規制されてしかるべき私達の
夕暮れキャンディー①
——金曜日 放課後 和佳 治正
まるで新築のように清潔な香りがするロビー。
最新のテクノロジーを感じさせるエレベーター。
洗練されてシンプルなのに、温もりのある装飾が施された廊下。
クラスメイトの家というよりも、大企業のオフィスにでも招かれたみたいで、俺は完全に委縮してしまっていた。
そして、一番奥の部屋の前で星見さんは足を止めると、鍵を使わない未知の仕組みで開錠する。
ついに、その扉が開かれた。
「おおおお邪魔致します! この度は、怪我のお手当てをしていただきに」
「あ、誰もいないから。お母さん、今日遅くて……、まだまだ、帰らないから」
『今日、うち、親居ないんだ』
それは、甘酸っぱいときめきをもたらす、男子憧れの殺し文句。
のはずなのだけれど、鞄を二つも抱えて疲労困憊の彼女の声に、そんなドキドキ要素は微塵も感じられなかった。
心拍数に限っては、ずいぶんと上がっている様子だけれども。
彼女はヨロヨロとリビングに荷物を置くと、制服のポケットの中身をテーブルの上に並べた。
そして、ぼんやりと天井を見上げて、立ち尽くしていた。
意地を張って俺のリュックを背負い続けたものの、思っていた以上にハードだったのだろう。
なにせ、あのリュックは十五キロある。
そして俺も、女の子の家でどう立ち回れば良いのか全く見当がつかず、玄関に立ち尽くしていた。
「何してるの? 上がって」
やっと振り返ってくれた星見さんが、呼び掛けてくれる。
だけど俺は、まだ靴を脱げなかった。
「いや、思ったんだけどさ。娘が男を家に上げたりしたら、お父さんが怒るんじゃないかな?」
「あぁ、……大丈夫だよ」
少しの間があった。彼女の視線が、少しだけ迷うように揺れる。
「お父さん、私が物心つく前に亡くなってるから」
ああ、そういうことだったのか。彼女の一瞬の躊躇いが、とても身近に感じられた。
「うちと同じだね」
「え、そうなの?」
微かな緊張を示していた彼女の頬が緩んで、柔らかで素直な声を出した。
気の強張りがほぐれたのが、見てとれた。
「うん。俺が産まれてすぐに母親が病気で亡くなってさ。少ししてから、父親もね」
「そっか。うちは、お母さんは元気。ほとんど家にはいないんだけどね」
そっか、和佳くんは、ご両親ともいないんだね。そう言ってすぐ、彼女は首を傾げた。
そして、きょとん、とした不思議そうな表情で口を開く。
でも、それじゃあ和佳くんは
「どうして生きているの?」
どうして、生きているの……?
ん? え?
まさか俺も、両親の後を追え、と……⁉
彼女の発した疑問が、頭の中でこだまして、混乱した俺の思考は停止した。
そして目の前では、何故か彼女も停止していた。
不思議といった表情で見合いながら、相手の返答をひたすら待つ。
凍り付いた空間の中で、お互いの首だけがゆっくりと横に傾いていく。
すると、彼女は徐々に目を見開いて、口を大きく開けていった。
驚愕、といった表情を示した彼女は、ついに、声を発してくれた。
「や、いや、違、その、どうし……、どうやって、生き、き」
壊れかけたロボットのようになりながら言葉を探す彼女を、見守る。
「ご両親がいないのなら、……今は、どうやって暮らしているの?」
ああ、そういう意味だったのか。
彼女の真意に安心して、俺も口を開く。
「母方の婆ちゃんが面倒見てくれてる。優しい婆ちゃんだよ」
「そうなんだ。優しいお婆ちゃん……。いいね」
祖母が世話をしてくれていることを伝えると、打って変わったように、お互いの緊張が柔らかにほどけた。
それは、俺にとっては珍しくて、新鮮なことだった。
親がいない事を話すと、だいたい空気がぎこちなくなる。
それが、いつも苦手だった。
だけど俺と星見さんなら、ただの自己紹介として、何の気無しに話せる。
哀れまれることも気の毒がられることもなく、純粋に自分の生い立ちを説明するだけ。
だから、なんだか新鮮だった。たぶん、彼女もそうなのだろう。
「ねえ、いつまで玄関にいるの? 早く上がって。薬箱、すぐ用意するから」
疲れも休まったのか、少し元気づいた彼女に促されて、俺は、いよいよ女の子の暮らす部屋へと足を踏み入れる。
ご両親は居なくとも丁寧に頭を下げて、挨拶を口にした。
「おじゃじゃします」
しっかりと明瞭に噛んだ俺は、ついに廊下へと上がった。
背筋を伸ばして、周りをジロジロと見渡さないように配慮し、首を固定して歩く。
すると、薬箱を探している星見さんが、微かに震え出した。
恐らくあれは、俺の滑稽さを笑っているのだ。
ギクシャクと廊下を行進してくる俺の姿が、おもちゃの兵隊でも彷彿とさせたのだろう。
顔を見なくてもわかる。
男子ってのは、女子の笑いに敏感なのだから。
だけど、それで良かった。
俺は、不躾な男と思われるよりは、不器用な紳士として在りたい。
例えそれが、不審人物にしか見えないとしても、だ。
そうしてリビングに辿り着いたものの、俺の緊張は思っていた以上に極まっていた。
女の子の部屋で、いつどこに座って良いのかが、わからない。
思えば、高校入試の面接試験では、促されるまで座ってはいけなかった。
あれがマナーの正解だとすれば、今は立ち尽くすのが正解か?
再び棒立ちで停止していると、薬箱を見つけた星見さんが、やっと振り向いてくれた。
「え、なんで立ってるの? 座りなよ。ふふ、着席着席」
俺の挙動に引いたりせず、笑いながら言ってくれたことに安心する。
ただ、星見さんが着席と言いながら、犬にお座りを指示するようなハンドサインをしたことが気になった。
おそらく、俺はいま彼女の中で、『男子』というカテゴリーから、『マスコット』的なカテゴリーへと降格されたのだ。
まあ、別に良いのだけれども。
床に腰を下ろすと、星見さんは薬箱を開き、消毒液と絆創膏を取り出して、固まった。
彼女の首が極僅かに傾く。
あれ、どうするんだっけ……? とでも思っているのだろう。
たぶん、彼女は傷の手当てをし慣れていない。
そんなふうに読み取っていると、彼女は急に顔を上げた。
「和佳くん、まずは傷口を洗おう。そこのシンクでいいから」
星見さんは、いかにも手慣れているかのような口振りで、座ったばかりの俺をシンクへと立たせた。
そして俺が手を洗い始めると、その隙を狙ったかのように、パントマイムの要領で手順の確認をし始める。
傷口に消毒液を掛け……、ティッシュで拭いて……、絆創膏を貼る。
その身振りを見た限り、全く問題はなさそうだ。
安心して、俺は彼女のもとへと戻る。
そして促されるままに手を差し出すと、星見さんは傷口に消毒液を掛けた。
「んぐゥッ⁉ 痛ァッ‼」
「えっ、大丈夫⁉」
予想以上の強烈な刺激に、思わず声を上げてしまう。
だけど彼女の手際には、何も落ち度はなかった。
「ごめんごめんッ。はぁッ、久しぶりだからかな。思ってたよりも沁みて、驚いたんだ。……たぶん、効いてるんだろうね」
「あ、そうなんだ。効いてるなら、良かった。じゃあ続けるね」
そう言って彼女は、全ての傷に消毒液をまんべんなく掛けていく。
「あッ、くーッ、効く。これは効いてるなぁ」
「……ふふ、がんばって」
「……」
「……」
「あっ、ぐぅぅっ。いやぁ、効いてるね! これは、治りも早そうだ!」
「……良かった。ふふ、もう少しだけ、我慢して」
「…………。ぐぉぉーっ、効くぅ!」
「……はは」
俺が冗談めかすように痛がると、星見さんは困ったように眉を下げて笑う。
実際に激痛なのだけれど、俺はそれを堪えて、ひたすら嘘っぽく呻くしかなかった。
そうしていないと、星見さんの表情はみるみる暗くなり、深刻そうになってしまう。
たぶん、俺の傷を見て、罪悪感に苛まれているのだろう。
私のせいで負わせた怪我だ。
そんなふうに思い詰めているのかもしれない。
だからか彼女は、まだ血の滲んでくる生傷までも、入念に手当てしてくれた。
消毒液を細胞の芯にまで浸透させるかのように、ティッシュを強く押し当ててくれる。
白目を剝くほど痛かった。
そして、やっと絆創膏を貼ってくれた。
剝がれてしまわないようにと、とてもとても丁寧に、ぴっちりと。
「……はい、終わったよ」
「助かったぁ‼」
心の底から叫んでしまう。
苦行のような介抱からの解放に、思わずオーバーな歓声を上げてしまった。
俺は慌てて、誤魔化しの言葉を繋ぐ。
「いや、その、消毒液ってこんなに沁みるんだね! 手当てしてもらうのなんて、小さい頃以来だったから忘れてたよ」
すると彼女も、共感を示すように小さく頷いた。そうだよね、と。
「私も、最後に手当てしてもらったのは保育園の頃かも。この消毒液も懐かしいな」
そう言って、幼児向けキャラクターがプリントされた消毒液の容器を見ると、星見さんは優しく目を細めて、すぐさま見開いた。
真っ青な顔になった彼女が、急に飛び掛かってくる。
「嫌ぁぁぁ‼」
「ギャアアアアアアアアアアアア‼」
絶叫する星見さんに絶叫する。
彼女は俺の腕を掴むと、丁寧に貼り付けたばかりの絆創膏を乱暴に引き剥がし始めた。
「痛アァッ‼ なんで⁉ 痛アァッ‼ なんで⁉ やめてェェ!」
「使用期限があったの‼ 九年前! この消毒液、九年前に駄目になってたの‼」
驚愕する俺の手を引いて、彼女は無我夢中でシンクへと走り出す。
壁に打ち当たって何度も弾む俺の身体は、まるで子供に振り回される風船のようだった。
そして、冷たい水道水が容赦なく傷口に掛けられる。
白目を剥くほど痛かった。
「どうしよう、早く治りますようにって、念入りに染み込ませちゃったよぉ」
星見さんが子供のように喚いた。
そして俺の傷口を擦り、絞り出すように抓って、毒液を体外に出そうと懸命に痛めつけてくる。
噛み殺しきれない呻きが俺の口から漏れる。
その度に、彼女の焦りは極まってしまう。
「凄く痛がってたのって、期限が切れてたからなのかな⁉ 膿んだりしたらどうしよう。病院……、和佳くん、病院に行こう?」
「大丈夫‼ なんかもう、凄い大丈夫だよッ‼」
急ごしらえの笑顔を貼り付けて叫び、彼女の荒療治から自分の腕を救出する。
自前のタオルハンカチで腕を包むと、ジンジンと泣きじゃくるように傷が疼いていた。
ヤンキーにやられた時よりも、ずっと酷い。
疲弊のままに、リビングの床へと座らせてもらう。
すると、へたり込むように星見さんも壁際に腰を下ろした。
「私、いつも……」
俯く彼女の口から、本当に微かな独り言が落ちた。
膝を抱え、涙を塞き止めるように固く瞼を閉じ、握った手を額に押し当てている。
今にも自分の頭を殴り出しそうなほど、身体を強張らせながら。
だけど、両肩は力無く下がり、落胆するような呼気が漏れている。
酷い自己嫌悪に苛まれているのだろう、ということが見てとれた。
おそらく暗い気持ちに心が呑まれ過ぎて、俺が見ていることにも気付いていない。
暮れ始めた陽が、カーテンを褐色に染めていく。
外が仄暗くなるにつれて、心の中まで陰っていくようだった。
じゃあ、俺そろそろ帰るね。
なんて間違っても言い出せない雰囲気だった。
どうしたものか、と視線を泳がせていると、ふと、それが目に入った。
星見さんがポケットからテーブルに出したスマートフォンの隣に、ライターと一緒に置かれている、それが。
「あ。星見さん。もしも吸いたければ、気にせずにそれ、吸ってよ」
「え……。あ、あっ。私、いつもの癖で、出して、その、これは」
慌てる彼女を落ち着かせるために、出来るだけ柔らかい発声を意識する。
「大丈夫。俺の身近な人達も、いつも吸ってるからさ。だから変な偏見はないよ。これ、気分が良くなるんだろ?」
「……気分は、良くならないかな」
「え、美味いもんなんじゃないの?」
「うん。どちらかと言うと、不味いと思う」
星見さんは箱の中から一本抜き取ると、口にも咥えずに、それをただ眺めた。
正直に言って、不味い、という意見は新鮮だった。
俺の周りのおじさん達は、実に美味そうに、それを吸うからだ。
食後のそれを、食事自体より美味そうに吸うおじさんばかりだから。
吸っていると味覚が変わって、煙が美味しく感じるようになるのかと思っていた。
じゃあ、どうして吸うの? 俺がそう問う前に、彼女は言葉を続けた。
「ただ、嫌な事ばかり考えてしまう時に、良いんだ」
「え、どういうこと?」
その彼女の言葉は、実に興味深かった。
コレは美味いぞ、カツ丼よりも美味いぞ。
そう言ってくるおじさん達なんかよりも、よっぽど俺の食指は動かされた。
「頭が回らなくなって、ぼーっとして、考えられなくなるの」
「……それ、いいな。夜、寝る前とかに欲しいな」
共感を口にした俺に、彼女は意外そうに顔を上げた。
「あと、俺、シャンプーしてる時にも欲しいな」
「それは難易度高くない?」
そう言いながらも、彼女は頷いた。でも、わかる、ベッドもお風呂も辛い、と。
だけど、その表情は微かに明るかった。
「和佳くんが私と同じように感じてるなんて、意外。穏やかで、暗い気持ちとは無縁な人かと思ってたから」
「ひどいな。俺だって、頭の中が煩わしくて辛い時はあるよ」
俺も、夜の布団と風呂場は、強迫的に自己嫌悪に襲われる場所だ。
一番苦しくて、一番誰にも助けを求められない場所。
ただただ堪えるしかない、独りの時間。
何度も囚われて、これからも囚われ続けるのであろう、ぼんやりとした地獄。
互いに、シンパシーが通じ始めたのを感じる。
彼女は初めて鏡を見た猫のように、興味深そうに、艶やかな瞳で覗き込んできた。
「和佳くんは、シャンプーの時、どんなふうに辛くなる?」
そうだね……。そう言ってから、俺は素直に打ち明ける。
「今日はクレープを食べてた星見さんに、何故かウインクしちゃったことを思い出して、恥ずかしさで死ぬかな」
確かにあれは変だった!
そう微笑む彼女に、男の子は緊張すると変になっちゃうんだよ、と可笑しな言い訳をしながら照れ笑う。
すると、腫れた頬が引き攣って痛み、俺はたぶん、とても酷い顔になった。
突然、星見さんが立ち上がる。
「駄目だ、私。こんなもの吸って、頭を鈍らせてる場合じゃない。そんなの、絶対駄目」
持ってて! そう言って俺の手にそれを押し付けると、星見さんはシンクへと走った。
そして、保冷剤を二つと、薄いタオルを掴んで戻ってくる。
「これなら大丈夫だから。私が試験勉強の時に毎回頭に当ててるやつだから、安心して」
保冷剤をタオルで包むと、彼女は俺の目の前に屈んだ。
花を思わせる清潔な香りと柔らかな生地が、俺の顎から頭頂部へと沿わされる。
そして、頬に保冷剤が当たるように調整して、結ぼうとしてくれている。だけど
「わ、ぁっ……」
「痛い?」
「いや、だ、大丈夫!」
感嘆を漏らしかけた口をすぐに閉じる。
その光景は、俺にはあまりにも刺激が強かった。
目の前が、女の子の胸元でいっぱいになってしまったのだ。

思わず眼を閉じるが、それも不自然だと思い、できる限り視線を真下へと向けて、俺は必死に紳士を保った。
だけど彼女のひんやりとした指が、無自覚に何度も、俺の熱っぽく腫れた頬をなぞる。
その度に、俺の紳士はタキシードをかなぐり捨てようと転げ回るが、それを懸命に抑え続け、そして、見事に俺は耐えきった。
「……お待たせ。結び方、きつくない?」
強張り過ぎて口が固まってしまい、上手く答えられない。
すると、ふっ、と笑って、星見さんは目を細めた。
「なんだか、……和佳くん可愛くなっちゃった」
ええっ⁉
動揺のままに声を上げてしまったけれど、俺は、ちゃんとわかっている。
今の可愛いは、異性として向けられた言葉ではない。
マスコットに対する可愛いだ。英語ならファニーが近いのだろう。
そうわかっているのに、顔が赤らんでしまい、どうしても抑えられなかった。
苦し紛れに、手のひらで必死に扇いで冷まそうとする。
「え、大丈夫? タオル巻いたの暑かった?」
「あ、ああ。いや、俺、人一倍暑がりだからさ。気にしないで」
そうなの? そう言って、彼女は立ち上がる。
「じゃあ、ベランダ開けるから、涼んで」
ベランダの窓を開けると星見さんは、止まった。
彼女の金の髪とスカートを風が揺らす。
その涼やかな景色に誘われて、火照った俺は、思わず隣へと歩み寄った。
「すごい……」
彼女が、そう呟いた。
その視線の先を追った時、俺は思わず、息を呑んだ。
眩い夕陽が瞳へと差し込み、俺の網膜に張り付いていた不埒な残像を焼き消した。
そして強く吹き込んだ春の夕風が、脳内の煩悩を一気に洗い流していく。
浄化の火。
そう思うほどの美しい夕景が、いっぱいに広がっていたのだ。
ふと、隣を見ると、彼女はこちらを向いていた。
何かに見入る子供のように、ぽかんと口を開けて。
「青春だ」
あどけない表情から、ぽとりと落ちたその言葉に、じんわりと笑いが込み上げてくる。
それでも、彼女は表情を変えず、感じ入るかのように、また景色へと視線を戻した。
目の前では、高校の校舎が温かな夕空に浸っていた。
グラウンドの運動部員達も、帰路ではしゃぐ生徒達も、皆、一緒に浸っている。
吹奏楽部の奏でる曲や、響いてくる笑い声までも、どこか朱色に感じるほどだった。
全て等しく、夕焼けに染まっていた。
この景色を眺めている、星見さんと俺も含めて。
彼女はまた、大切そうに呟いた。
「これ、青春だよ……」
初めてクリスマスプレゼントを見つけた時、幼い彼女は、こういう反応をしたのかもしれない。
なんとなく、そう思った。
その無垢な瞳は、自分達を俯瞰から眺めて、感動しているかのようだった。
今、私達は青春の中に居るんだ、と。
ただの女子高生が、そんな当たり前のことを、信じられない、といった様子で。
「私さ、高校でも嫌われてるよね」
突然の言葉に、思わず返答を見失ってしまう。
間が空いてしまった。
だからもう、下手な誤魔化しでは通用しないだろう。
残念なことに、全員にではないものの、それは事実だった。
正確には、同級生のうち、三分の一くらいから彼女は疎まれている。
小中学校の同窓生から根強く嫌われていたらしく、入学当初からすでに悪評が広まっていたことも原因のひとつだろう。
主に冷淡な話し口調が理由とされ、現に彼女の言葉足らずな言い回しは、その裏付けとなってしまっていた。
そして、致命的となったのは、入学式後すぐに起こしたクラスメイトとの口論らしい。
詳しくは知らないが、相手の子だけではなく、周囲からも非難されるような発言をしてしまった、と聞いたことがある。
さらに、極め付けまであったのだ。
その騒動の後日、突然、黒かった髪を明るく染めて、ピアスまでして来たという話だ。
今や、そのインパクトが一人歩きしてしまい、彼女を、周りと調和する気の無い人、として孤立させてしまった。
ただ、ここまで会話をした俺には、わかる。
彼女は、ほとんどの場合、話す時に目が合わない。
瞳を斜め上に移動させたまま、言葉を口にしていることが多い。
その癖は、言葉を吟味してはいるが、間に耐えられず、文章を構成しきる前に声に出してしまっている可能性が高い、と俺は思う。
それは、気遣いの無い人物ではなく、むしろ、気を遣いすぎる人物に見られる特徴なのではないかと思
「やっぱりそうなんだ」
しまった。
脳内に没頭していたせいで、無言を肯定だと捉えられてしまった。
慌てふためく俺に、星見さんは笑った。
「でもさ。私いま、初めて学校行きたいって思えたんだ」
そう力なく笑う彼女の横顔が、切なかった。
「他の皆がどう思ってたとしてもさ。俺はもう星見さんのこと、嫌いにはなれないよ」
「……本当?」
なんの衒いもなく、本心から言葉を紡ぐ。
うん。星見さんは、嫌われるような心根の人じゃないって、俺にはわかるから。
「それにさ、独りでも通学し続けたのって、それだけで凄いことだって、俺は知ってる。強い人なんだなって、尊敬するよ」
「強い人……」
色のない、純粋な声が彼女の口から溢れた。
「それは本当に嬉しい。誰かにそう思ってもらえてるのは、……本当に」
沁み入るような声だった。
そして彼女は、何かを切望するような幼気な瞳で、俺を見た。
「和佳くん。もし良かったら、私と、……」
躊躇うように途絶えてしまった、その言葉。
その続きは、『友達になって欲しい』だ。わかっている。
恋の告白が来るわけではない。
俺はちゃんと、そうわかっていた。
なのに、星見さんはハッとしたように眼を見開くと、その瞳を潤ませた。
そして、静かに手のひらで口元を覆う。
まるで、何かに見惚れるかのように目を細め、眉尻を下げていく。
「私と……、じゃなくて、その……」
信じられないが、それはまさに、恋する女の子の仕草だった。
「和佳くん……」
胸が詰まるような呼気で、名前を呼ばれる。
彼女の頬が、艶やかな瞳と金色の髪が、夕日で赤く照らされている。
それがあまりにも綺麗で、儚くて、だからこそ、俺は気付くことができた。
夕焼けの魔法に。
今が、マジックアワーだということに。
「和佳くん、いきなりで、驚くと思うんだけど……」
溢れる感情を抑え込もうとするような、可憐な声。
俺の気付きは、確信へと変わった。
マジックアワー。
日没後の僅かな間にだけ起こる奇跡。
赤と金の残光が、未熟な夜空の藍色と淡く混ざり、風景を幻想的に染め上げる。
世界を、全てを、最も美しく映し出す魔法の時間だった。
そんな情景の中、俺達を包む風には、ほのかに甘い春の香りまで満ちていた。
彼女は今、魔法に掛かってしまったのかもしれない。
「もし…、もしも、よければ」
「だめだ、星見さん」
俺は、誰かの想いに答える事が、絶対に出来ない。
それでも彼女は、お願い、と言って、言葉を続けてしまう。
その声は、可哀想なくらいに震えていた。
「それを、咥えてみてほしい……」
先ほど手渡された、白く細い紙巻きを彼女は指差した。
火は着けなくていいから、と促される。
口元に持っていくと、刻まれた葉が甘く香る。
どこか背伸びをした、ニヒルな匂いだった。
魔法に掛かった彼女の瞳には、少し大人びた姿の俺が映っているのだろうか。
戸惑いながらも口に咥えると、彼女は、悶えるように自らの身を抱いた。
そして、小さく息を呑んだ。何度も。
「ひ、……ひっ、あ」
星見さんが、膝から崩れる。
「……ひ、ひ、あひっ、ごめ、ごめんっ、あひひ、やばい」
もう、甘酸っぱい空気は残り香すらなかった。
それでも、念のために確認しておく。
「星見さん。俺が、どう見えてるの?」
「虫歯なのに、キャンディーを、我慢できなかった子。……あひひひ」

笑ってごめん、と苦しそうに何度も彼女は謝る。
そして、俺と目が合う度に、その笑いは大きくなっていく。
「あひひひっ、和佳くん、その顔やめて」
「普通の顔なんだけど」
ひいいっ、と奇声を上げて、彼女はベランダに倒れ込んでしまった。
たぶん、完全に俺がツボにハマってしまったのだろう。
もう何を言っても笑いを巻き起こせそうだ。
「ごめんね、笑いが止まらなくて。悪気はないの。それは、わかって」
「うん。和佳は、わかってるよ」
「ダジャレぇ」
息も絶え絶えの彼女を見下ろしながら、静かに自嘲の溜め息を吐く。
顔にタオルを巻きつけた俺が、ニヒルな大人に見えるわけないじゃないか。
虫歯なのに棒付きキャンディーを我慢できなかった食いしん坊。
きっとよく言い得ていることだろう。
何がマジックアワーだよ。
今日のシャワー中に悶絶する種が増えてしまった。
そんなへっぽこな時間も過ぎて、濃紺が空を覆い始めた頃、ようやく星見さんも落ち着いてきた。
くたっと床に横たわったまま、彼女は満足そうに息をしている。
「こんなに笑ったの、生まれてはじめて……」
ありがとう、和佳くん。
そう微笑まれるも、微妙な気持ちだった。
「そういえば、さっき星見さん、何か言いかけてなかった? もし良かったら、って」
「あ、うん。和佳くん、私と友達になってほしいんだ」
初めの予想通りの言葉に、どこか胸がほっとする。
もちろん、俺でよければ。
素直にそう頷く。
「……初めて、友達できた」
星見さんはそう呟くと、感慨深そうに、出来立ての夜風を吸い込んだ。
「あ、でも私、話すの下手だからさ。周りに他の人がいるときは話しかけないでね。惨事になるから」
大袈裟な、と俺が笑うと、彼女は真剣な顔で眉を顰めた。
「本当だよ。ずっと大変だったんだから。……でも、それだと、学校ではほとんど話せないか……」
「じゃあさ。俺、毎朝、今日と同じ時間に登校するよ。そうすれば朝くらいは話せるよ」
それは助かる!
そう明るくなった彼女の顔が、またすぐに陰る。
やっぱり朝だけじゃ足りない、と。
「和佳くんは帰宅部なんだよね? 放課後、一緒に遊ぼう。またうちに来て」
女の子の部屋に何度も上がるのは気が引けて、返答に詰まると、彼女は語気を強めた。
「明日も来て。明日は午前で授業終わるし、たくさん話せる。お願い。友達のお願い」
承諾を強要するような圧で迫られて、思わず頷いてしまった。
「良かった。和佳くんとなら、私も結構普通に話せるみたいだから、たくさん話してみたいんだ」
なんでだろうね、と言う彼女に、俺は眉尻を下げて笑う。
「俺がマスコットみたいな見た目だから、安心できるのかもね。着ぐるみみたいで、男子として意識しなくて済むんじゃな」
言葉の途中で、息を呑む。
彼女は急に、俺の頬へと両手を伸ばした。
そして、肌に触れる寸前のところで、その手のひらは止まった。
「そうかな。和佳くん、顔のパーツは整ってると思うけど。スマートになったら、モテる方かも」
俺の広めのフェイスラインを覆い隠して、星見さんは微笑んだ。
思わず呼吸を忘れてドギマギとしていると、ぐおおおっと、腹の虫が凶暴な鳴き声を上げてしまった。
まさかの、彼女のお腹から。
大丈夫。こういう時のフォローは慣れている。
俺という食いしん坊キャラの活かし所だ。
「ごめんごめんっ、俺の腹が鳴っちゃったよ!」
「? 今のは、私なんだけど……」
星見さん、正直な人だ。
庇おうとした俺の手をすり抜けて、自ら羞恥の火へと飛び込んだ彼女は、顔を真っ赤にして悶えている。
「そ、そうだったのか! どうりで俺にしては、か弱い音だと思ったんだよ。俺ももう腹ぺこだな。夕飯時だね!」
土壇場のフォローにしては、合格点だろう。
「そうだね。じゃあ、物足りないけど、今日は終わりにしようか。……明日も、来てくれるんだもんね?」
釘を刺すような圧のある上目遣いで、彼女は首を傾げた。
それに頷くと、なら解放してあげましょう、とでも言うような身振りで、廊下への扉を開いてくれる。
玄関に向かう俺は、完全に浮ついてしまっていた。
女の子から自分の存在を求められ、少しばかり容姿を褒められただけで、高揚してしまった心は、手を離れた風船のようにフワフワと浮いて戻ってこない。
ほんのりとした余熱を、冷ますことができずにいた。
「ふふ。和佳くん大きいから、うちの玄関が小さく見える」
そんな彼女の悪気のない言葉に、心地よい劣等感が戻ってくる。
可笑しな期待から覚めた目が、俺の生きる現実を映し直した。
足元の靴を隠すほど出っ張った、自分の腹を。
俺は、この腹が好きだ。
俺の在るべき生き方を、いつも思い出させてくれるから。
この腹は、俺が俺のために自ら肥やしている、大切な枷であり、錨だから。
「私も夕飯買いに行く」
ちょっとごめんね。
そう言って彼女は、俺の背中にそっと触れて、支えにしながら靴を履く。
「だから、途中まで一緒に行こう。やっぱり、もう少し和佳くんと話したいから」
先ほどまでなら、その言動にも心を擽られていただろう。
だけど、今はもう大丈夫。
彼女と自分との間に、交わることのない線をちゃんと引くことができるから。
俺の人生から、恋愛に関する一切を放棄する。
それだけは、絶対に破ってはいけない事なのだから。
まるで新築のように清潔な香りがするロビー。
最新のテクノロジーを感じさせるエレベーター。
洗練されてシンプルなのに、温もりのある装飾が施された廊下。
クラスメイトの家というよりも、大企業のオフィスにでも招かれたみたいで、俺は完全に委縮してしまっていた。
そして、一番奥の部屋の前で星見さんは足を止めると、鍵を使わない未知の仕組みで開錠する。
ついに、その扉が開かれた。
「おおおお邪魔致します! この度は、怪我のお手当てをしていただきに」
「あ、誰もいないから。お母さん、今日遅くて……、まだまだ、帰らないから」
『今日、うち、親居ないんだ』
それは、甘酸っぱいときめきをもたらす、男子憧れの殺し文句。
のはずなのだけれど、鞄を二つも抱えて疲労困憊の彼女の声に、そんなドキドキ要素は微塵も感じられなかった。
心拍数に限っては、ずいぶんと上がっている様子だけれども。
彼女はヨロヨロとリビングに荷物を置くと、制服のポケットの中身をテーブルの上に並べた。
そして、ぼんやりと天井を見上げて、立ち尽くしていた。
意地を張って俺のリュックを背負い続けたものの、思っていた以上にハードだったのだろう。
なにせ、あのリュックは十五キロある。
そして俺も、女の子の家でどう立ち回れば良いのか全く見当がつかず、玄関に立ち尽くしていた。
「何してるの? 上がって」
やっと振り返ってくれた星見さんが、呼び掛けてくれる。
だけど俺は、まだ靴を脱げなかった。
「いや、思ったんだけどさ。娘が男を家に上げたりしたら、お父さんが怒るんじゃないかな?」
「あぁ、……大丈夫だよ」
少しの間があった。彼女の視線が、少しだけ迷うように揺れる。
「お父さん、私が物心つく前に亡くなってるから」
ああ、そういうことだったのか。彼女の一瞬の躊躇いが、とても身近に感じられた。
「うちと同じだね」
「え、そうなの?」
微かな緊張を示していた彼女の頬が緩んで、柔らかで素直な声を出した。
気の強張りがほぐれたのが、見てとれた。
「うん。俺が産まれてすぐに母親が病気で亡くなってさ。少ししてから、父親もね」
「そっか。うちは、お母さんは元気。ほとんど家にはいないんだけどね」
そっか、和佳くんは、ご両親ともいないんだね。そう言ってすぐ、彼女は首を傾げた。
そして、きょとん、とした不思議そうな表情で口を開く。
でも、それじゃあ和佳くんは
「どうして生きているの?」
どうして、生きているの……?
ん? え?
まさか俺も、両親の後を追え、と……⁉
彼女の発した疑問が、頭の中でこだまして、混乱した俺の思考は停止した。
そして目の前では、何故か彼女も停止していた。
不思議といった表情で見合いながら、相手の返答をひたすら待つ。
凍り付いた空間の中で、お互いの首だけがゆっくりと横に傾いていく。
すると、彼女は徐々に目を見開いて、口を大きく開けていった。
驚愕、といった表情を示した彼女は、ついに、声を発してくれた。
「や、いや、違、その、どうし……、どうやって、生き、き」
壊れかけたロボットのようになりながら言葉を探す彼女を、見守る。
「ご両親がいないのなら、……今は、どうやって暮らしているの?」
ああ、そういう意味だったのか。
彼女の真意に安心して、俺も口を開く。
「母方の婆ちゃんが面倒見てくれてる。優しい婆ちゃんだよ」
「そうなんだ。優しいお婆ちゃん……。いいね」
祖母が世話をしてくれていることを伝えると、打って変わったように、お互いの緊張が柔らかにほどけた。
それは、俺にとっては珍しくて、新鮮なことだった。
親がいない事を話すと、だいたい空気がぎこちなくなる。
それが、いつも苦手だった。
だけど俺と星見さんなら、ただの自己紹介として、何の気無しに話せる。
哀れまれることも気の毒がられることもなく、純粋に自分の生い立ちを説明するだけ。
だから、なんだか新鮮だった。たぶん、彼女もそうなのだろう。
「ねえ、いつまで玄関にいるの? 早く上がって。薬箱、すぐ用意するから」
疲れも休まったのか、少し元気づいた彼女に促されて、俺は、いよいよ女の子の暮らす部屋へと足を踏み入れる。
ご両親は居なくとも丁寧に頭を下げて、挨拶を口にした。
「おじゃじゃします」
しっかりと明瞭に噛んだ俺は、ついに廊下へと上がった。
背筋を伸ばして、周りをジロジロと見渡さないように配慮し、首を固定して歩く。
すると、薬箱を探している星見さんが、微かに震え出した。
恐らくあれは、俺の滑稽さを笑っているのだ。
ギクシャクと廊下を行進してくる俺の姿が、おもちゃの兵隊でも彷彿とさせたのだろう。
顔を見なくてもわかる。
男子ってのは、女子の笑いに敏感なのだから。
だけど、それで良かった。
俺は、不躾な男と思われるよりは、不器用な紳士として在りたい。
例えそれが、不審人物にしか見えないとしても、だ。
そうしてリビングに辿り着いたものの、俺の緊張は思っていた以上に極まっていた。
女の子の部屋で、いつどこに座って良いのかが、わからない。
思えば、高校入試の面接試験では、促されるまで座ってはいけなかった。
あれがマナーの正解だとすれば、今は立ち尽くすのが正解か?
再び棒立ちで停止していると、薬箱を見つけた星見さんが、やっと振り向いてくれた。
「え、なんで立ってるの? 座りなよ。ふふ、着席着席」
俺の挙動に引いたりせず、笑いながら言ってくれたことに安心する。
ただ、星見さんが着席と言いながら、犬にお座りを指示するようなハンドサインをしたことが気になった。
おそらく、俺はいま彼女の中で、『男子』というカテゴリーから、『マスコット』的なカテゴリーへと降格されたのだ。
まあ、別に良いのだけれども。
床に腰を下ろすと、星見さんは薬箱を開き、消毒液と絆創膏を取り出して、固まった。
彼女の首が極僅かに傾く。
あれ、どうするんだっけ……? とでも思っているのだろう。
たぶん、彼女は傷の手当てをし慣れていない。
そんなふうに読み取っていると、彼女は急に顔を上げた。
「和佳くん、まずは傷口を洗おう。そこのシンクでいいから」
星見さんは、いかにも手慣れているかのような口振りで、座ったばかりの俺をシンクへと立たせた。
そして俺が手を洗い始めると、その隙を狙ったかのように、パントマイムの要領で手順の確認をし始める。
傷口に消毒液を掛け……、ティッシュで拭いて……、絆創膏を貼る。
その身振りを見た限り、全く問題はなさそうだ。
安心して、俺は彼女のもとへと戻る。
そして促されるままに手を差し出すと、星見さんは傷口に消毒液を掛けた。
「んぐゥッ⁉ 痛ァッ‼」
「えっ、大丈夫⁉」
予想以上の強烈な刺激に、思わず声を上げてしまう。
だけど彼女の手際には、何も落ち度はなかった。
「ごめんごめんッ。はぁッ、久しぶりだからかな。思ってたよりも沁みて、驚いたんだ。……たぶん、効いてるんだろうね」
「あ、そうなんだ。効いてるなら、良かった。じゃあ続けるね」
そう言って彼女は、全ての傷に消毒液をまんべんなく掛けていく。
「あッ、くーッ、効く。これは効いてるなぁ」
「……ふふ、がんばって」
「……」
「……」
「あっ、ぐぅぅっ。いやぁ、効いてるね! これは、治りも早そうだ!」
「……良かった。ふふ、もう少しだけ、我慢して」
「…………。ぐぉぉーっ、効くぅ!」
「……はは」
俺が冗談めかすように痛がると、星見さんは困ったように眉を下げて笑う。
実際に激痛なのだけれど、俺はそれを堪えて、ひたすら嘘っぽく呻くしかなかった。
そうしていないと、星見さんの表情はみるみる暗くなり、深刻そうになってしまう。
たぶん、俺の傷を見て、罪悪感に苛まれているのだろう。
私のせいで負わせた怪我だ。
そんなふうに思い詰めているのかもしれない。
だからか彼女は、まだ血の滲んでくる生傷までも、入念に手当てしてくれた。
消毒液を細胞の芯にまで浸透させるかのように、ティッシュを強く押し当ててくれる。
白目を剝くほど痛かった。
そして、やっと絆創膏を貼ってくれた。
剝がれてしまわないようにと、とてもとても丁寧に、ぴっちりと。
「……はい、終わったよ」
「助かったぁ‼」
心の底から叫んでしまう。
苦行のような介抱からの解放に、思わずオーバーな歓声を上げてしまった。
俺は慌てて、誤魔化しの言葉を繋ぐ。
「いや、その、消毒液ってこんなに沁みるんだね! 手当てしてもらうのなんて、小さい頃以来だったから忘れてたよ」
すると彼女も、共感を示すように小さく頷いた。そうだよね、と。
「私も、最後に手当てしてもらったのは保育園の頃かも。この消毒液も懐かしいな」
そう言って、幼児向けキャラクターがプリントされた消毒液の容器を見ると、星見さんは優しく目を細めて、すぐさま見開いた。
真っ青な顔になった彼女が、急に飛び掛かってくる。
「嫌ぁぁぁ‼」
「ギャアアアアアアアアアアアア‼」
絶叫する星見さんに絶叫する。
彼女は俺の腕を掴むと、丁寧に貼り付けたばかりの絆創膏を乱暴に引き剥がし始めた。
「痛アァッ‼ なんで⁉ 痛アァッ‼ なんで⁉ やめてェェ!」
「使用期限があったの‼ 九年前! この消毒液、九年前に駄目になってたの‼」
驚愕する俺の手を引いて、彼女は無我夢中でシンクへと走り出す。
壁に打ち当たって何度も弾む俺の身体は、まるで子供に振り回される風船のようだった。
そして、冷たい水道水が容赦なく傷口に掛けられる。
白目を剥くほど痛かった。
「どうしよう、早く治りますようにって、念入りに染み込ませちゃったよぉ」
星見さんが子供のように喚いた。
そして俺の傷口を擦り、絞り出すように抓って、毒液を体外に出そうと懸命に痛めつけてくる。
噛み殺しきれない呻きが俺の口から漏れる。
その度に、彼女の焦りは極まってしまう。
「凄く痛がってたのって、期限が切れてたからなのかな⁉ 膿んだりしたらどうしよう。病院……、和佳くん、病院に行こう?」
「大丈夫‼ なんかもう、凄い大丈夫だよッ‼」
急ごしらえの笑顔を貼り付けて叫び、彼女の荒療治から自分の腕を救出する。
自前のタオルハンカチで腕を包むと、ジンジンと泣きじゃくるように傷が疼いていた。
ヤンキーにやられた時よりも、ずっと酷い。
疲弊のままに、リビングの床へと座らせてもらう。
すると、へたり込むように星見さんも壁際に腰を下ろした。
「私、いつも……」
俯く彼女の口から、本当に微かな独り言が落ちた。
膝を抱え、涙を塞き止めるように固く瞼を閉じ、握った手を額に押し当てている。
今にも自分の頭を殴り出しそうなほど、身体を強張らせながら。
だけど、両肩は力無く下がり、落胆するような呼気が漏れている。
酷い自己嫌悪に苛まれているのだろう、ということが見てとれた。
おそらく暗い気持ちに心が呑まれ過ぎて、俺が見ていることにも気付いていない。
暮れ始めた陽が、カーテンを褐色に染めていく。
外が仄暗くなるにつれて、心の中まで陰っていくようだった。
じゃあ、俺そろそろ帰るね。
なんて間違っても言い出せない雰囲気だった。
どうしたものか、と視線を泳がせていると、ふと、それが目に入った。
星見さんがポケットからテーブルに出したスマートフォンの隣に、ライターと一緒に置かれている、それが。
「あ。星見さん。もしも吸いたければ、気にせずにそれ、吸ってよ」
「え……。あ、あっ。私、いつもの癖で、出して、その、これは」
慌てる彼女を落ち着かせるために、出来るだけ柔らかい発声を意識する。
「大丈夫。俺の身近な人達も、いつも吸ってるからさ。だから変な偏見はないよ。これ、気分が良くなるんだろ?」
「……気分は、良くならないかな」
「え、美味いもんなんじゃないの?」
「うん。どちらかと言うと、不味いと思う」
星見さんは箱の中から一本抜き取ると、口にも咥えずに、それをただ眺めた。
正直に言って、不味い、という意見は新鮮だった。
俺の周りのおじさん達は、実に美味そうに、それを吸うからだ。
食後のそれを、食事自体より美味そうに吸うおじさんばかりだから。
吸っていると味覚が変わって、煙が美味しく感じるようになるのかと思っていた。
じゃあ、どうして吸うの? 俺がそう問う前に、彼女は言葉を続けた。
「ただ、嫌な事ばかり考えてしまう時に、良いんだ」
「え、どういうこと?」
その彼女の言葉は、実に興味深かった。
コレは美味いぞ、カツ丼よりも美味いぞ。
そう言ってくるおじさん達なんかよりも、よっぽど俺の食指は動かされた。
「頭が回らなくなって、ぼーっとして、考えられなくなるの」
「……それ、いいな。夜、寝る前とかに欲しいな」
共感を口にした俺に、彼女は意外そうに顔を上げた。
「あと、俺、シャンプーしてる時にも欲しいな」
「それは難易度高くない?」
そう言いながらも、彼女は頷いた。でも、わかる、ベッドもお風呂も辛い、と。
だけど、その表情は微かに明るかった。
「和佳くんが私と同じように感じてるなんて、意外。穏やかで、暗い気持ちとは無縁な人かと思ってたから」
「ひどいな。俺だって、頭の中が煩わしくて辛い時はあるよ」
俺も、夜の布団と風呂場は、強迫的に自己嫌悪に襲われる場所だ。
一番苦しくて、一番誰にも助けを求められない場所。
ただただ堪えるしかない、独りの時間。
何度も囚われて、これからも囚われ続けるのであろう、ぼんやりとした地獄。
互いに、シンパシーが通じ始めたのを感じる。
彼女は初めて鏡を見た猫のように、興味深そうに、艶やかな瞳で覗き込んできた。
「和佳くんは、シャンプーの時、どんなふうに辛くなる?」
そうだね……。そう言ってから、俺は素直に打ち明ける。
「今日はクレープを食べてた星見さんに、何故かウインクしちゃったことを思い出して、恥ずかしさで死ぬかな」
確かにあれは変だった!
そう微笑む彼女に、男の子は緊張すると変になっちゃうんだよ、と可笑しな言い訳をしながら照れ笑う。
すると、腫れた頬が引き攣って痛み、俺はたぶん、とても酷い顔になった。
突然、星見さんが立ち上がる。
「駄目だ、私。こんなもの吸って、頭を鈍らせてる場合じゃない。そんなの、絶対駄目」
持ってて! そう言って俺の手にそれを押し付けると、星見さんはシンクへと走った。
そして、保冷剤を二つと、薄いタオルを掴んで戻ってくる。
「これなら大丈夫だから。私が試験勉強の時に毎回頭に当ててるやつだから、安心して」
保冷剤をタオルで包むと、彼女は俺の目の前に屈んだ。
花を思わせる清潔な香りと柔らかな生地が、俺の顎から頭頂部へと沿わされる。
そして、頬に保冷剤が当たるように調整して、結ぼうとしてくれている。だけど
「わ、ぁっ……」
「痛い?」
「いや、だ、大丈夫!」
感嘆を漏らしかけた口をすぐに閉じる。
その光景は、俺にはあまりにも刺激が強かった。
目の前が、女の子の胸元でいっぱいになってしまったのだ。

思わず眼を閉じるが、それも不自然だと思い、できる限り視線を真下へと向けて、俺は必死に紳士を保った。
だけど彼女のひんやりとした指が、無自覚に何度も、俺の熱っぽく腫れた頬をなぞる。
その度に、俺の紳士はタキシードをかなぐり捨てようと転げ回るが、それを懸命に抑え続け、そして、見事に俺は耐えきった。
「……お待たせ。結び方、きつくない?」
強張り過ぎて口が固まってしまい、上手く答えられない。
すると、ふっ、と笑って、星見さんは目を細めた。
「なんだか、……和佳くん可愛くなっちゃった」
ええっ⁉
動揺のままに声を上げてしまったけれど、俺は、ちゃんとわかっている。
今の可愛いは、異性として向けられた言葉ではない。
マスコットに対する可愛いだ。英語ならファニーが近いのだろう。
そうわかっているのに、顔が赤らんでしまい、どうしても抑えられなかった。
苦し紛れに、手のひらで必死に扇いで冷まそうとする。
「え、大丈夫? タオル巻いたの暑かった?」
「あ、ああ。いや、俺、人一倍暑がりだからさ。気にしないで」
そうなの? そう言って、彼女は立ち上がる。
「じゃあ、ベランダ開けるから、涼んで」
ベランダの窓を開けると星見さんは、止まった。
彼女の金の髪とスカートを風が揺らす。
その涼やかな景色に誘われて、火照った俺は、思わず隣へと歩み寄った。
「すごい……」
彼女が、そう呟いた。
その視線の先を追った時、俺は思わず、息を呑んだ。
眩い夕陽が瞳へと差し込み、俺の網膜に張り付いていた不埒な残像を焼き消した。
そして強く吹き込んだ春の夕風が、脳内の煩悩を一気に洗い流していく。
浄化の火。
そう思うほどの美しい夕景が、いっぱいに広がっていたのだ。
ふと、隣を見ると、彼女はこちらを向いていた。
何かに見入る子供のように、ぽかんと口を開けて。
「青春だ」
あどけない表情から、ぽとりと落ちたその言葉に、じんわりと笑いが込み上げてくる。
それでも、彼女は表情を変えず、感じ入るかのように、また景色へと視線を戻した。
目の前では、高校の校舎が温かな夕空に浸っていた。
グラウンドの運動部員達も、帰路ではしゃぐ生徒達も、皆、一緒に浸っている。
吹奏楽部の奏でる曲や、響いてくる笑い声までも、どこか朱色に感じるほどだった。
全て等しく、夕焼けに染まっていた。
この景色を眺めている、星見さんと俺も含めて。
彼女はまた、大切そうに呟いた。
「これ、青春だよ……」
初めてクリスマスプレゼントを見つけた時、幼い彼女は、こういう反応をしたのかもしれない。
なんとなく、そう思った。
その無垢な瞳は、自分達を俯瞰から眺めて、感動しているかのようだった。
今、私達は青春の中に居るんだ、と。
ただの女子高生が、そんな当たり前のことを、信じられない、といった様子で。
「私さ、高校でも嫌われてるよね」
突然の言葉に、思わず返答を見失ってしまう。
間が空いてしまった。
だからもう、下手な誤魔化しでは通用しないだろう。
残念なことに、全員にではないものの、それは事実だった。
正確には、同級生のうち、三分の一くらいから彼女は疎まれている。
小中学校の同窓生から根強く嫌われていたらしく、入学当初からすでに悪評が広まっていたことも原因のひとつだろう。
主に冷淡な話し口調が理由とされ、現に彼女の言葉足らずな言い回しは、その裏付けとなってしまっていた。
そして、致命的となったのは、入学式後すぐに起こしたクラスメイトとの口論らしい。
詳しくは知らないが、相手の子だけではなく、周囲からも非難されるような発言をしてしまった、と聞いたことがある。
さらに、極め付けまであったのだ。
その騒動の後日、突然、黒かった髪を明るく染めて、ピアスまでして来たという話だ。
今や、そのインパクトが一人歩きしてしまい、彼女を、周りと調和する気の無い人、として孤立させてしまった。
ただ、ここまで会話をした俺には、わかる。
彼女は、ほとんどの場合、話す時に目が合わない。
瞳を斜め上に移動させたまま、言葉を口にしていることが多い。
その癖は、言葉を吟味してはいるが、間に耐えられず、文章を構成しきる前に声に出してしまっている可能性が高い、と俺は思う。
それは、気遣いの無い人物ではなく、むしろ、気を遣いすぎる人物に見られる特徴なのではないかと思
「やっぱりそうなんだ」
しまった。
脳内に没頭していたせいで、無言を肯定だと捉えられてしまった。
慌てふためく俺に、星見さんは笑った。
「でもさ。私いま、初めて学校行きたいって思えたんだ」
そう力なく笑う彼女の横顔が、切なかった。
「他の皆がどう思ってたとしてもさ。俺はもう星見さんのこと、嫌いにはなれないよ」
「……本当?」
なんの衒いもなく、本心から言葉を紡ぐ。
うん。星見さんは、嫌われるような心根の人じゃないって、俺にはわかるから。
「それにさ、独りでも通学し続けたのって、それだけで凄いことだって、俺は知ってる。強い人なんだなって、尊敬するよ」
「強い人……」
色のない、純粋な声が彼女の口から溢れた。
「それは本当に嬉しい。誰かにそう思ってもらえてるのは、……本当に」
沁み入るような声だった。
そして彼女は、何かを切望するような幼気な瞳で、俺を見た。
「和佳くん。もし良かったら、私と、……」
躊躇うように途絶えてしまった、その言葉。
その続きは、『友達になって欲しい』だ。わかっている。
恋の告白が来るわけではない。
俺はちゃんと、そうわかっていた。
なのに、星見さんはハッとしたように眼を見開くと、その瞳を潤ませた。
そして、静かに手のひらで口元を覆う。
まるで、何かに見惚れるかのように目を細め、眉尻を下げていく。
「私と……、じゃなくて、その……」
信じられないが、それはまさに、恋する女の子の仕草だった。
「和佳くん……」
胸が詰まるような呼気で、名前を呼ばれる。
彼女の頬が、艶やかな瞳と金色の髪が、夕日で赤く照らされている。
それがあまりにも綺麗で、儚くて、だからこそ、俺は気付くことができた。
夕焼けの魔法に。
今が、マジックアワーだということに。
「和佳くん、いきなりで、驚くと思うんだけど……」
溢れる感情を抑え込もうとするような、可憐な声。
俺の気付きは、確信へと変わった。
マジックアワー。
日没後の僅かな間にだけ起こる奇跡。
赤と金の残光が、未熟な夜空の藍色と淡く混ざり、風景を幻想的に染め上げる。
世界を、全てを、最も美しく映し出す魔法の時間だった。
そんな情景の中、俺達を包む風には、ほのかに甘い春の香りまで満ちていた。
彼女は今、魔法に掛かってしまったのかもしれない。
「もし…、もしも、よければ」
「だめだ、星見さん」
俺は、誰かの想いに答える事が、絶対に出来ない。
それでも彼女は、お願い、と言って、言葉を続けてしまう。
その声は、可哀想なくらいに震えていた。
「それを、咥えてみてほしい……」
先ほど手渡された、白く細い紙巻きを彼女は指差した。
火は着けなくていいから、と促される。
口元に持っていくと、刻まれた葉が甘く香る。
どこか背伸びをした、ニヒルな匂いだった。
魔法に掛かった彼女の瞳には、少し大人びた姿の俺が映っているのだろうか。
戸惑いながらも口に咥えると、彼女は、悶えるように自らの身を抱いた。
そして、小さく息を呑んだ。何度も。
「ひ、……ひっ、あ」
星見さんが、膝から崩れる。
「……ひ、ひ、あひっ、ごめ、ごめんっ、あひひ、やばい」
もう、甘酸っぱい空気は残り香すらなかった。
それでも、念のために確認しておく。
「星見さん。俺が、どう見えてるの?」
「虫歯なのに、キャンディーを、我慢できなかった子。……あひひひ」

笑ってごめん、と苦しそうに何度も彼女は謝る。
そして、俺と目が合う度に、その笑いは大きくなっていく。
「あひひひっ、和佳くん、その顔やめて」
「普通の顔なんだけど」
ひいいっ、と奇声を上げて、彼女はベランダに倒れ込んでしまった。
たぶん、完全に俺がツボにハマってしまったのだろう。
もう何を言っても笑いを巻き起こせそうだ。
「ごめんね、笑いが止まらなくて。悪気はないの。それは、わかって」
「うん。和佳は、わかってるよ」
「ダジャレぇ」
息も絶え絶えの彼女を見下ろしながら、静かに自嘲の溜め息を吐く。
顔にタオルを巻きつけた俺が、ニヒルな大人に見えるわけないじゃないか。
虫歯なのに棒付きキャンディーを我慢できなかった食いしん坊。
きっとよく言い得ていることだろう。
何がマジックアワーだよ。
今日のシャワー中に悶絶する種が増えてしまった。
そんなへっぽこな時間も過ぎて、濃紺が空を覆い始めた頃、ようやく星見さんも落ち着いてきた。
くたっと床に横たわったまま、彼女は満足そうに息をしている。
「こんなに笑ったの、生まれてはじめて……」
ありがとう、和佳くん。
そう微笑まれるも、微妙な気持ちだった。
「そういえば、さっき星見さん、何か言いかけてなかった? もし良かったら、って」
「あ、うん。和佳くん、私と友達になってほしいんだ」
初めの予想通りの言葉に、どこか胸がほっとする。
もちろん、俺でよければ。
素直にそう頷く。
「……初めて、友達できた」
星見さんはそう呟くと、感慨深そうに、出来立ての夜風を吸い込んだ。
「あ、でも私、話すの下手だからさ。周りに他の人がいるときは話しかけないでね。惨事になるから」
大袈裟な、と俺が笑うと、彼女は真剣な顔で眉を顰めた。
「本当だよ。ずっと大変だったんだから。……でも、それだと、学校ではほとんど話せないか……」
「じゃあさ。俺、毎朝、今日と同じ時間に登校するよ。そうすれば朝くらいは話せるよ」
それは助かる!
そう明るくなった彼女の顔が、またすぐに陰る。
やっぱり朝だけじゃ足りない、と。
「和佳くんは帰宅部なんだよね? 放課後、一緒に遊ぼう。またうちに来て」
女の子の部屋に何度も上がるのは気が引けて、返答に詰まると、彼女は語気を強めた。
「明日も来て。明日は午前で授業終わるし、たくさん話せる。お願い。友達のお願い」
承諾を強要するような圧で迫られて、思わず頷いてしまった。
「良かった。和佳くんとなら、私も結構普通に話せるみたいだから、たくさん話してみたいんだ」
なんでだろうね、と言う彼女に、俺は眉尻を下げて笑う。
「俺がマスコットみたいな見た目だから、安心できるのかもね。着ぐるみみたいで、男子として意識しなくて済むんじゃな」
言葉の途中で、息を呑む。
彼女は急に、俺の頬へと両手を伸ばした。
そして、肌に触れる寸前のところで、その手のひらは止まった。
「そうかな。和佳くん、顔のパーツは整ってると思うけど。スマートになったら、モテる方かも」
俺の広めのフェイスラインを覆い隠して、星見さんは微笑んだ。
思わず呼吸を忘れてドギマギとしていると、ぐおおおっと、腹の虫が凶暴な鳴き声を上げてしまった。
まさかの、彼女のお腹から。
大丈夫。こういう時のフォローは慣れている。
俺という食いしん坊キャラの活かし所だ。
「ごめんごめんっ、俺の腹が鳴っちゃったよ!」
「? 今のは、私なんだけど……」
星見さん、正直な人だ。
庇おうとした俺の手をすり抜けて、自ら羞恥の火へと飛び込んだ彼女は、顔を真っ赤にして悶えている。
「そ、そうだったのか! どうりで俺にしては、か弱い音だと思ったんだよ。俺ももう腹ぺこだな。夕飯時だね!」
土壇場のフォローにしては、合格点だろう。
「そうだね。じゃあ、物足りないけど、今日は終わりにしようか。……明日も、来てくれるんだもんね?」
釘を刺すような圧のある上目遣いで、彼女は首を傾げた。
それに頷くと、なら解放してあげましょう、とでも言うような身振りで、廊下への扉を開いてくれる。
玄関に向かう俺は、完全に浮ついてしまっていた。
女の子から自分の存在を求められ、少しばかり容姿を褒められただけで、高揚してしまった心は、手を離れた風船のようにフワフワと浮いて戻ってこない。
ほんのりとした余熱を、冷ますことができずにいた。
「ふふ。和佳くん大きいから、うちの玄関が小さく見える」
そんな彼女の悪気のない言葉に、心地よい劣等感が戻ってくる。
可笑しな期待から覚めた目が、俺の生きる現実を映し直した。
足元の靴を隠すほど出っ張った、自分の腹を。
俺は、この腹が好きだ。
俺の在るべき生き方を、いつも思い出させてくれるから。
この腹は、俺が俺のために自ら肥やしている、大切な枷であり、錨だから。
「私も夕飯買いに行く」
ちょっとごめんね。
そう言って彼女は、俺の背中にそっと触れて、支えにしながら靴を履く。
「だから、途中まで一緒に行こう。やっぱり、もう少し和佳くんと話したいから」
先ほどまでなら、その言動にも心を擽られていただろう。
だけど、今はもう大丈夫。
彼女と自分との間に、交わることのない線をちゃんと引くことができるから。
俺の人生から、恋愛に関する一切を放棄する。
それだけは、絶対に破ってはいけない事なのだから。


