世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝比奈家の食卓は、いつもより少しだけ華やかで、あたたかな空気が漂っていた。
テーブルには由紀子の手料理が並び、家族の顔を照らすように柔らかな灯りが灯っている。

由紀子はほっとしたように安堵の笑みを浮かべながら、静かに言葉を紡いだ。

「璃子、よく頑張ったわね。正直、あんなに最後まで気持ちが揺れるとは思わなかったけど……でもあなたの努力は、本当に素晴らしかったわ。あのとき私が厳しく言い続けたことも、無駄じゃなかったのよ。自分でも、支えた自分を褒めてあげたいくらい。」

璃子は少し照れながらも、素直に応じた。

「うん……お母さんのおかげだよ。ぎりぎりまで頑張ってよかったって思ってる。」

由紀子は少し笑みを強めて言う。

「そうでしょ。正月に辞めたいなんて言い出したときは、もうどうしようかと思ったんだから。あんな弱気なこと言わないでよ、ほんとに。」

璃子はそれに軽く微笑み返すが、心の中は複雑だった。
喜びの裏に母の厳しさがあることも、もう知っている。

隣で黙って聞いていた聡一は、そんな母娘のやり取りを静かに見つめていた。彼の表情には満足の色もあったが、その奥にはどこか払拭しきれない影が潜んでいるようだった。

しばらく沈黙の後、聡一が口を開く。

「フランスか……まさか本当に行くことになるとはな。大きな舞台だ。」

由紀子がにこやかに答える。

「ええ。この子がここまで来られたのは、努力の賜物。あなたもあの場に立つ璃子を見届けてやってちょうだい。」

聡一は少しうつむきながらも、静かに頷く。

「そうだな。……ただ、現地での生活や調律の環境も心配だ。サポート体制は大丈夫か?」

由紀子は自信たっぷりに言う。

「もちろん。湊さんが同行してくれるから心配ないわ。彼なら璃子のピアノを完璧に調律してくれる。」

「湊か……あいつなら信頼できるかもしれんが、由紀子の期待もあるしな。あまり無理はさせたくないが。」

由紀子が鋭く返す。

「無理しないわけがないでしょう?でも、この子にとっては大事なチャンス。支えていくしかないのよ。」

聡一は遠くを見つめるように呟いた。

「……家族ってのは難しいもんだな。」

その言葉に由紀子は小さく笑い、でもどこか寂しげに返した。

「ええ。でも、私たちは家族。これからも支え合っていくしかないのよね。」

璃子はそんな両親の会話を聞きながら、胸の奥でいくつもの感情が交錯していた。自分の努力が認められ、未来が開けていく喜びと、それを支える親の期待、そしてその重さに揺れる心。

「ありがとう……私、頑張るよ。」

心の中でそっと呟き、また新たな一歩を踏み出す決意を固めていた。
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