規制されてしかるべき私達の

夕暮れキャンディー①

 ——金曜日 (ほう)()()  和佳(わか) 治正(はるまさ)


 まるで新築(しんちく)のように清潔(せいけつ)な香りがするロビー。
 最新のテクノロジーを感じさせるエレベーター。
 洗練(せんれん)されてシンプルなのに、(ぬく)もりのある装飾(そうしょく)(ほどこ)された廊下(ろうか)
 クラスメイトの家というよりも、(だい)企業(きぎょう)のオフィスにでも(まね)かれたみたいで、俺は完全(かんぜん)委縮(いしゅく)してしまっていた。
 そして、一番(おく)の部屋の前で星見さんは足を止めると、(かぎ)を使わない未知(みち)仕組(しく)みで開錠(かいじょう)する。
 ついに、その(とびら)(ひら)かれた。

「おおおお邪魔(じゃま)(いた)します! この(たび)は、怪我(けが)のお手当(てあ)てをしていただきに」
「あ、誰もいないから。お母さん、今日(おそ)くて……、まだまだ、(かえ)らないから」

『今日、うち、親()ないんだ』

 それは、(あま)()っぱいときめきをもたらす、男子(あこが)れの殺し文句(もんく)
 のはずなのだけれど、(かばん)を二つも(かか)えて疲労(ひろう)困憊(こんぱい)の彼女の声に、そんなドキドキ要素(ようそ)微塵(みじん)も感じられなかった。
 心拍(しんぱく)(すう)(かぎ)っては、ずいぶんと()がっている様子(ようす)だけれども。
 彼女はヨロヨロとリビングに荷物(にもつ)()くと、制服(せいふく)のポケットの中身(なかみ)をテーブルの上に(なら)べた。
 そして、ぼんやりと天井(てんじょう)見上(みあ)げて、()()くしていた。
 意地(いじ)()って俺のリュックを背負(せお)い続けたものの、思っていた以上にハードだったのだろう。
 なにせ、あのリュックは十五キロある。
 そして俺も、女の子の家でどう()(まわ)れば良いのか(まった)見当(けんとう)がつかず、玄関(げんかん)()()くしていた。

「何してるの? ()がって」

 やっと()(かえ)ってくれた星見さんが、()()けてくれる。
 だけど俺は、まだ(くつ)()げなかった。

「いや、思ったんだけどさ。(むすめ)が男を家に()げたりしたら、お父さんが怒るんじゃないかな?」
「あぁ、……大丈夫だよ」

 少しの()があった。彼女の視線(しせん)が、少しだけ(まよ)うように()れる。

「お父さん、私が物心(ものごころ)つく前に()くなってるから」

 ああ、そういうことだったのか。彼女の一瞬(いっしゅん)躊躇(ためら)いが、とても身近(みぢか)に感じられた。

「うちと同じだね」
「え、そうなの?」

 (かす)かな緊張(きんちょう)(しめ)していた彼女の(ほほ)(ゆる)んで、(やわ)らかで素直(すなお)な声を出した。
 気の(こわ)()りがほぐれたのが、見てとれた。

「うん。俺が()まれてすぐに母親が病気(びょうき)()くなってさ。少ししてから、父親もね」
「そっか。うちは、お母さんは元気。ほとんど家にはいないんだけどね」

 そっか、和佳くんは、ご両親(りょうしん)ともいないんだね。そう言ってすぐ、彼女は首を(かし)げた。
 そして、きょとん、とした不思議(ふしぎ)そうな表情で口を(ひら)く。
 でも、それじゃあ和佳くんは

「どうして生きているの?」

 どうして、生きているの……?
 ん? え?
 まさか俺も、両親の(あと)()え、と……⁉
 彼女の(はっ)した疑問(ぎもん)が、頭の中でこだまして、混乱(こんらん)した俺の思考(しこう)停止(ていし)した。
 そして目の前では、何故(なぜ)か彼女も停止していた。
 不思議といった表情で見合いながら、相手(あいて)返答(へんとう)をひたすら()つ。
 (こお)()いた空間(くうかん)の中で、お(たが)いの首だけがゆっくりと(よこ)(かたむ)いていく。
 すると、彼女は徐々(じょじょ)に目を()(ひら)いて、口を大きく()けていった。
 驚愕(きょうがく)、といった表情(ひょうじょう)(しめ)した彼女は、ついに、声を(はっ)してくれた。

「や、いや、(ちが)、その、どうし……、どうやって、()き、き」

 (こわ)れかけたロボットのようになりながら言葉を(さが)す彼女を、()(まも)る。

「ご両親がいないのなら、……今は、どうやって()らしているの?」

 ああ、そういう意味だったのか。
 彼女の真意(しんい)に安心して、俺も口を(ひら)く。

母方(ははかた)(ばあ)ちゃんが面倒(めんどう)見てくれてる。優しい婆ちゃんだよ」
「そうなんだ。優しいお婆ちゃん……。いいね」

 祖母(そぼ)世話(せわ)をしてくれていることを(つた)えると、()って()わったように、お互いの緊張(きんちょう)(やわ)らかにほどけた。
 それは、俺にとっては(めずら)しくて、新鮮(しんせん)なことだった。
 親がいない事を話すと、だいたい空気がぎこちなくなる。
 それが、いつも苦手(にがて)だった。
 だけど俺と星見さんなら、ただの自己(じこ)紹介(しょうかい)として、(なん)()()しに話せる。
 (あわ)れまれることも気の(どく)がられることもなく、純粋(じゅんすい)に自分の()()ちを説明(せつめい)するだけ。
 だから、なんだか新鮮(しんせん)だった。たぶん、彼女もそうなのだろう。

「ねえ、いつまで玄関(げんかん)にいるの? 早く()がって。薬箱(くすりばこ)、すぐ用意(ようい)するから」

 (つか)れも(やす)まったのか、少し元気づいた彼女に(うなが)されて、俺は、いよいよ女の子の()らす部屋へと足を()()れる。
 ご両親は()なくとも丁寧(ていねい)に頭を()げて、挨拶(あいさつ)を口にした。

「おじゃじゃします」

 しっかりと明瞭(めいりょう)()んだ俺は、ついに廊下(ろうか)へと上がった。
 背筋(せすじ)()ばして、(まわ)りをジロジロと()(わた)さないように配慮(はいりょ)し、首を固定(こてい)して歩く。
 すると、薬箱を(さが)している星見さんが、(かす)かに(ふる)()した。
 (おそ)らくあれは、俺の滑稽(こっけい)さを笑っているのだ。
 ギクシャクと廊下(ろうか)行進(こうしん)してくる俺の姿(すがた)が、おもちゃの兵隊(へいたい)でも彷彿(ほうふつ)とさせたのだろう。
 顔を見なくてもわかる。
 男子ってのは、女子の(わら)いに敏感(びんかん)なのだから。
 だけど、それで良かった。
 俺は、不躾(ぶしつけ)な男と思われるよりは、()器用(きよう)紳士(しんし)として()りたい。
 (たと)えそれが、不審(ふしん)人物(じんぶつ)にしか()えないとしても、だ。
 そうしてリビングに辿(たど)()いたものの、俺の緊張(きんちょう)は思っていた以上に(きわ)まっていた。
 女の子の部屋で、いつどこに(すわ)って()いのかが、わからない。
 思えば、高校入試(にゅうし)面接(めんせつ)試験(しけん)では、(うなが)されるまで座ってはいけなかった。
 あれがマナーの正解(せいかい)だとすれば、今は()()くすのが正解か?
 (ふたた)(ぼう)()ちで停止(ていし)していると、薬箱(くすりばこ)を見つけた星見さんが、やっと()()いてくれた。

「え、なんで立ってるの? 座りなよ。ふふ、着席(ちゃくせき)着席(ちゃくせき)

 俺の挙動(きょどう)()いたりせず、(わら)いながら言ってくれたことに安心する。
 ただ、星見さんが着席と言いながら、犬にお(すわ)りを指示(しじ)するようなハンドサインをしたことが気になった。
 おそらく、俺はいま彼女の中で、『男子』というカテゴリーから、『マスコット』的なカテゴリーへと降格(こうかく)されたのだ。
 まあ、(べつ)に良いのだけれども。
 (ゆか)(こし)()ろすと、星見さんは薬箱を(ひら)き、消毒(しょうどく)(えき)(ばん)(そう)(こう)を取り出して、(かた)まった。
 彼女の首が(ごく)(わず)かに(かたむ)く。
 あれ、どうするんだっけ……? とでも思っているのだろう。
 たぶん、彼女は(きず)手当(てあ)てをし()れていない。
 そんなふうに()み取っていると、彼女は(きゅう)に顔を()げた。

「和佳くん、まずは傷口(きずぐち)(あら)おう。そこのシンクでいいから」

 星見さんは、いかにも手慣(てな)れているかのような(くち)()りで、(すわ)ったばかりの俺をシンクへと()たせた。
 そして俺が手を(あら)(はじ)めると、その(すき)(ねら)ったかのように、パントマイムの要領(ようりょう)手順(てじゅん)確認(かくにん)をし(はじ)める。
 傷口に消毒(しょうどく)(えき)()け……、ティッシュで()いて……、(ばん)(そう)(こう)()る。
 その身振(みぶ)りを見た(かぎ)り、(まった)問題(もんだい)はなさそうだ。
 安心(あんしん)して、俺は彼女のもとへと(もど)る。
 そして(うなが)されるままに手を()()すと、星見さんは傷口に消毒液を掛けた。

「んぐゥッ⁉ (いた)ァッ‼」
「えっ、大丈夫(だいじょうぶ)⁉」

 予想(よそう)以上(いじょう)強烈(きょうれつ)刺激(しげき)に、思わず声を()げてしまう。
 だけど彼女の手際(てぎわ)には、何も()()はなかった。

「ごめんごめんッ。はぁッ、(ひさ)しぶりだからかな。(おも)ってたよりも()みて、(おどろ)いたんだ。……たぶん、()いてるんだろうね」
「あ、そうなんだ。()いてるなら、良かった。じゃあ続けるね」

 そう言って彼女は、(すべ)ての傷に消毒液をまんべんなく掛けていく。

「あッ、くーッ、()く。これは効いてるなぁ」
「……ふふ、がんばって」
「……」
「……」
「あっ、ぐぅぅっ。いやぁ、効いてるね! これは、(なお)りも(はや)そうだ!」
「……良かった。ふふ、もう少しだけ、我慢(がまん)して」
「…………。ぐぉぉーっ、効くぅ!」
「……はは」

 俺が冗談(じょうだん)めかすように(いた)がると、星見さんは(こま)ったように(まゆ)()げて(わら)う。
 実際(じっさい)激痛(げきつう)なのだけれど、俺はそれを(こら)えて、ひたすら(うそ)っぽく(うめ)くしかなかった。
 そうしていないと、星見さんの表情はみるみる(くら)くなり、深刻(しんこく)そうになってしまう。
 たぶん、俺の(きず)を見て、罪悪(ざいあく)(かん)(さいな)まれているのだろう。
 私のせいで()わせた怪我(けが)だ。
 そんなふうに(おも)()めているのかもしれない。
 だからか彼女は、まだ()(にじ)んでくる生傷(なまきず)までも、入念(にゅうねん)手当(てあ)てしてくれた。
 消毒(しょうどく)(えき)細胞(さいぼう)(しん)にまで浸透(しんとう)させるかのように、ティッシュを(つよ)()()ててくれる。
 白目(しろめ)()くほど(いた)かった。
 そして、やっと(ばん)(そう)(こう)()ってくれた。
 ()がれてしまわないようにと、とてもとても丁寧(ていねい)に、ぴっちりと。

「……はい、()わったよ」
(たす)かったぁ‼」

 心の(そこ)から(さけ)んでしまう。
 苦行(くぎょう)のような介抱(かいほう)からの解放(かいほう)に、思わずオーバーな歓声(かんせい)()げてしまった。
 俺は(あわ)てて、誤魔化(ごまか)しの言葉を(つな)ぐ。

「いや、その、消毒液ってこんなに()みるんだね! 手当てしてもらうのなんて、(ちい)さい(ころ)以来(いらい)だったから(わす)れてたよ」

 すると彼女も、共感(きょうかん)(しめ)すように小さく(うなず)いた。そうだよね、と。

「私も、最後(さいご)に手当てしてもらったのは保育(ほいく)(えん)の頃かも。この消毒液も(なつ)かしいな」

 そう言って、幼児(ようじ)()けキャラクターがプリントされた消毒(しょうどく)(えき)容器(ようき)を見ると、星見さんは(やさ)しく目を(ほそ)めて、すぐさま()(ひら)いた。
 ()(さお)な顔になった彼女が、(きゅう)()()かってくる。

(いや)ぁぁぁ‼」 
「ギャアアアアアアアアアアアア‼」

 絶叫(ぜっきょう)する星見さんに絶叫する。
 彼女は俺の(うで)(つか)むと、丁寧(ていねい)()()けたばかりの(ばん)(そう)(こう)(らん)(ぼう)()()がし(はじ)めた。

(いた)アァッ‼ なんで⁉ 痛アァッ‼ なんで⁉ やめてェェ!」
使用(しよう)期限(きげん)があったの‼ (きゅう)年前(ねんまえ)! この(しょう)(どく)(えき)、九年前に駄目(だめ)になってたの‼」

 驚愕(きょうがく)する俺の手を()いて、彼女は無我(むが)夢中(むちゅう)でシンクへと(はし)()す。
 (かべ)()()たって何度(なんど)(はず)む俺の身体(からだ)は、まるで子供(こども)()(まわ)される風船(ふうせん)のようだった。
 そして、(つめ)たい水道(すいどう)(すい)容赦(ようしゃ)なく傷口(きずぐち)()けられる。
 白目(しろめ)()くほど(いた)かった。

「どうしよう、早く(なお)りますようにって、(ねん)()りに()()ませちゃったよぉ」

 星見さんが子供のように(わめ)いた。
 そして俺の傷口を(こす)り、(しぼ)()すように(つね)って、毒液(どくえき)体外(たいがい)()そうと懸命(けんめい)(いた)めつけてくる。
 ()(ころ)しきれない(うめ)きが(おれ)の口から()れる。
 その(たび)に、彼女の(あせ)りは(きわ)まってしまう。

(すご)(いた)がってたのって、期限(きげん)()れてたからなのかな⁉ ()んだりしたらどうしよう。病院(びょういん)……、和佳くん、病院に行こう?」 
「大丈夫‼ なんかもう、凄い大丈夫だよッ‼」

 (きゅう)ごしらえの笑顔(えがお)()()けて(さけ)び、彼女の(あら)療治(りょうじ)から自分の(うで)救出(きゅうしゅつ)する。
 自前(じまえ)のタオルハンカチで(うで)(つつ)むと、ジンジンと()きじゃくるように(きず)(うず)いていた。
 ヤンキーにやられた時よりも、ずっと(ひど)い。
 疲弊(ひへい)のままに、リビングの(ゆか)へと(すわ)らせてもらう。
 すると、へたり()むように星見さんも壁際(かべぎわ)に腰を()ろした。

「私、いつも……」

 (うつむ)く彼女の口から、本当に(かす)かな(ひと)(ごと)()ちた。
 (ひざ)(かか)え、(なみだ)()き止めるように(かた)(まぶた)()じ、(にぎ)った手を(ひたい)()()てている。
 今にも自分の頭を(なぐ)()しそうなほど、身体を強張(こわば)らせながら。
 だけど、両肩(りょうかた)(ちから)()()がり、落胆(らくたん)するような呼気(こき)()れている。
 (ひどい)自己(じこ)嫌悪(けんお)(さいな)まれているのだろう、ということが見てとれた。
 おそらく(くら)い気持ちに心が()まれ過ぎて、俺が見ていることにも気付いていない。
 ()(はじ)めた()が、カーテンを褐色(かっしょく)()めていく。
 外が(ほの)(ぐら)くなるにつれて、心の中まで(かげ)っていくようだった。
 じゃあ、俺そろそろ帰るね。
 なんて間違(まちが)っても言い出せない雰囲気(ふんいき)だった。
 どうしたものか、と視線(しせん)(およ)がせていると、ふと、それが目に入った。
 星見さんがポケットからテーブルに出したスマートフォンの(となり)に、ライターと一緒に()かれている、それが。

「あ。星見さん。もしも()いたければ、気にせずにそれ、吸ってよ」
「え……。あ、あっ。私、いつもの(くせ)で、出して、その、これは」

 (あわ)てる彼女を落ち着かせるために、出来るだけ(やわ)らかい発声(はっせい)意識(いしき)する。

「大丈夫。俺の身近(みぢか)な人達も、いつも吸ってるからさ。だから変な偏見(へんけん)はないよ。これ、気分が良くなるんだろ?」
「……気分は、良くならないかな」
「え、美味(うま)いもんなんじゃないの?」
「うん。どちらかと言うと、不味(まず)いと思う」

 星見さんは(はこ)の中から一本()き取ると、口にも(くわ)えずに、それをただ(なが)めた。
 正直(しょうじき)に言って、不味い、という意見(いけん)新鮮(しんせん)だった。
 俺の(まわ)りのおじさん達は、(じつ)美味(うま)そうに、それを吸うからだ。
 食後(しょくご)のそれを、食事(しょくじ)自体(じたい)より美味(うま)そうに吸うおじさんばかりだから。
 吸っていると味覚(みかく)が変わって、(けむり)美味(おい)しく感じるようになるのかと思っていた。
 じゃあ、どうして吸うの? 俺がそう()う前に、彼女は言葉を続けた。

「ただ、(いや)な事ばかり考えてしまう時に、良いんだ」
「え、どういうこと?」

 その彼女の言葉は、実に興味(きょうみ)(ぶか)かった。
 コレは美味(うま)いぞ、カツ丼よりも美味(うま)いぞ。
 そう言ってくるおじさん達なんかよりも、よっぽど俺の食指(しょくし)は動かされた。

「頭が(まわ)らなくなって、ぼーっとして、考えられなくなるの」
「……それ、いいな。夜、()る前とかに()しいな」

 共感(きょうかん)を口にした俺に、彼女は意外(いがい)そうに顔を()げた。

「あと、俺、シャンプーしてる時にも欲しいな」
「それは難易(なんい)()(たか)くない?」

 そう言いながらも、彼女は(うなず)いた。でも、わかる、ベッドもお風呂(ふろ)(つら)い、と。
 だけど、その表情は(かす)かに(あか)るかった。

「和佳くんが私と同じように感じてるなんて、意外。(おだ)やかで、(くら)い気持ちとは無縁(むえん)な人かと思ってたから」
「ひどいな。俺だって、頭の中が(わずら)わしくて(つら)い時はあるよ」

 俺も、夜の布団(ふとん)風呂場(ふろば)は、強迫(きょうはく)(てき)自己(じこ)嫌悪(けんお)(おそ)われる場所だ。
 一番(くる)しくて、一番(だれ)にも(たす)けを(もと)められない場所。
 ただただ()えるしかない、(ひと)りの時間。
 何度も(とら)われて、これからも囚われ続けるのであろう、ぼんやりとした地獄(じごく)
 (たが)いに、シンパシーが(つう)(はじ)めたのを感じる。
 彼女は(はじ)めて(かがみ)を見た(ねこ)のように、興味(きょうみ)(ぶか)そうに、(つや)やかな(ひとみ)(のぞ)()んできた。
 
「和佳くんは、シャンプーの時、どんなふうに(つら)くなる?」

 そうだね……。そう言ってから、俺は素直(すなお)()()ける。

「今日はクレープを食べてた星見さんに、何故(なぜ)かウインクしちゃったことを思い出して、()ずかしさで()ぬかな」

 (たし)かにあれは(へん)だった!
 そう微笑(ほほえ)む彼女に、男の子は緊張(きんちょう)すると変になっちゃうんだよ、と可笑(おか)しな言い(わけ)をしながら()(わら)う。
 すると、()れた(ほほ)()()って(いた)み、俺はたぶん、とても(ひど)い顔になった。
 突然(とつぜん)、星見さんが立ち上がる。
 
駄目(だめ)だ、私。こんなもの吸って、頭を(にぶ)らせてる場合じゃない。そんなの、絶対(ぜったい)駄目」

 ()ってて! そう言って俺の手にそれを押し付けると、星見さんはシンクへと走った。
 そして、保冷(ほれい)(ざい)(ふた)つと、(うす)いタオルを(つか)んで(もど)ってくる。

「これなら大丈夫だから。私が試験(しけん)勉強(べんきょう)の時に毎回(まいかい)(あたま)()ててるやつだから、安心して」

 保冷(ほれい)(ざい)をタオルで(くる)むと、彼女は俺の目の前に(かが)んだ。
 花を思わせる清潔(せいけつ)な香りと(やわ)らかな生地(きじ)が、俺の(あご)から頭頂部(とうちょうぶ)へと沿()わされる。
 そして、(ほほ)に保冷剤が()たるように調整(ちょうせい)して、(むす)ぼうとしてくれている。だけど

「わ、ぁっ……」
「痛い?」
「いや、だ、大丈夫!」

 感嘆(かんたん)()らしかけた口をすぐに()じる。
 その光景(こうけい)は、俺にはあまりにも刺激(しげき)(つよ)かった。
 目の前が、女の子の胸元(むなもと)でいっぱいになってしまったのだ。





 思わず()()じるが、それも不自然(ふしぜん)だと思い、できる(かぎ)視線(しせん)真下(ました)へと()けて、俺は必死(ひっし)紳士(しんし)(たも)った。
 だけど彼女のひんやりとした(ゆび)が、無自覚(むじかく)何度(なんど)も、俺の(ねつ)っぽく()れた(ほほ)をなぞる。
 その(たび)に、俺の紳士(しんし)はタキシードをかなぐり()てようと(ころ)(まわ)るが、それを懸命(けんめい)(おさ)え続け、そして、見事(みごと)に俺は()えきった。

「……お()たせ。(むす)(かた)、きつくない?」

 強張(こわば)()ぎて口が(かた)まってしまい、上手(うま)(こた)えられない。
 すると、ふっ、と(わら)って、星見さんは目を(ほそ)めた。

「なんだか、……和佳くん可愛(かわい)くなっちゃった」

 ええっ⁉
 動揺(どうよう)のままに声を()げてしまったけれど、俺は、ちゃんとわかっている。
 今の可愛いは、異性(いせい)として()けられた言葉ではない。
 マスコットに(たい)する可愛いだ。英語ならファニーが(ちか)いのだろう。
 そうわかっているのに、顔が(あか)らんでしまい、どうしても(おさ)えられなかった。
 (くる)(まぎ)れに、手のひらで必死(ひっし)(あお)いで()まそうとする。

「え、大丈夫? タオル()いたの(あつ)かった?」
「あ、ああ。いや、俺、(ひと)一倍(いちばい)暑がりだからさ。気にしないで」

 そうなの? そう言って、彼女は立ち上がる。

「じゃあ、ベランダ()けるから、(すず)んで」

 ベランダの(まど)()けると星見さんは、()まった。
 彼女の金の(かみ)とスカートを風が()らす。
 その涼やかな景色(けしき)(さそ)われて、火照(ほて)った俺は、思わず(となり)へと(あゆ)()った。

「すごい……」

 彼女が、そう(つぶや)いた。
 その視線(しせん)の先を()った時、俺は思わず、(いき)()んだ。
 (まばゆ)夕陽(ゆうひ)(ひとみ)へと()し込み、俺の網膜(もうまく)()り付いていた不埒(ふらち)残像(ざんぞう)()()した。
 そして(つよ)()き込んだ(はる)夕風(ゆうかぜ)が、脳内(のうない)煩悩(ぼんのう)一気(いっき)(あら)(なが)していく。
 浄化(じょうか)の火。
 そう思うほどの(うつく)しい夕景(ゆうけい)が、いっぱいに(ひろ)がっていたのだ。
 ふと、(となり)を見ると、彼女はこちらを()いていた。
 何かに見入(みい)る子供のように、ぽかんと口を()けて。

青春(せいしゅん)だ」

 あどけない表情(ひょうじょう)から、ぽとりと()ちたその言葉に、じんわりと(わら)いが()()げてくる。
 それでも、彼女は表情を()えず、(かん)()るかのように、また景色へと視線(しせん)(もど)した。
 目の前では、高校の校舎(こうしゃ)(あたた)かな夕空(ゆうぞら)(ひた)っていた。
 グラウンドの運動(うんどう)部員(ぶいん)(たち)も、帰路(きろ)ではしゃぐ生徒達も、(みんな)、一緒に(ひた)っている。
 吹奏(すいそう)(がく)()(かな)でる曲や、(ひび)いてくる(わら)い声までも、どこか朱色(しゅいろ)に感じるほどだった。
 (すべ)(ひと)しく、夕焼(ゆうや)けに()まっていた。
 この景色(けしき)(なが)めている、星見さんと俺も(ふく)めて。
 彼女はまた、大切(たいせつ)そうに(つぶや)いた。

「これ、青春(せいしゅん)だよ……」

 (はじ)めてクリスマスプレゼントを見つけた時、(おさな)い彼女は、こういう反応(はんのう)をしたのかもしれない。
 なんとなく、そう思った。
 その無垢(むく)(ひとみ)は、自分達を俯瞰(ふかん)から(なが)めて、感動(かんどう)しているかのようだった。
 今、私達は青春(せいしゅん)(なか)()るんだ、と。
 ただの女子高生が、そんな()たり(まえ)のことを、信じられない、といった様子(ようす)で。

「私さ、高校でも(きら)われてるよね」

 突然(とつぜん)の言葉に、思わず返答(へんとう)見失(みうしな)ってしまう。
 ()()いてしまった。
 だからもう、下手(へた)誤魔化(ごまか)しでは通用(つうよう)しないだろう。
 残念(ざんねん)なことに、全員(ぜんいん)にではないものの、それは事実(じじつ)だった。
 正確(せいかく)には、同級生のうち、三分の一くらいから彼女は(うと)まれている。
 小中学校の同窓生(どうそうせい)から根強(ねづよ)(きら)われていたらしく、入学当初(とうしょ)からすでに悪評(あくひょう)(ひろ)まっていたことも原因(げんいん)のひとつだろう。
 (おも)冷淡(れいたん)な話し口調(くちょう)理由(りゆう)とされ、(げん)に彼女の言葉(ことば)()らずな()(まわ)しは、その(うら)()けとなってしまっていた。
 そして、致命(ちめい)(てき)となったのは、入学式後すぐに()こしたクラスメイトとの口論(こうろん)らしい。
 (くわ)しくは知らないが、相手の子だけではなく、周囲(しゅうい)からも非難(ひなん)されるような発言(はつげん)をしてしまった、と聞いたことがある。
 さらに、(きわ)()けまであったのだ。
 その騒動(そうどう)後日(ごじつ)突然(とつぜん)、黒かった(かみ)を明るく()めて、ピアスまでして来たという話だ。
 今や、そのインパクトが一人(ひとり)(ある)きしてしまい、彼女を、(まわ)りと調和(ちょうわ)する気の無い人、として孤立(こりつ)させてしまった。
 ただ、ここまで会話(かいわ)をした俺には、わかる。
 彼女は、ほとんどの場合、話す時に目が合わない。
 (ひとみ)(なな)(うえ)移動(いどう)させたまま、言葉を口にしていることが多い。
 その(くせ)は、言葉を吟味(ぎんみ)してはいるが、()()えられず、文章(ぶんしょう)構成(こうせい)しきる前に声に出してしまっている可能(かのう)(せい)が高い、と俺は思う。
 それは、気遣(きづか)いの無い人物ではなく、むしろ、気を(つか)いすぎる人物に見られる特徴(とくちょう)なのではないかと思

「やっぱりそうなんだ」

 しまった。
 脳内(のうない)没頭(ぼっとう)していたせいで、無言(むごん)肯定(こうてい)だと(とら)えられてしまった。
 (あわ)てふためく俺に、星見さんは(わら)った。

「でもさ。私いま、(はじ)めて学校行きたいって思えたんだ」

 そう(ちから)なく笑う彼女の横顔が、(せつ)なかった。

(ほか)の皆がどう思ってたとしてもさ。俺はもう星見さんのこと、(きら)いにはなれないよ」
「……本当?」

 なんの(てら)いもなく、本心から言葉を(つむ)ぐ。
 うん。星見さんは、嫌われるような心根(こころね)の人じゃないって、俺にはわかるから。

「それにさ、(ひと)りでも通学(つうがく)し続けたのって、それだけで(すご)いことだって、俺は知ってる。(つよ)い人なんだなって、尊敬(そんけい)するよ」
「強い人……」

 (いろ)のない、純粋(じゅんすい)な声が彼女の口から(こぼ)れた。

「それは本当に(うれ)しい。(だれ)かにそう思ってもらえてるのは、……本当に」

 ()()るような声だった。
 そして彼女は、(なに)かを切望(せつぼう)するような幼気(いたいけ)(ひとみ)で、俺を見た。

「和佳くん。もし良かったら、私と、……」

 躊躇(ためら)うように途絶(とだ)えてしまった、その言葉。
 その続きは、『友達になって欲しい』だ。わかっている。
 恋の告白(こくはく)が来るわけではない。
 俺はちゃんと、そうわかっていた。
 なのに、星見さんはハッとしたように()見開(みひら)くと、その(ひとみ)(うる)ませた。
 そして、(しず)かに手のひらで口元を(おお)う。
 まるで、何かに見惚(みと)れるかのように目を(ほそ)め、眉尻(まゆじり)()げていく。

「私と……、じゃなくて、その……」

 信じられないが、それはまさに、恋する女の子の仕草(しぐさ)だった。

「和佳くん……」

 (むね)()まるような呼気(こき)で、名前を()ばれる。
 彼女の(ほほ)が、(つや)やかな瞳と金色(きんいろ)(かみ)が、夕日で赤く()らされている。
 それがあまりにも綺麗(きれい)で、(はかな)くて、だからこそ、俺は気付(きづ)くことができた。
 夕焼(ゆうや)けの魔法(まほう)に。
 今が、マジックアワーだということに。

「和佳くん、いきなりで、(おどろ)くと思うんだけど……」

 (あふ)れる感情を(おさ)え込もうとするような、可憐(かれん)な声。
 俺の気付きは、確信(かくしん)へと変わった。
 マジックアワー。
 日没(にちぼつ)()(わず)かな(あいだ)にだけ起こる奇跡(きせき)
 赤と(きん)残光(ざんこう)が、未熟(みじゅく)な夜空の藍色(あいいろ)(あわ)()ざり、風景(ふうけい)幻想(げんそう)(てき)()()げる。
 世界を、全てを、(もっと)(うつく)しく(うつ)し出す魔法の時間だった。
 そんな情景(じょうけい)の中、俺達を(つつ)(かぜ)には、ほのかに甘い春の香りまで()ちていた。
 彼女は今、魔法に()かってしまったのかもしれない。

「もし…、もしも、よければ」
「だめだ、星見さん」

 俺は、誰かの(おも)いに答える事が、絶対に出来ない。
 それでも彼女は、お願い、と言って、言葉を続けてしまう。
 その声は、可哀想(かわいそう)なくらいに(ふる)えていた。

「それを、(くわ)えてみてほしい……」

 (さき)ほど手渡(てわた)された、(しろ)(ほそ)紙巻(かみま)きを彼女は(ゆび)()した。
 ()()けなくていいから、と(うなが)される。
 口元に持っていくと、(きざ)まれた()が甘く香る。
 どこか背伸(せの)びをした、ニヒルな(にお)いだった。
 魔法に掛かった彼女の(ひとみ)には、少し大人(おとな)びた姿(すがた)の俺が(うつ)っているのだろうか。
 戸惑(とまど)いながらも口に(くわ)えると、彼女は、(もだ)えるように(みずか)らの()()いた。
 そして、小さく(いき)()んだ。何度(なんど)も。

「ひ、……ひっ、あ」

 星見さんが、(ひざ)から(くず)れる。

「……ひ、ひ、あひっ、ごめ、ごめんっ、あひひ、やばい」

 もう、甘酸(あまず)っぱい空気は(のこ)()すらなかった。
 それでも、(ねん)のために確認(かくにん)しておく。

「星見さん。俺が、どう見えてるの?」
虫歯(むしば)なのに、キャンディーを、我慢(がまん)できなかった子。……あひひひ」





 (わら)ってごめん、と(くる)しそうに何度(なんど)も彼女は(あやま)る。
 そして、俺と目が合う(たび)に、その笑いは大きくなっていく。

「あひひひっ、和佳くん、その顔やめて」
普通(ふつう)の顔なんだけど」

 ひいいっ、と奇声(きせい)()げて、彼女はベランダに(たお)()んでしまった。
 たぶん、完全(かんぜん)に俺がツボにハマってしまったのだろう。
 もう何を言っても笑いを()()こせそうだ。

「ごめんね、笑いが()まらなくて。悪気(わるぎ)はないの。それは、わかって」
「うん。和佳(わか)は、わかってるよ」
「ダジャレぇ」

 息も()()えの彼女を見下(みお)ろしながら、(しず)かに自嘲(じちょう)()(いき)()く。
 顔にタオルを()きつけた俺が、ニヒルな大人に見えるわけないじゃないか。
 虫歯(むしば)なのに棒付(ぼうつ)きキャンディーを我慢(がまん)できなかった()いしん(ぼう)
 きっとよく()()ていることだろう。
 何がマジックアワーだよ。
 今日のシャワー中に悶絶(もんぜつ)する(たね)()えてしまった。
 そんなへっぽこな時間も()ぎて、濃紺(のうこん)(そら)(おお)(はじ)めた(ころ)、ようやく星見さんも()()いてきた。
 くたっと(ゆか)(よこ)たわったまま、彼女は満足(まんぞく)そうに(いき)をしている。
 
「こんなに(わら)ったの、()まれてはじめて……」

 ありがとう、和佳くん。
 そう微笑(ほほえ)まれるも、微妙(びみょう)な気持ちだった。

「そういえば、さっき星見さん、何か言いかけてなかった? もし良かったら、って」
「あ、うん。和佳くん、私と友達になってほしいんだ」

 (はじ)めの予想(よそう)(どお)りの言葉に、どこか(むね)がほっとする。
 もちろん、俺でよければ。
 素直(すなお)にそう(うなず)く。

「……(はじ)めて、友達できた」

 星見さんはそう(つぶや)くと、感慨(かんがい)(ぶか)そうに、出来(でき)()ての()(かぜ)()()んだ。

「あ、でも私、話すの下手(へた)だからさ。(まわ)りに(ほか)の人がいるときは話しかけないでね。惨事(さんじ)になるから」

 (おお)袈裟(げさ)な、と俺が笑うと、彼女は真剣(しんけん)な顔で(まゆ)(しか)めた。

「本当だよ。ずっと大変だったんだから。……でも、それだと、学校ではほとんど話せないか……」
「じゃあさ。俺、毎朝(まいあさ)、今日と同じ時間に登校するよ。そうすれば朝くらいは話せるよ」

 それは助かる!
 そう明るくなった彼女の顔が、またすぐに(かげ)る。
 やっぱり朝だけじゃ()りない、と。

「和佳くんは帰宅(きたく)()なんだよね? 放課(ほうか)()、一緒に(あそ)ぼう。またうちに来て」

 女の子の部屋に何度(なんど)()がるのは気が()けて、返答(へんとう)()まると、彼女は語気(ごき)(つよ)めた。

「明日も来て。明日は午前で授業()わるし、たくさん話せる。お(ねが)い。友達のお願い」

 承諾(しょうだく)強要(きょうよう)するような(あつ)(せま)られて、思わず(うなず)いてしまった。

「良かった。和佳くんとなら、私も結構(けっこう)普通(ふつう)に話せるみたいだから、たくさん話してみたいんだ」

 なんでだろうね、と言う彼女に、俺は眉尻(まゆじり)()げて(わら)う。

「俺がマスコットみたいな見た目だから、安心(あんしん)できるのかもね。()ぐるみみたいで、男子(だんし)として意識(いしき)しなくて()むんじゃな」

 言葉の途中(とちゅう)で、(いき)()む。
 彼女は(きゅう)に、俺の(ほほ)へと両手(りょうて)()ばした。
 そして、(はだ)()れる寸前(すんぜん)のところで、その手のひらは()まった。

「そうかな。和佳くん、顔のパーツは(ととの)ってると思うけど。スマートになったら、モテる方かも」

 俺の(ひろ)めのフェイスラインを(おお)(かく)して、星見さんは微笑(ほほえ)んだ。
 思わず呼吸(こきゅう)(わす)れてドギマギとしていると、ぐおおおっと、(はら)(むし)(きょう)(ぼう)()(ごえ)()げてしまった。
 まさかの、彼女のお(なか)から。
 大丈夫。こういう時のフォローは()れている。
 俺という()いしん(ぼう)キャラの()かし(どころ)だ。

「ごめんごめんっ、俺の(はら)()っちゃったよ!」
「? 今のは、私なんだけど……」
 
 星見さん、正直(しょうじき)な人だ。
 (かば)おうとした俺の手をすり()けて、(みずか)羞恥(しゅうち)の火へと()()んだ彼女は、顔を()()にして(もだ)えている。

「そ、そうだったのか! どうりで俺にしては、か(よわ)(おと)だと思ったんだよ。俺ももう(はら)ぺこだな。(ゆう)(はん)(どき)だね!」

 土壇場(どたんば)のフォローにしては、合格(ごうかく)(てん)だろう。

「そうだね。じゃあ、(もの)()りないけど、今日は()わりにしようか。……明日も、来てくれるんだもんね?」

 (くぎ)()すような(あつ)のある上目(うわめ)(づか)いで、彼女は(くび)(かし)げた。
 それに(うなず)くと、なら解放(かいほう)してあげましょう、とでも言うような身振(みぶ)りで、廊下(ろうか)への(とびら)(ひら)いてくれる。
 玄関(げんかん)()かう俺は、完全(かんぜん)(うわ)ついてしまっていた。
 女の子から自分の存在(そんざい)(もと)められ、少しばかり容姿(ようし)()められただけで、高揚(こうよう)してしまった心は、手を(はな)れた風船(ふうせん)のようにフワフワと()いて(もど)ってこない。
 ほんのりとした余熱(よねつ)を、()ますことができずにいた。

「ふふ。和佳くん大きいから、うちの玄関が小さく見える」

 そんな彼女の悪気(わるぎ)のない言葉に、心地(ここち)よい劣等(れっとう)(かん)(もど)ってくる。
 可笑(おか)しな期待(きたい)から()めた目が、俺の()きる現実(げんじつ)(うつ)(なお)した。
 足元(あしもと)(くつ)(かく)すほど()()った、自分の(はら)を。
 俺は、この腹が好きだ。
 俺の()るべき()(かた)を、いつも思い出させてくれるから。
 この腹は、俺が俺のために(みずか)()やしている、大切(たいせつ)(かせ)であり、(いかり)だから。

「私も夕飯(ゆうはん)()いに()く」

 ちょっとごめんね。
 そう言って彼女は、俺の背中(せなか)にそっと()れて、(ささ)えにしながら(くつ)()く。

「だから、途中(とちゅう)まで一緒に行こう。やっぱり、もう少し和佳くんと話したいから」

 (さき)ほどまでなら、その言動(げんどう)にも心を(くすぐ)られていただろう。
 だけど、今はもう大丈夫。
 彼女と自分との(あいだ)に、(まじ)わることのない(せん)をちゃんと()くことができるから。
 俺の人生から、恋愛(れんあい)(かん)する一切(いっさい)放棄(ほうき)する。
 それだけは、絶対(ぜったい)(やぶ)ってはいけない(こと)なのだから。


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