らはお味噌汁の好きな具について話し合っている。
その穏やかな光景を眺めていると、小さい頃に絵本で読んだ、森の集会を思い出した。
優しいクマさんを中心に、ウサちゃんやシカくんが集まって、楽しく遊ぶ話だった。
その絵本では、誰も仲間はずれにならない。
トラも、ヘビも、はてはドラゴンすらも
「えっと、……いります?」
キツネくんに似た男子から小さなチョコを差し出されて、我に帰る。
気がつくと私は、完全に顔を上げて、彼らに見入ってしまっていたのだ。
不思議そうな顔で、おずおずとこちらの様子をうかがう彼らに、私は慌てて笑顔を作って答えた。
「ッハ、いらない」
案の定、嘲笑するような言い方になってしまった。
彼らの表情が、シュンと陰っていく。
それを見ていられなくて、私は逃げるように、また上半身を机に伏せてしまった。
「あはは、……はは」
私のせいで不必要にコンプレックスを刺激されてしまった様子の彼らは、ただ乾いた笑いを繰り返し合っている。
先ほどまでのお味噌汁談義が醸していた温かな空気は、完全に冷え切ってしまっていた。
そこに助けを出すように予鈴が鳴って、彼らはどこか安心したように、各々の席へと戻っていく。
申し訳なさに胸を締め付けられながら、私は横目でそれを見送った。
そして、ふと、昨晩の母の話を思い出す。
草食動物は、強い肉食動物を繁栄させるために存在している、という話を。
あの男子達は、可哀想だけど草食動物側、食べられるために存在する側にカテゴライズされてしまうのだろう。
そして、母は、真理だとして、私にこう言ったのだ。
安心して暮らしていくには、捕食者で在り続けなくてはいけない、と。
つまり、私が肉食動物として暮らす為には、あの優しそうな彼らを、貪り食わなくてはいけない、というのだろうか?
……仮に、仮にそうだとしよう。
さっき彼らは、一粒のチョコを私に差し出してくれた。
だけど、強い捕食者で在り続けるためには、それだけではきっと足りない。
なので、どうしたらもっと多くのチョコを奪えるか、と考えるべきだとする。
彼らの困惑や嘆きに胸を痛めていては、肉食獣である私は、いつか飢えてしまう。
そんな暮らしは、安心とは程遠い。
だから、罪悪感なんて忘れるほどに、狩る歓びに鋭敏になって、溺れなくてはいけないのだ。
血の涙すらも、勝利の美酒として堪能するのだ。
自分は奪われない様に再三の注意を払いながら、反撃されないギリギリのラインを見定めて、より多くの弱者から搾取していくのが、やっぱり良いだろう。
それが、私でも知っている世の権力者達の常套手段であり、正攻法だから。
そうして、私は、たくさんのチョコに囲まれる。
これでようやく、安心できる。
昇りつめた高台から、悲しい顔の群衆を見下ろして、私は……、安心して暮らせる?
安心できるだろうか?
絶対的な強さなんて、現実的じゃない。
上には上がいる。多くを持つ強者は、より強い者達から狙われる。
チョコを増やせば増やすほどに、私を狙う強敵は増えていく。
私は、より強い力を渇望し続けなくてはいけなくなる。
安心を求めて強くなったはずなのに、私は日に日に怯えて、どんどんと渇いていく。
だけど、私から奪われる人達は、もっと渇いていく。
じゃあ、私はいつ、安心できるの?
そんな渇きの中で、ずっと戦っているのが、私の母なのだ。
昨晩は、部屋を出ていく母の背中が憎かった。
なのに、今になれば寂しく感じる。
うちは、母子家庭にしては、類稀なほど裕福だと思う。
衣食に不自由はないし、セキュリティが万全の綺麗なマンションで暮らせている。
だけど、昔はそうじゃなかった。
小学校の途中まで、うちは貧乏だったのだから。
そこから母は、血の滲むような努力の末に会社を興し、成功させた。
間違いなく、母は多くの戦いを勝ち上がった実力者なのだと思う。
だから草食動物の話だって、強い母親から未熟な娘への、純粋な教諭だったのかもしれない。
だけど、その弱い娘は、頷くことすらできなかった。
疲れて帰る母を労わることもできず、笑顔で送り出すこともせずに、その娘は、裕福さだけを享受し続けている。
……ふいに、上着のポケットが小さく震えて、自責の沼から顔を上げる。
スマートフォンに、母からのメッセージが届いていた。
今日は帰りが遅くなります、と。
本当に母は多忙だ。
なのに家に帰っても、まともな癒しや寛ぎはない。
労わってくれる素直な娘もいない。
ごめん、お母さん。
面と向かえば出て来ない言葉を、胸の中だけで唱えて、わかった、とだけ返信した。