世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕方。
空が群青色に染まる頃、璃子は帰宅して、静かにピアノの前に座った。
背後には、いつもの丸椅子。
そこに座る湊は、何も言わず、ただ彼女の手元を見つめている。
「じゃあ……今日は、ハノンから」
璃子がつぶやくと、湊は軽く頷いた。
「左右差、ちゃんと感じてね。無理に揃えようとしなくていい」
「うん」
白鍵を滑る音が、部屋に落ちる。
スケール、分散和音、スタッカート、レガート。
筋肉の記憶を呼び戻すように、璃子は何度も繰り返す。
次はツェルニー。
40番……はまだ少し重い。30番の中から、シンプルな1曲を選ぶ。
次第に汗ばんできた額をぬぐい、バッハのインヴェンションへ。
右手と左手、二つの旋律が絡み合う。
声部の独立を意識するほど、集中が必要になる。
(大丈夫、大丈夫……)
最後に、彼女が選んだのは、昔から好きだったドビュッシーの《アラベスク》。
冒頭のほんの十数小節だけ、ゆっくり、慈しむように。
その瞬間──
ポロリ、と。
鍵盤の上に、一粒、涙が落ちた。
「……っ」
璃子がハッとして手を止める。
「こら」
湊が、優しい声で言う。
「ピアノの上で泣かない」
言葉に責める響きはない。
ただ、ピアノを大切にしている人の、ごく自然な注意。
彼は立ち上がり、璃子の手を取った。
そっと、自分の方へ引き寄せる。
涙の跡を、親指で優しく拭った。
「……どうしたの? 怖くなった?」
璃子は首を横に振った。
「ううん……取材、TNSの……予定にないこと聞かれて……」
声がかすれる。
「私、焦っちゃって。ちゃんと答えられなくて……こんなんじゃ、ダメだよね……」
湊は、ゆっくり首を振った。
「ダメじゃない。ダメなわけないだろ」
低く落ち着いた声が、沁みるように胸に届く。
「予定にない質問で取り乱すのは、当たり前。責める人なんていない」
「……でも、ピアニストって、舞台だけじゃなくて、言葉でも“見られる”存在じゃん……」
「うん、だからこそ」
湊は少しだけ声を低くし、現実的な話を始める。
「復帰後、君が所属する予定の事務所――お父さんが立ち上げに関わったっていう、“ SOUND ORBIT”に、俺から話すよ。聡一さんを通して、明日連絡入れる」
璃子が顔を上げる。
「……マネージャー、つける?」
「当然だよ。最初から1人で全部やる必要ない。
取材にも同行してもらって、事前チェックやフォロー、断る権利も持たせる。
そういうサポートを使うのが、プロでしょ」
璃子は、ようやく肩の力を抜いた。
「……ありがとう」
湊は、彼女の額にそっとキスを落とす。
「泣くのは、ピアノの上じゃなくて、俺の前で。
それで全部、いいんだから」
璃子は、彼の胸に顔をうずめて、静かに目を閉じた。
(大丈夫。きっと、また前に進める)
空が群青色に染まる頃、璃子は帰宅して、静かにピアノの前に座った。
背後には、いつもの丸椅子。
そこに座る湊は、何も言わず、ただ彼女の手元を見つめている。
「じゃあ……今日は、ハノンから」
璃子がつぶやくと、湊は軽く頷いた。
「左右差、ちゃんと感じてね。無理に揃えようとしなくていい」
「うん」
白鍵を滑る音が、部屋に落ちる。
スケール、分散和音、スタッカート、レガート。
筋肉の記憶を呼び戻すように、璃子は何度も繰り返す。
次はツェルニー。
40番……はまだ少し重い。30番の中から、シンプルな1曲を選ぶ。
次第に汗ばんできた額をぬぐい、バッハのインヴェンションへ。
右手と左手、二つの旋律が絡み合う。
声部の独立を意識するほど、集中が必要になる。
(大丈夫、大丈夫……)
最後に、彼女が選んだのは、昔から好きだったドビュッシーの《アラベスク》。
冒頭のほんの十数小節だけ、ゆっくり、慈しむように。
その瞬間──
ポロリ、と。
鍵盤の上に、一粒、涙が落ちた。
「……っ」
璃子がハッとして手を止める。
「こら」
湊が、優しい声で言う。
「ピアノの上で泣かない」
言葉に責める響きはない。
ただ、ピアノを大切にしている人の、ごく自然な注意。
彼は立ち上がり、璃子の手を取った。
そっと、自分の方へ引き寄せる。
涙の跡を、親指で優しく拭った。
「……どうしたの? 怖くなった?」
璃子は首を横に振った。
「ううん……取材、TNSの……予定にないこと聞かれて……」
声がかすれる。
「私、焦っちゃって。ちゃんと答えられなくて……こんなんじゃ、ダメだよね……」
湊は、ゆっくり首を振った。
「ダメじゃない。ダメなわけないだろ」
低く落ち着いた声が、沁みるように胸に届く。
「予定にない質問で取り乱すのは、当たり前。責める人なんていない」
「……でも、ピアニストって、舞台だけじゃなくて、言葉でも“見られる”存在じゃん……」
「うん、だからこそ」
湊は少しだけ声を低くし、現実的な話を始める。
「復帰後、君が所属する予定の事務所――お父さんが立ち上げに関わったっていう、“ SOUND ORBIT”に、俺から話すよ。聡一さんを通して、明日連絡入れる」
璃子が顔を上げる。
「……マネージャー、つける?」
「当然だよ。最初から1人で全部やる必要ない。
取材にも同行してもらって、事前チェックやフォロー、断る権利も持たせる。
そういうサポートを使うのが、プロでしょ」
璃子は、ようやく肩の力を抜いた。
「……ありがとう」
湊は、彼女の額にそっとキスを落とす。
「泣くのは、ピアノの上じゃなくて、俺の前で。
それで全部、いいんだから」
璃子は、彼の胸に顔をうずめて、静かに目を閉じた。
(大丈夫。きっと、また前に進める)