世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
穏やかな午後。
今日は予定もなく、璃子はソファに寝転びながら、幼稚園から送られてきた曲のリストを眺めていた。

「さんぽ」「パンダうさぎコアラ」「アイアイ」──
どれも知っている、懐かしい童謡ばかり。

「“にじ”とか“手のひらを太陽に”も入れて、最後は“勇気100%”で締めようかな……」

リクエストの多かった数曲をメドレーにできないかと、鼻歌まじりにメモを取っていると──

スマホが振動した。

着信表示には、「朝比奈 聡一」。

「……え?」

珍しいことに、父からの電話。

璃子は姿勢を正して、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『ああ、璃子か。元気か?』

久しぶりに聞く、低く落ち着いた声。
でも、どこか気を遣っているような響き。

『湊くんから聞いたよ。TNS、余計なこと聞かれたんだって?』

「……うん、まあ。予定にないこと聞かれて、ちょっと……」

言葉を選びながら返す。

『気にしなくていい。TNSのプロデューサーには、俺からきっちり苦情を入れておいた』

「え……」

『ああ、もちろん、ちゃんと大人の距離で、だけどな。
で、本題。璃子に付けるマネージャー、決まった』

璃子は小さく息をのむ。

『"SOUND ORBIT"の枠でな。湊くんが卒業した、翠玲音大の先輩だ。
矢代正輝って名前、聞いたことあるか?』

「……ない、かも」

『クラシックの業界にも詳しい。ピアニストの事情も理解してる。
現場主義で、口も硬い。信頼できる。
近いうちに紹介するから。湊くんも、大学時代から知ってるはずだよ。
……一応、璃子からも伝えておいてくれるか』

「……うん、わかった。ありがとう」

『あまり無理するな。俺が言っても説得力ないかもしれないけど』

「……ううん、言ってくれるだけで、少し違う」

『そうか』

それだけ言うと、父は短く電話を切った。

璃子はスマホを置き、少しだけ天井を見上げる。

(……湊に、伝えなきゃ)

ソファの背に身を預け、少し遠くの空を見る。
焼き栗のような匂いを運んで、秋の風がやわらかく頬をなでた。
陽だまりがひざに落ちて、なんとなく、胸の奥まであたたかかった。
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