規制されてしかるべき私達の
「和佳くん……!」
隣の席の、和佳治正くん。
傍に寄ると、彼は痛みに顔を歪めながら、震える声を出した。
「星見さん、無事? 俺は、無事じゃないけど」
「和佳くん……、なんで、助けに入って来たの?」
なんで……、と私の言葉を反復するように呟いてから、彼は言葉を続けた。
ほら、昼休み、体育教官室で、星見さんも聞いてたろ?
「俺、宗道先生からプールの外周十周走るように言われててさ。で、来たらヤンキーが」
「違う、そうじゃない!」
私の口が、彼の言葉を遮った。
目の前では、暴力とは無縁そうな温和な男の子が、生々しい怪我を負っている。
それは目を覆いたくなるほど痛ましく、酷く胸が締め付けられた。それなのに
「なんで、弱いのに、入って来たの?」
それなのに、また私の口は、想いの至らぬまま言葉を吐き始めた。
「やられっぱなしになるほど弱いなら、助けになんて来ないほうがいい!」
最低だ。
この口は、何てことを言うんだろう。
私を助けるために、彼は危険に身を投じて、傷ついているのに。
それを、彼の自己責任だとしようとしているのだろうか。
だけど、確かに、無謀な善行によって倒れている彼に、お礼は言うべきではないのかもしれない。
感謝すれば、彼は良かれと思って、また力の及ばない人助けをしてしまうかもしれないのだから。
そうしたら、次は怪我だけでは済まない可能性だってある。
だから、きっとお礼は言うべきではない。
だけど、だったら、なんて言えば良いのだろう。
優しくて弱い、彼のために。
彼はただ黙って、静かに私の言葉の続きを待っていた。
慌てたように、私の口が、もっともらしい言葉を並べ立てていく。
「善意でも、無謀なことはするべきじゃない。これからは、力にそぐわない不相応な行動は控えないと、最悪の、場合は……」
本当に、何様なんだ。私は。
溜め息と共に、彼の隣にへたり込む。
必死になって助けた女の子から、こんな酷いことを言われて、感謝すらもされない。
そんな彼があまりに不憫で、流石の私の口も言葉を見失い、喉を詰まらせた。
罪悪感に項垂れる私の膝元で、彼は、何かを押し殺すように、眉間に皺を寄せていた。
そして、私が完全に閉口したのを見ると、思い切ったように彼は口を開く。
「まず言わせてもらうけど」
襲い来る非難の言葉に、身構える。
「俺は女の子と話す時、どうしても緊張してしまうんだ」
へ……? 罵声に備えていた私の口から呆けた声が漏れた。
だけど、真っ直ぐに私を見る彼の目は、真剣そのものだった。
「特に気が強そうだったり、クールそうだったりすると、酷いくらい緊張する。だから、そんな雰囲気の星見さんと話すと、俺は挙動が変になる。……すでに変なんだろうけど」
どうしようもないから、大目に見てほしい。
そう言うと、彼は空を仰ぎ見て一息吐き、震える声のまま話し続けた。
「星見さんに言われた通り、荒事も全然ダメなんだ。恐くて動けなくなったよ。昔から、弱いんだ、俺。恥ずかしいけど」
挙動が変になったのは私の方だった。
自分は弱い。
そう伝えてきた彼の瞳が、むしろ、とても強かに見えたからだ。
弱さを見せたら、標的にされる。
ずっと、そう信じてきた。
だから私は今日まで懸命に、強そうな自分を繕って生きてきたつもりだった。
だけど、それも、やはりハリボテでしかなかったのだ。
いざとなると私は、力で抑え込まれ、言い返す言葉も失い、戦意すら手放してしまう。
それほどまでに弱い人間なのだと、今日、自ら証明してしまったのだから。
だけど、彼はそうではない。
弱い人間であると自覚しながら、正面から暴力の中へと飛び込み、助けに入ってきた。
私の知る、単純な弱さとは違う。彼の言う弱さには、何か、知らない力を感じた。
静かな衝撃が心にひろがっていく。
「星見さん、突然なんだけど……」
彼の大きな手のひらから、小さなチョコが一つ、ころんと私の手のひらに転がった。
「……何、これ?」
「今朝のホームルームの前に、星見さんがいらないって断ったチョコ」
ッハ、いらない。嘲笑するかのような嫌味っぽい自分の声音が、頭の中に響いた。
せっかくの親切を、失礼な言い方で断ってしまった今朝のことを思い出す。
だけど、どうして今、断ったチョコを、私に?
いまいち意図の掴めない私に、彼は言葉を続けてくれた。
「あれから休み時間の度に、申し訳なさそうに俺達のこと見てたよね」
思わず、ドキリと心臓が跳ねる。
それは、事実だった。私はずっと、弁明の機会を窺っていたのだ。
あの言い方は不本意だった。悪気は無かった。だから、傷つかないでほしい。
願わくば、嫌わないでほしい。
そう伝えられるチャンスを待ち、上手な会話を脳内で繰り返しシミュレーションしながら、こそこそと彼らを盗み見ていたのだ。
結局、勇気が出ず、何も言えないまま今に至る。
だけどまさか、そんな情けない心情を読み取られていただなんて。
どぎまぎとする私に、彼は、やっぱりね、と微笑んだ。
「本当は、チョコ食べたかったんだよね。俺にはわかるよ」

「そんないやしい理由じゃないよ‼」
顔から火を噴きそうだった。
そんな勘違いをされていたなんて。
そんな食いしん坊みたいに見られていただなんて。
自分では澄まし顔でやり過ごしているつもりだっただけに、余計に恥ずかしい。
取り乱した私の喉から、突発的に声が飛び出してくる。
「私が見てたのは、チョコ断る時に酷い言い方で、しょんぼりさせちゃったから、悪気は無かったって、伝えられたらって」
しどろもどろになりながら慌てる私に、彼は優しく目を細めた。
ごめんごめん、冗談だよ。
「そうかなって思ったんだ。だから、話す機会を作ってあげたかったんだけど、俺も上手く出来なくてさ。きっかけになればと思って、そのチョコ、食べるの我慢してたんだ」
生まれて初めて食欲を制御できたよ、俺。
そう言って、冗談っぽく柔らかに笑う。
そんな彼につられて、つい、私の口角も上がっていた。
すると不意に、動揺も相まって勢いのついた私の心が、何かを搾り出した。
それは、喉に詰まった凶器のような言葉達の隙間を縫って流れて、声となった。
「私、人と上手く話……、嫌……」
だけど、直前で喉が塞き止めてしまう。
自分の弱さを他人に打ち明けるのは、酷く怖かった。
例えるなら、飢えた獣の鼻先に、血の滴る傷口を晒すような恐怖心。
大袈裟な比喩だとは思うけれど、だけど、とても近いと感じる。
それでも、静かに私の言葉を待ってくれている彼を見ていると、ぽろぽろと、少しずつ声は溢れてきた。
「私は、嫌なんだ。誰かが傷つくの。怪我でも、心でも。でも、私が傷つけるほうが、ずっと多くて」
頭が文章を構成するよりも先に、声になってしまう。
「傷つけて、でも、なにもできないから、むしろ悪化させて、……だから、もう、全部、嫌なことにしかできなくて」
意味が通じないことを言っていると、わかっている。
それなのに、彼が頷いてくれる度に、言葉が引き出されてしまう。
息継ぎも忘れて、私は話し続けてしまう。
「でも、一番嫌なのは、優しい人が酷い目に遭うこと。それなら私だけ怪我してた方が、ずっと良い。だから、和佳くんみたいな人が痛い目に遭うのは、本当に辛いから」
ずっと胸に溜まっていた言葉達が、水のように流れていく。
それに押されて、奥底に沈んでいた本音も転がりだした。
「だから、和佳くん。……もう怪我してまで誰かを助けようとしないで!」
素直な想いを、私の憎まれ口が叫んだ。
息が切れて、痺れたように指先が震える。
空っぽになった胸の奥に、新しい空気が流れてくる。
少し甘くて、ほどよく湿った春のにおいが、胸に満ちていく。
「心配してくれてありがとう、星見さん。俺、ちゃんと心掛けるよ」
和佳くんがそう頷くと、どうしてか急に、涙が込み上げてきた。
私の言葉を受け入れてくれた彼に対する、温かな想い。
それと共に、まるで正反対の感情まで湧き上がってくる。
あの不良達に何もできなかった悔しさと殺意が、なぜか今更になって押し寄せてくる。
清濁合わさった激流が胸で暴れて、込み上げて、目が潤んでしまう。
「えっ! 星見さん、どこか痛むの? 泣っぐ!」
彼の口に、さっきもらったチョコを少し乱暴に押し入れた。
涙ぐんでしまったことに、言及されたくなかったから。
「これ、話を聞いてくれたお礼。無鉄砲に助けてくれた事へのお礼じゃないよ? それについては、心配だから何も言えない。あと、泣いてないから」
すっきりとした心のおかげだろうか。
いつもと違って、すんなりと自然に言葉が出てくる。
声も、高圧的な感じじゃない気がする。
「和佳くんこそ怪我は大丈夫? 立てそう?」
「……あー、うん」
そう頷いたものの、立ち上がろうと力を込めた途端に、彼の膝はガクガクと震える。
「膝がフニャフニャするな……。俺、まだ星見さんに緊張してるのかな」
「え? そっち?」
怪我とかじゃなくて、私?
そう驚くと、彼は力無く笑った。
「恥ずかしいけど、昔からの性分で……。俺、緊張が手足にくるんだよね」
緊張で手足が震える。それは理解できる。
だけど、私には納得できない部分があった。
「……今朝、私がクレープ食べてる時は平気で話しかけてきたのに?」
とても驚かされた今朝のことを、実は少し恨めしく思っている。
クレープを頬張った膨れ顔を見られながら、何度も話しかけられたことを。
じとりと睨むと、彼は慌てたように顔の前で手のひらを振った。
いやいやいや! あれは特別だよ! だって
「凄く幸せそうに食べてたのに、急に思い詰めた様子で項垂れたから、心配になった」
「えっ⁉」
再びドキリと跳ねる心臓を抑える間もなく、彼は勢いよく話し続ける。
「休み時間に仲直りしようと俺たちのほう見てた時もさ! 授業開始のチャイムが鳴る度に、やたら深刻そうに気落ちしてたじゃん⁉」
「えっ、嘘。ちょ、ちょっと、まっ」
なんで私の澄まし顔の奥が筒抜けなの⁉
その焦りを冷ます間もくれずに、彼は私の羞恥の火に薪をくべ続ける。
「昼休みだって、寂しそうな背中で足早に教室を出てくから心配したよ! 体育教官室に居るの見て、安心したけどさ。あとは」
「待って! もういい! もういいから!」
抑え込んでいたつもりの陰気な感情が、実は駄々洩れだったなんて、耐えられない。
学校では、ずっと澄まし顔でやり過ごしているつもりだったのに。
いや、私の澄まし顔は、他人から見れば、しかめっ面のはずだ。
ずっとそう言われてきたし、それで嫌われてきた。
そして、自分から見ても間違いなく、嫌味なしかめっ面だった。
怪訝そうに眉を顰め、口を引き結んだまま、ほどけなくなった自分の顔。
それを、嫌というほど手洗い場の鏡で見てきたのだから、よくわかっている。
だからこそ、諦めつつも、どこか、安心していたのに。
羞恥に呻きながらも、彼に尋ねる。
「私って、周りから見て、そんなにわかりやすかったの……?」
「いや、どうかな。星見さんは見えにくいというか……わかりにくいほうの人だと思う」
じゃあ、どうして?
そう聞くよりも早く、彼は、私の足元を指差した。
だけど、その指の先には何もない。
何の変哲もない、私のローファーだけ。
「俺は、ちょっと理由があって、変に気付きやすいんだ。その、爪先とか?」
「え……」
「今、足の指先でさ。靴の中を揉むみたいに、ぎゅっぎゅっ、てしてるでしょ?」
「あ……」
確かに、恥ずかしさを堪えようとして、私の爪先は言われた通りの動作をしていた。
だけど傍目には、本当に極微かに、ピク……とローファーの先端が動く程度だった。
「そういうちょっとした仕草でも、俺、なんとなく察せる時があるんだよね」
なるほど。きっと彼が特別に目ざといのだろう。
そうじゃないと、私はもう日常に耐えられない。
「本当は、緊張も焦りも手に出やすいんだけどさ。顔に触れたり、身体を守るように前で組んだり、指を揉んだり。だから星見さんは、わかりにくいほうの人だと思う」
わかりにくいほうの人。その単語は、やけにしっくりと胸に落ちた。
それはきっと、母の教育のたまものだ。
小学生の頃に、口元に触れる癖も、指いじりも矯正されたから。
おかげで幼くして、しっかりした人の形、だけは保てるようになったと自負している。
それと同時に、よくわからない子として周りから扱われ始めたことも、今、自覚した。
「……私のことはもういいよ。和佳くんの怪我は? 大丈夫?」
「うん。大丈夫。これくらいの怪我なら、そんなに心配するほどのものじゃないよ」
そう言うものの、その落ち着いた話し方とは違い、彼の手足は今も酷く震えていた。
「でも、和佳くん、手の震え凄いよ……」
「うん……。なかなか収まらないな」
震えているだけじゃなく、その手は可哀想なくらいに強張って見えた。
「私みたいな女子と話すと、酷く緊張するって言ったよね? それで震えるって」
思春期の男子が女子に緊張する理由と言ったら、きっと主な原因は一つだろう。
それは、異性として、恋愛の対象として意識してしまうから。
だから私は、迷いながらも、彼の緊張をほぐしたい一心で、重い口を開いた。
「あの、私、助けてもらったからって、好きになったりとかはしないから、緊張しなくて大丈夫だと思うよ」
自意識過剰で自惚れに満ちた言葉に、強い抵抗を感じながらも、なんとか声に出す。
すると、ハッとした様子で彼が顔を上げた。えっ? ああ、気遣わせて、ごめん!
「でも、この緊張はそういう問題じゃないんだ。俺、生涯恋愛する気ないから」
生涯恋愛する気がない?
そんな男子高校生らしくない言葉に踏み込む間もなく、彼は言葉を続けてしまった。
この震えはさ、女の子に対する緊張だけじゃなくて、さっきの荒事にまだビビってるってのもあるんだ。
「でも、怪我は本当に大した事ないからさ。星見さん、もう先に帰って大丈夫だよ」
「え」
そう言われても、彼の頬は間違いなく、痛々しく真っ赤に腫れている。
血の滲む擦り傷も、あまり大丈夫とは思えなかった。
一人で帰るわけにはいかない。
「保健室行くよ、和佳くん。鈴成先生に診てもらおう」
そう言った瞬間、彼の顔色が急変した。
「えっ! 鈴成先生⁉ いや、ごめん! あの人は駄目なんだ!」
保健室へ促した途端、急に彼は強い拒絶を示し、焦りだした。
「どうして? 手当てはした方が絶対いいよ。万が一があったらいけないし」
「いやいや、絶対に駄目! 俺も、もう帰るから大丈夫だよ! ほら見て! なんかもう勢いで立てちゃったからさ!」
どうして鈴成先生を拒むのか聞く間も無く、彼は突如立ち上がって歩きだした。
「そんなっ、帰せるわけないでしょ。なんとかさせて。私の気が済まないから!」
彼を引き止めようと、慌ててしがみつく。
そんな私の身体が、軽々と宙に浮いた。
「んぉおおお⁉」
「うわっ! 星見さん、危ないよ! 手を痛めてしまうよ!」
とても変な叫びが出てしまった。
力で彼を引き止めるのは無理だ。体格差がありすぎる。
そう悟った刹那、私の口が咄嗟の発案をした。
「わかった! 私の家で手当てする! 凄く近いから!」
「お、おお、女の子の家に上がれるわけないだろう!」
彼は、やっと足を止めてくれた。
「それに、簡単に男を家に上げたら危ないよ⁉」
慌てながらも、彼は完全に立ち止まった。
畳み掛けるなら今だ。
「和佳くんだから特別。宗道先生が、和佳くんは悪い事しないって言ってたから!」
あいつが悪い事するわけないだろう! 昼休み、宗道先生はそう断言していた。
「だから、私はそれを信じる。和佳くんは、宗道先生と私の信頼を裏切ってまで、悪いことをしようとする人じゃないんでしょう?」
いや、そうだけど、でも……。そう言って、まごまごとする彼の横を走り抜ける。
そして、彼が助けに来た時に放り投げたリュックを、人質のように抱え込んだ。
「私の部屋には入れない。リビングだけ。……それでも嫌なら、今すぐ保健室から鈴成先生を呼んで来る」
そうして、ようやく彼は観念するように頷いた。
「……わかったよ。でも、リュックは自分で持つから」
「駄目。私のせいで怪我してる人に持たせるのは、嫌」
そう言って彼のリュックを背負ったものの、ズッシリとやたら重かった。
「……男の子のリュックって何が入ってるの?」
「……ごめん。俺、二リットルの水筒三本入れてる」
流石だね、という言葉が私の口をつく。
何が流石なのかは、言った自分でもよくわからないけれど。
「あ……、私の鞄も取りに、教室寄らせて」
幸いなことに、教室にも廊下にも人気が無かった。
和佳くんのリュックを背負いながら、自分のスクールバッグも肩に掛ける。
通学鞄を二つも持って歩くのは、思っていた以上にしんどく、かなり息が上がった。
そんな私の後ろを、居た堪れなさそうに和佳くんが付いてくる。
善意のつもりだったけれど、傍から見れば、あまり良い印象の絵面ではなかったかもしれない。
二人分の鞄を抱えた女の子と、手ぶらの男の子が並んで歩いているのは。
「こ、こうしたら、少しは軽くなるかな?」
そう言って彼は、リュックの上側に付いている取手を、後ろから持ち上げてくれた。
確かに、とても楽になった。
私が首根っこを掴まれながら歩かされているみたいで、余計に絵面は悪くなったかもしれないけれど。
だけど、もはや気にしている余裕もなかったので、そのまま無心で、私のマンションまで歩き続けた。
隣の席の、和佳治正くん。
傍に寄ると、彼は痛みに顔を歪めながら、震える声を出した。
「星見さん、無事? 俺は、無事じゃないけど」
「和佳くん……、なんで、助けに入って来たの?」
なんで……、と私の言葉を反復するように呟いてから、彼は言葉を続けた。
ほら、昼休み、体育教官室で、星見さんも聞いてたろ?
「俺、宗道先生からプールの外周十周走るように言われててさ。で、来たらヤンキーが」
「違う、そうじゃない!」
私の口が、彼の言葉を遮った。
目の前では、暴力とは無縁そうな温和な男の子が、生々しい怪我を負っている。
それは目を覆いたくなるほど痛ましく、酷く胸が締め付けられた。それなのに
「なんで、弱いのに、入って来たの?」
それなのに、また私の口は、想いの至らぬまま言葉を吐き始めた。
「やられっぱなしになるほど弱いなら、助けになんて来ないほうがいい!」
最低だ。
この口は、何てことを言うんだろう。
私を助けるために、彼は危険に身を投じて、傷ついているのに。
それを、彼の自己責任だとしようとしているのだろうか。
だけど、確かに、無謀な善行によって倒れている彼に、お礼は言うべきではないのかもしれない。
感謝すれば、彼は良かれと思って、また力の及ばない人助けをしてしまうかもしれないのだから。
そうしたら、次は怪我だけでは済まない可能性だってある。
だから、きっとお礼は言うべきではない。
だけど、だったら、なんて言えば良いのだろう。
優しくて弱い、彼のために。
彼はただ黙って、静かに私の言葉の続きを待っていた。
慌てたように、私の口が、もっともらしい言葉を並べ立てていく。
「善意でも、無謀なことはするべきじゃない。これからは、力にそぐわない不相応な行動は控えないと、最悪の、場合は……」
本当に、何様なんだ。私は。
溜め息と共に、彼の隣にへたり込む。
必死になって助けた女の子から、こんな酷いことを言われて、感謝すらもされない。
そんな彼があまりに不憫で、流石の私の口も言葉を見失い、喉を詰まらせた。
罪悪感に項垂れる私の膝元で、彼は、何かを押し殺すように、眉間に皺を寄せていた。
そして、私が完全に閉口したのを見ると、思い切ったように彼は口を開く。
「まず言わせてもらうけど」
襲い来る非難の言葉に、身構える。
「俺は女の子と話す時、どうしても緊張してしまうんだ」
へ……? 罵声に備えていた私の口から呆けた声が漏れた。
だけど、真っ直ぐに私を見る彼の目は、真剣そのものだった。
「特に気が強そうだったり、クールそうだったりすると、酷いくらい緊張する。だから、そんな雰囲気の星見さんと話すと、俺は挙動が変になる。……すでに変なんだろうけど」
どうしようもないから、大目に見てほしい。
そう言うと、彼は空を仰ぎ見て一息吐き、震える声のまま話し続けた。
「星見さんに言われた通り、荒事も全然ダメなんだ。恐くて動けなくなったよ。昔から、弱いんだ、俺。恥ずかしいけど」
挙動が変になったのは私の方だった。
自分は弱い。
そう伝えてきた彼の瞳が、むしろ、とても強かに見えたからだ。
弱さを見せたら、標的にされる。
ずっと、そう信じてきた。
だから私は今日まで懸命に、強そうな自分を繕って生きてきたつもりだった。
だけど、それも、やはりハリボテでしかなかったのだ。
いざとなると私は、力で抑え込まれ、言い返す言葉も失い、戦意すら手放してしまう。
それほどまでに弱い人間なのだと、今日、自ら証明してしまったのだから。
だけど、彼はそうではない。
弱い人間であると自覚しながら、正面から暴力の中へと飛び込み、助けに入ってきた。
私の知る、単純な弱さとは違う。彼の言う弱さには、何か、知らない力を感じた。
静かな衝撃が心にひろがっていく。
「星見さん、突然なんだけど……」
彼の大きな手のひらから、小さなチョコが一つ、ころんと私の手のひらに転がった。
「……何、これ?」
「今朝のホームルームの前に、星見さんがいらないって断ったチョコ」
ッハ、いらない。嘲笑するかのような嫌味っぽい自分の声音が、頭の中に響いた。
せっかくの親切を、失礼な言い方で断ってしまった今朝のことを思い出す。
だけど、どうして今、断ったチョコを、私に?
いまいち意図の掴めない私に、彼は言葉を続けてくれた。
「あれから休み時間の度に、申し訳なさそうに俺達のこと見てたよね」
思わず、ドキリと心臓が跳ねる。
それは、事実だった。私はずっと、弁明の機会を窺っていたのだ。
あの言い方は不本意だった。悪気は無かった。だから、傷つかないでほしい。
願わくば、嫌わないでほしい。
そう伝えられるチャンスを待ち、上手な会話を脳内で繰り返しシミュレーションしながら、こそこそと彼らを盗み見ていたのだ。
結局、勇気が出ず、何も言えないまま今に至る。
だけどまさか、そんな情けない心情を読み取られていただなんて。
どぎまぎとする私に、彼は、やっぱりね、と微笑んだ。
「本当は、チョコ食べたかったんだよね。俺にはわかるよ」

「そんないやしい理由じゃないよ‼」
顔から火を噴きそうだった。
そんな勘違いをされていたなんて。
そんな食いしん坊みたいに見られていただなんて。
自分では澄まし顔でやり過ごしているつもりだっただけに、余計に恥ずかしい。
取り乱した私の喉から、突発的に声が飛び出してくる。
「私が見てたのは、チョコ断る時に酷い言い方で、しょんぼりさせちゃったから、悪気は無かったって、伝えられたらって」
しどろもどろになりながら慌てる私に、彼は優しく目を細めた。
ごめんごめん、冗談だよ。
「そうかなって思ったんだ。だから、話す機会を作ってあげたかったんだけど、俺も上手く出来なくてさ。きっかけになればと思って、そのチョコ、食べるの我慢してたんだ」
生まれて初めて食欲を制御できたよ、俺。
そう言って、冗談っぽく柔らかに笑う。
そんな彼につられて、つい、私の口角も上がっていた。
すると不意に、動揺も相まって勢いのついた私の心が、何かを搾り出した。
それは、喉に詰まった凶器のような言葉達の隙間を縫って流れて、声となった。
「私、人と上手く話……、嫌……」
だけど、直前で喉が塞き止めてしまう。
自分の弱さを他人に打ち明けるのは、酷く怖かった。
例えるなら、飢えた獣の鼻先に、血の滴る傷口を晒すような恐怖心。
大袈裟な比喩だとは思うけれど、だけど、とても近いと感じる。
それでも、静かに私の言葉を待ってくれている彼を見ていると、ぽろぽろと、少しずつ声は溢れてきた。
「私は、嫌なんだ。誰かが傷つくの。怪我でも、心でも。でも、私が傷つけるほうが、ずっと多くて」
頭が文章を構成するよりも先に、声になってしまう。
「傷つけて、でも、なにもできないから、むしろ悪化させて、……だから、もう、全部、嫌なことにしかできなくて」
意味が通じないことを言っていると、わかっている。
それなのに、彼が頷いてくれる度に、言葉が引き出されてしまう。
息継ぎも忘れて、私は話し続けてしまう。
「でも、一番嫌なのは、優しい人が酷い目に遭うこと。それなら私だけ怪我してた方が、ずっと良い。だから、和佳くんみたいな人が痛い目に遭うのは、本当に辛いから」
ずっと胸に溜まっていた言葉達が、水のように流れていく。
それに押されて、奥底に沈んでいた本音も転がりだした。
「だから、和佳くん。……もう怪我してまで誰かを助けようとしないで!」
素直な想いを、私の憎まれ口が叫んだ。
息が切れて、痺れたように指先が震える。
空っぽになった胸の奥に、新しい空気が流れてくる。
少し甘くて、ほどよく湿った春のにおいが、胸に満ちていく。
「心配してくれてありがとう、星見さん。俺、ちゃんと心掛けるよ」
和佳くんがそう頷くと、どうしてか急に、涙が込み上げてきた。
私の言葉を受け入れてくれた彼に対する、温かな想い。
それと共に、まるで正反対の感情まで湧き上がってくる。
あの不良達に何もできなかった悔しさと殺意が、なぜか今更になって押し寄せてくる。
清濁合わさった激流が胸で暴れて、込み上げて、目が潤んでしまう。
「えっ! 星見さん、どこか痛むの? 泣っぐ!」
彼の口に、さっきもらったチョコを少し乱暴に押し入れた。
涙ぐんでしまったことに、言及されたくなかったから。
「これ、話を聞いてくれたお礼。無鉄砲に助けてくれた事へのお礼じゃないよ? それについては、心配だから何も言えない。あと、泣いてないから」
すっきりとした心のおかげだろうか。
いつもと違って、すんなりと自然に言葉が出てくる。
声も、高圧的な感じじゃない気がする。
「和佳くんこそ怪我は大丈夫? 立てそう?」
「……あー、うん」
そう頷いたものの、立ち上がろうと力を込めた途端に、彼の膝はガクガクと震える。
「膝がフニャフニャするな……。俺、まだ星見さんに緊張してるのかな」
「え? そっち?」
怪我とかじゃなくて、私?
そう驚くと、彼は力無く笑った。
「恥ずかしいけど、昔からの性分で……。俺、緊張が手足にくるんだよね」
緊張で手足が震える。それは理解できる。
だけど、私には納得できない部分があった。
「……今朝、私がクレープ食べてる時は平気で話しかけてきたのに?」
とても驚かされた今朝のことを、実は少し恨めしく思っている。
クレープを頬張った膨れ顔を見られながら、何度も話しかけられたことを。
じとりと睨むと、彼は慌てたように顔の前で手のひらを振った。
いやいやいや! あれは特別だよ! だって
「凄く幸せそうに食べてたのに、急に思い詰めた様子で項垂れたから、心配になった」
「えっ⁉」
再びドキリと跳ねる心臓を抑える間もなく、彼は勢いよく話し続ける。
「休み時間に仲直りしようと俺たちのほう見てた時もさ! 授業開始のチャイムが鳴る度に、やたら深刻そうに気落ちしてたじゃん⁉」
「えっ、嘘。ちょ、ちょっと、まっ」
なんで私の澄まし顔の奥が筒抜けなの⁉
その焦りを冷ます間もくれずに、彼は私の羞恥の火に薪をくべ続ける。
「昼休みだって、寂しそうな背中で足早に教室を出てくから心配したよ! 体育教官室に居るの見て、安心したけどさ。あとは」
「待って! もういい! もういいから!」
抑え込んでいたつもりの陰気な感情が、実は駄々洩れだったなんて、耐えられない。
学校では、ずっと澄まし顔でやり過ごしているつもりだったのに。
いや、私の澄まし顔は、他人から見れば、しかめっ面のはずだ。
ずっとそう言われてきたし、それで嫌われてきた。
そして、自分から見ても間違いなく、嫌味なしかめっ面だった。
怪訝そうに眉を顰め、口を引き結んだまま、ほどけなくなった自分の顔。
それを、嫌というほど手洗い場の鏡で見てきたのだから、よくわかっている。
だからこそ、諦めつつも、どこか、安心していたのに。
羞恥に呻きながらも、彼に尋ねる。
「私って、周りから見て、そんなにわかりやすかったの……?」
「いや、どうかな。星見さんは見えにくいというか……わかりにくいほうの人だと思う」
じゃあ、どうして?
そう聞くよりも早く、彼は、私の足元を指差した。
だけど、その指の先には何もない。
何の変哲もない、私のローファーだけ。
「俺は、ちょっと理由があって、変に気付きやすいんだ。その、爪先とか?」
「え……」
「今、足の指先でさ。靴の中を揉むみたいに、ぎゅっぎゅっ、てしてるでしょ?」
「あ……」
確かに、恥ずかしさを堪えようとして、私の爪先は言われた通りの動作をしていた。
だけど傍目には、本当に極微かに、ピク……とローファーの先端が動く程度だった。
「そういうちょっとした仕草でも、俺、なんとなく察せる時があるんだよね」
なるほど。きっと彼が特別に目ざといのだろう。
そうじゃないと、私はもう日常に耐えられない。
「本当は、緊張も焦りも手に出やすいんだけどさ。顔に触れたり、身体を守るように前で組んだり、指を揉んだり。だから星見さんは、わかりにくいほうの人だと思う」
わかりにくいほうの人。その単語は、やけにしっくりと胸に落ちた。
それはきっと、母の教育のたまものだ。
小学生の頃に、口元に触れる癖も、指いじりも矯正されたから。
おかげで幼くして、しっかりした人の形、だけは保てるようになったと自負している。
それと同時に、よくわからない子として周りから扱われ始めたことも、今、自覚した。
「……私のことはもういいよ。和佳くんの怪我は? 大丈夫?」
「うん。大丈夫。これくらいの怪我なら、そんなに心配するほどのものじゃないよ」
そう言うものの、その落ち着いた話し方とは違い、彼の手足は今も酷く震えていた。
「でも、和佳くん、手の震え凄いよ……」
「うん……。なかなか収まらないな」
震えているだけじゃなく、その手は可哀想なくらいに強張って見えた。
「私みたいな女子と話すと、酷く緊張するって言ったよね? それで震えるって」
思春期の男子が女子に緊張する理由と言ったら、きっと主な原因は一つだろう。
それは、異性として、恋愛の対象として意識してしまうから。
だから私は、迷いながらも、彼の緊張をほぐしたい一心で、重い口を開いた。
「あの、私、助けてもらったからって、好きになったりとかはしないから、緊張しなくて大丈夫だと思うよ」
自意識過剰で自惚れに満ちた言葉に、強い抵抗を感じながらも、なんとか声に出す。
すると、ハッとした様子で彼が顔を上げた。えっ? ああ、気遣わせて、ごめん!
「でも、この緊張はそういう問題じゃないんだ。俺、生涯恋愛する気ないから」
生涯恋愛する気がない?
そんな男子高校生らしくない言葉に踏み込む間もなく、彼は言葉を続けてしまった。
この震えはさ、女の子に対する緊張だけじゃなくて、さっきの荒事にまだビビってるってのもあるんだ。
「でも、怪我は本当に大した事ないからさ。星見さん、もう先に帰って大丈夫だよ」
「え」
そう言われても、彼の頬は間違いなく、痛々しく真っ赤に腫れている。
血の滲む擦り傷も、あまり大丈夫とは思えなかった。
一人で帰るわけにはいかない。
「保健室行くよ、和佳くん。鈴成先生に診てもらおう」
そう言った瞬間、彼の顔色が急変した。
「えっ! 鈴成先生⁉ いや、ごめん! あの人は駄目なんだ!」
保健室へ促した途端、急に彼は強い拒絶を示し、焦りだした。
「どうして? 手当てはした方が絶対いいよ。万が一があったらいけないし」
「いやいや、絶対に駄目! 俺も、もう帰るから大丈夫だよ! ほら見て! なんかもう勢いで立てちゃったからさ!」
どうして鈴成先生を拒むのか聞く間も無く、彼は突如立ち上がって歩きだした。
「そんなっ、帰せるわけないでしょ。なんとかさせて。私の気が済まないから!」
彼を引き止めようと、慌ててしがみつく。
そんな私の身体が、軽々と宙に浮いた。
「んぉおおお⁉」
「うわっ! 星見さん、危ないよ! 手を痛めてしまうよ!」
とても変な叫びが出てしまった。
力で彼を引き止めるのは無理だ。体格差がありすぎる。
そう悟った刹那、私の口が咄嗟の発案をした。
「わかった! 私の家で手当てする! 凄く近いから!」
「お、おお、女の子の家に上がれるわけないだろう!」
彼は、やっと足を止めてくれた。
「それに、簡単に男を家に上げたら危ないよ⁉」
慌てながらも、彼は完全に立ち止まった。
畳み掛けるなら今だ。
「和佳くんだから特別。宗道先生が、和佳くんは悪い事しないって言ってたから!」
あいつが悪い事するわけないだろう! 昼休み、宗道先生はそう断言していた。
「だから、私はそれを信じる。和佳くんは、宗道先生と私の信頼を裏切ってまで、悪いことをしようとする人じゃないんでしょう?」
いや、そうだけど、でも……。そう言って、まごまごとする彼の横を走り抜ける。
そして、彼が助けに来た時に放り投げたリュックを、人質のように抱え込んだ。
「私の部屋には入れない。リビングだけ。……それでも嫌なら、今すぐ保健室から鈴成先生を呼んで来る」
そうして、ようやく彼は観念するように頷いた。
「……わかったよ。でも、リュックは自分で持つから」
「駄目。私のせいで怪我してる人に持たせるのは、嫌」
そう言って彼のリュックを背負ったものの、ズッシリとやたら重かった。
「……男の子のリュックって何が入ってるの?」
「……ごめん。俺、二リットルの水筒三本入れてる」
流石だね、という言葉が私の口をつく。
何が流石なのかは、言った自分でもよくわからないけれど。
「あ……、私の鞄も取りに、教室寄らせて」
幸いなことに、教室にも廊下にも人気が無かった。
和佳くんのリュックを背負いながら、自分のスクールバッグも肩に掛ける。
通学鞄を二つも持って歩くのは、思っていた以上にしんどく、かなり息が上がった。
そんな私の後ろを、居た堪れなさそうに和佳くんが付いてくる。
善意のつもりだったけれど、傍から見れば、あまり良い印象の絵面ではなかったかもしれない。
二人分の鞄を抱えた女の子と、手ぶらの男の子が並んで歩いているのは。
「こ、こうしたら、少しは軽くなるかな?」
そう言って彼は、リュックの上側に付いている取手を、後ろから持ち上げてくれた。
確かに、とても楽になった。
私が首根っこを掴まれながら歩かされているみたいで、余計に絵面は悪くなったかもしれないけれど。
だけど、もはや気にしている余裕もなかったので、そのまま無心で、私のマンションまで歩き続けた。