規制されてしかるべき私達の
5.レタスサンドとぬるい野菜ジュース①
——金曜日 昼休み 星見凛虎
昼休みのチャイムが鳴り止むよりも早く、私は逃げるように教室を出た。
休み時間の度に、和佳くんの周りには友人達が集まってくる。
昼休みも、きっとそうだろう。
私が隣に座っていたら、気不味いランチにさせかねない。
校舎から少し離れた体育館へと足早に向かい、その二階にある体育教官室へ続く階段を上がっていく。
そして重い鉄の扉を、失礼します、と言いながら開けると、中からは明るい声が私を迎えてくれた。
「また来たよ! 本当に体育教官室が好きだね、凛虎は」
女性の体育教師で、私のクラス担任の紗和菜先生がカップ麺を啜りながら笑う。
「だはは。不良のくせにな。まぁ、ゆっくり説教されていけや」
電子レンジの中で回る愛妻弁当を見守っていた登志夫先生が、その年季の入った目元に皺を寄せて微笑んだ。
ただ、不良という言葉は聞き捨てならなかった。
「私、不良じゃありません。誰にも迷惑はかけてませんので」
そこに輪を掛けるようにして、沙和菜先生が声を張り返してくる。
「じゃあ、昨日の話だけど、欠席するなら朝のホームルームまでに連絡しなさい。夕方じゃ遅すぎ! 迷惑じゃなくとも、心配を掛けてることは自覚しなさいよー?」
ぐうの音も出ない。そんな私を、ほれみろ、と登志夫先生が言葉で小突いてくる。
それを眺めていた宗道先生が、お弁当を頬張りながら小さく笑った。
「早かったな、星見。飯はちゃんと食ったのか?」
「いえ、いつもみたいに、ここで食べさせてもらおうと思って」
そう言うと、先生達がまた笑い出した。
「だはは! 教師の指導を、飯食いながら受けるってんだから、こいつぁ太ぇやつだよ」
「本当よ。あんた、ランチミーティングじゃないんだからね?」
呆れたように笑いながらも、登志夫先生はテレビを点けてくれて、沙和菜先生は隣にパイプ椅子を広げてくれた。
お礼を言いつつ腰かけて、私はレタスのサンドイッチとぬるい野菜ジュースを机に並べる。
「でも、あんた、本当にここが好きよねー。教師とご飯なんて窮屈でしょうに」
そう言いながら、沙和菜先生は二個目のカップ麺にお湯を注ぐ。
窮屈だなんて、とんでもない。
私は、学校で一番、この場所が好きだ。
明るい音の情報バラエティが流れていて、たわいも無い話をするだけの、この空間が。
「そういえば、宗道先生っていつも手作りのお弁当ですよね。結婚されてませんよね? 自分で作ってるんですか?」
「あぁ、いや、同居人がな、まぁ……。お前は、またサンドイッチだけか? いくら何でも足りないだろう?」
「私、夜に高カロリーのお弁当を食べるので、昼は調整してるんです。別に良くないですか?」
良くないわ! と沙和菜先生が私を指差した。
「あんたね、私ら体育教師が保健の教師でもあることを忘れてるでしょ。カロリーだけじゃなくて栄養も考えないと駄目よ!」
「だはは! 昼飯がカップ麺二つの先生に言われたかないわな! だっははは!」

本当に、居心地がいい。
この三人の先生達は、成熟した良識と、確かな信頼で、固く結ばれているような気がする。
だから、この体育教官室は、程よい気楽さと安心感で満ちている。
そこに私は、特別指導という名目で、時折混ぜてもらっていた。
学校の中で数少ない、私が息継ぎの出来る場所だ。
実は、先生達は三人とも、私が生徒の中に馴染めないでいる事をわかっている。
それなのに、その痛い部分には触れずに、私に居場所を作ってくれた。
教師なのに、鍛えようとも、克服させようともせずに、今もただ見守ってくれている。
私を純粋に、守られるべき子供として、ここに居させてくれている。
だから身構えずに済むのか、失言癖のある私でも、先生達が相手なら普通に会話をすることができる。……たぶん、できている。
「じゃ、俺っちは、そろそろ行くとするかね」
「あ、私もー」
立ち上がった登志夫先生を追うように、カップラーメンの汁を一気に飲み干して沙和菜先生も立ち上がる。
私はつい、ずっと疑問に思っていたことを聞いてしまった。
「先生達って、いつもお昼食べた後にどこへ行ってるんですか?」
ここの先生達は、お昼休みの半ばになると、ふいにどこかへ行ってしまうのだ。
「んーと、まあ、あれだわな。ちょっと……、保健室の方にな。野暮用だわな」
「え、男女で保健室? なんか、やらしいです!」
私の言葉に二人は目を丸くすると、顔を見合わせて大笑いした。
「やだー! あははは。思春期ってこわーい!」
「だははは! 青春だわな、青春!」
景気の良い笑い声をあげながら、先生達は体育教官室を出て階段を降りていく。
その二人とすれ違いに、誰かが挨拶を交わして、階段を上がってくる気配がした。
突然の他者の訪れに、安心しきっていた私の身体は強張る。
だけど、重い鉄の扉を開けて入ってきたのは、隣の席の和佳くんだった。
宗道先生が、軽く手を上げながら彼に声を掛ける。
「おう、治正。今日も体育の後、器具の片付けと、いつもの外周を十周ランニングな」
「はい、わかりました」
それだけの言葉を交わすと、和佳くんは軽く頭を下げて退室した。
だけど、穏やかに返事をした彼と、宗道先生が出した懲罰のような指示のちぐはぐさに、私は驚きを抑えられなかった。
「え⁉ 和佳くん、何か悪い事したんですか⁉」
「は⁉ あいつが悪い事するわけないだろう! むしろ少しくらいした方が健全なくらいだぞ、あいつは!」
先生の表情は、純粋な驚きを表していた。
そもそも宗道先生は、片付けや運動を罰として科すような人ではない。
腑に落ちないまま首を傾げると、先生は察した様子で口を開いた。
「ああ、……まぁ、あいつは特別というかな。いつかの時のために準備をしているというか……、んー、難しいな」
ランチクロスで弁当箱を丁寧に包んで鞄にしまい、腕を組みながら先生も首を傾げた。
「日常的に物の片付けをする事で、思考の整理がしやすい脳になるんだ。そして、あいつは部活に入っていないから、少しでも運動で身体を温めて、心の停滞も防ぎ……」
言葉の途中で、先生は息を吐きながら、力無く頭を左右に振った。
「いや、俺もわからん。結局、一緒に進んでる気になってるだけ、だな。駄目だな」
そこで急に、ハッと顔をあげた。
「いかん。忘れろ。あいつの個人的な話だった! こういうのが、ぷらいばしーりてらしー違反てやつなんだよ!」
ダメだなぁ、もう俺も古いおっさんだなぁ。そう言いながら、先生は椅子から立ち上がる。
あまり要領は得られなかった。だけど、ただでさえ生徒に熱心な宗道先生が、一際に和佳くんのことを気に掛けている、という事だけは伝わってきた。
「じゃあ、俺もそろそろ行くからな。……そうだった。一応、身だしなみの指導って建前にしたんだったな」
建前って言っちゃった。
そのことに気付かない様子で、宗道先生は、もう一度椅子に座りなおす。
「いいか、星見。お前の見た目は、目立つ。目立つと言うことは、それだけ悪意ある奴の目にも付きやすい、ということだ。ちゃんと用心しろよ! じゃあな」
あ、いけない。私は、足早に出ていく先生の背中に、慌てて声を掛けた。
「宗道先生! あの、六時間目の女子の体育って、球技ですよね⁉」
少し顔を顰めて、宗道先生が振り返る。
「……そう聞いてはいる」
「私、お腹痛いので、六時間目は保健室に行くと、沙和菜先生に伝えていただけませんか」
くしゃっと顔に皺を寄せながら、先生は苦々しい声を出して私を見た。
「お前、それは流石に……」
良くない申し出だということは、重々承知している。
だけど、独りぼっちの私にとって、球技は孤独の極みだ。
敵にも味方にも、他人しかいない。
狭いコートのどこにも居場所はないし、それどころか、隠れ場所すらもない。
ずっと腫れ物として扱われ続ける、永遠にも等しい数十分。
考えただけで、本当に具合が悪くなる。
「……ちゃんと、保健室に行くんだぞ」
叱責を渋々と呑み込んでくれたのであろう宗道先生は、そう言って出ていった。
と思ったら、階段を降りていく足音が、急に止まり、駆け足になって戻ってくる。
「そうだ。朝の件なんだが、あまり他の先生方がいる前で、教官室に呼び出させないでくれないか⁉ 俺の指導は踏み込み過ぎだって、うるさく言う先生が一人いるんだよ!」
まあ……だが、そうなのかもなあ……。過干渉はいかんよな……だが……んー……。
そう言いながら、今度こそ先生は行ってしまった。
教官室に、一人になる。
テレビを消して、耳を澄ませながら、誰も来ないことをひたすら祈り続ける。
さっきまで息継ぎの出来る場所だったこの教官室も、一人になれば、他の生徒達から隠れるために、息を潜める場所となってしまう。
残りの休み時間、私はパイプ椅子の上で、ざわざわとした無音をただ聞いて過ごした。
昼休みのチャイムが鳴り止むよりも早く、私は逃げるように教室を出た。
休み時間の度に、和佳くんの周りには友人達が集まってくる。
昼休みも、きっとそうだろう。
私が隣に座っていたら、気不味いランチにさせかねない。
校舎から少し離れた体育館へと足早に向かい、その二階にある体育教官室へ続く階段を上がっていく。
そして重い鉄の扉を、失礼します、と言いながら開けると、中からは明るい声が私を迎えてくれた。
「また来たよ! 本当に体育教官室が好きだね、凛虎は」
女性の体育教師で、私のクラス担任の紗和菜先生がカップ麺を啜りながら笑う。
「だはは。不良のくせにな。まぁ、ゆっくり説教されていけや」
電子レンジの中で回る愛妻弁当を見守っていた登志夫先生が、その年季の入った目元に皺を寄せて微笑んだ。
ただ、不良という言葉は聞き捨てならなかった。
「私、不良じゃありません。誰にも迷惑はかけてませんので」
そこに輪を掛けるようにして、沙和菜先生が声を張り返してくる。
「じゃあ、昨日の話だけど、欠席するなら朝のホームルームまでに連絡しなさい。夕方じゃ遅すぎ! 迷惑じゃなくとも、心配を掛けてることは自覚しなさいよー?」
ぐうの音も出ない。そんな私を、ほれみろ、と登志夫先生が言葉で小突いてくる。
それを眺めていた宗道先生が、お弁当を頬張りながら小さく笑った。
「早かったな、星見。飯はちゃんと食ったのか?」
「いえ、いつもみたいに、ここで食べさせてもらおうと思って」
そう言うと、先生達がまた笑い出した。
「だはは! 教師の指導を、飯食いながら受けるってんだから、こいつぁ太ぇやつだよ」
「本当よ。あんた、ランチミーティングじゃないんだからね?」
呆れたように笑いながらも、登志夫先生はテレビを点けてくれて、沙和菜先生は隣にパイプ椅子を広げてくれた。
お礼を言いつつ腰かけて、私はレタスのサンドイッチとぬるい野菜ジュースを机に並べる。
「でも、あんた、本当にここが好きよねー。教師とご飯なんて窮屈でしょうに」
そう言いながら、沙和菜先生は二個目のカップ麺にお湯を注ぐ。
窮屈だなんて、とんでもない。
私は、学校で一番、この場所が好きだ。
明るい音の情報バラエティが流れていて、たわいも無い話をするだけの、この空間が。
「そういえば、宗道先生っていつも手作りのお弁当ですよね。結婚されてませんよね? 自分で作ってるんですか?」
「あぁ、いや、同居人がな、まぁ……。お前は、またサンドイッチだけか? いくら何でも足りないだろう?」
「私、夜に高カロリーのお弁当を食べるので、昼は調整してるんです。別に良くないですか?」
良くないわ! と沙和菜先生が私を指差した。
「あんたね、私ら体育教師が保健の教師でもあることを忘れてるでしょ。カロリーだけじゃなくて栄養も考えないと駄目よ!」
「だはは! 昼飯がカップ麺二つの先生に言われたかないわな! だっははは!」

本当に、居心地がいい。
この三人の先生達は、成熟した良識と、確かな信頼で、固く結ばれているような気がする。
だから、この体育教官室は、程よい気楽さと安心感で満ちている。
そこに私は、特別指導という名目で、時折混ぜてもらっていた。
学校の中で数少ない、私が息継ぎの出来る場所だ。
実は、先生達は三人とも、私が生徒の中に馴染めないでいる事をわかっている。
それなのに、その痛い部分には触れずに、私に居場所を作ってくれた。
教師なのに、鍛えようとも、克服させようともせずに、今もただ見守ってくれている。
私を純粋に、守られるべき子供として、ここに居させてくれている。
だから身構えずに済むのか、失言癖のある私でも、先生達が相手なら普通に会話をすることができる。……たぶん、できている。
「じゃ、俺っちは、そろそろ行くとするかね」
「あ、私もー」
立ち上がった登志夫先生を追うように、カップラーメンの汁を一気に飲み干して沙和菜先生も立ち上がる。
私はつい、ずっと疑問に思っていたことを聞いてしまった。
「先生達って、いつもお昼食べた後にどこへ行ってるんですか?」
ここの先生達は、お昼休みの半ばになると、ふいにどこかへ行ってしまうのだ。
「んーと、まあ、あれだわな。ちょっと……、保健室の方にな。野暮用だわな」
「え、男女で保健室? なんか、やらしいです!」
私の言葉に二人は目を丸くすると、顔を見合わせて大笑いした。
「やだー! あははは。思春期ってこわーい!」
「だははは! 青春だわな、青春!」
景気の良い笑い声をあげながら、先生達は体育教官室を出て階段を降りていく。
その二人とすれ違いに、誰かが挨拶を交わして、階段を上がってくる気配がした。
突然の他者の訪れに、安心しきっていた私の身体は強張る。
だけど、重い鉄の扉を開けて入ってきたのは、隣の席の和佳くんだった。
宗道先生が、軽く手を上げながら彼に声を掛ける。
「おう、治正。今日も体育の後、器具の片付けと、いつもの外周を十周ランニングな」
「はい、わかりました」
それだけの言葉を交わすと、和佳くんは軽く頭を下げて退室した。
だけど、穏やかに返事をした彼と、宗道先生が出した懲罰のような指示のちぐはぐさに、私は驚きを抑えられなかった。
「え⁉ 和佳くん、何か悪い事したんですか⁉」
「は⁉ あいつが悪い事するわけないだろう! むしろ少しくらいした方が健全なくらいだぞ、あいつは!」
先生の表情は、純粋な驚きを表していた。
そもそも宗道先生は、片付けや運動を罰として科すような人ではない。
腑に落ちないまま首を傾げると、先生は察した様子で口を開いた。
「ああ、……まぁ、あいつは特別というかな。いつかの時のために準備をしているというか……、んー、難しいな」
ランチクロスで弁当箱を丁寧に包んで鞄にしまい、腕を組みながら先生も首を傾げた。
「日常的に物の片付けをする事で、思考の整理がしやすい脳になるんだ。そして、あいつは部活に入っていないから、少しでも運動で身体を温めて、心の停滞も防ぎ……」
言葉の途中で、先生は息を吐きながら、力無く頭を左右に振った。
「いや、俺もわからん。結局、一緒に進んでる気になってるだけ、だな。駄目だな」
そこで急に、ハッと顔をあげた。
「いかん。忘れろ。あいつの個人的な話だった! こういうのが、ぷらいばしーりてらしー違反てやつなんだよ!」
ダメだなぁ、もう俺も古いおっさんだなぁ。そう言いながら、先生は椅子から立ち上がる。
あまり要領は得られなかった。だけど、ただでさえ生徒に熱心な宗道先生が、一際に和佳くんのことを気に掛けている、という事だけは伝わってきた。
「じゃあ、俺もそろそろ行くからな。……そうだった。一応、身だしなみの指導って建前にしたんだったな」
建前って言っちゃった。
そのことに気付かない様子で、宗道先生は、もう一度椅子に座りなおす。
「いいか、星見。お前の見た目は、目立つ。目立つと言うことは、それだけ悪意ある奴の目にも付きやすい、ということだ。ちゃんと用心しろよ! じゃあな」
あ、いけない。私は、足早に出ていく先生の背中に、慌てて声を掛けた。
「宗道先生! あの、六時間目の女子の体育って、球技ですよね⁉」
少し顔を顰めて、宗道先生が振り返る。
「……そう聞いてはいる」
「私、お腹痛いので、六時間目は保健室に行くと、沙和菜先生に伝えていただけませんか」
くしゃっと顔に皺を寄せながら、先生は苦々しい声を出して私を見た。
「お前、それは流石に……」
良くない申し出だということは、重々承知している。
だけど、独りぼっちの私にとって、球技は孤独の極みだ。
敵にも味方にも、他人しかいない。
狭いコートのどこにも居場所はないし、それどころか、隠れ場所すらもない。
ずっと腫れ物として扱われ続ける、永遠にも等しい数十分。
考えただけで、本当に具合が悪くなる。
「……ちゃんと、保健室に行くんだぞ」
叱責を渋々と呑み込んでくれたのであろう宗道先生は、そう言って出ていった。
と思ったら、階段を降りていく足音が、急に止まり、駆け足になって戻ってくる。
「そうだ。朝の件なんだが、あまり他の先生方がいる前で、教官室に呼び出させないでくれないか⁉ 俺の指導は踏み込み過ぎだって、うるさく言う先生が一人いるんだよ!」
まあ……だが、そうなのかもなあ……。過干渉はいかんよな……だが……んー……。
そう言いながら、今度こそ先生は行ってしまった。
教官室に、一人になる。
テレビを消して、耳を澄ませながら、誰も来ないことをひたすら祈り続ける。
さっきまで息継ぎの出来る場所だったこの教官室も、一人になれば、他の生徒達から隠れるために、息を潜める場所となってしまう。
残りの休み時間、私はパイプ椅子の上で、ざわざわとした無音をただ聞いて過ごした。