過去を捨て、切子の輝きに恋をする

プロローグ

 午前零時を少し過ぎたころ、インターホンが鳴った。

 湯浅真由子は、ため息混じりにベッドを抜け出し、子機の通話ボタンを押す。
 画面に映ったのは、川尻明の酒で赤らんだ顔だった。

 ――また、これ。
 どうせ、例のスナックで飲みすぎて終電を逃したんでしょう。

 真由子は知っていた。
 明が、あの店の若い女の子に入れ込んでいること。
 その子にまるで相手にされていないのに、閉店まで粘って、結局はここに転がり込んでくることも。

 呆れと諦めが入り混じるなかで、真由子は開錠ボタンを押した。

「入って」
 声は淡々としていた。

 ドアが開く音。
 明がふらりと入ってくる。

「早くシャワー浴びて。着替えてよ」
 ベッド下の引き出しから、明の下着と寝間着を引き出し、押しつけるように渡す。

「……うん」
 明は気まずそうに答えて、浴室へと消えた。

 真由子は三十五歳。明より二歳、年上。
 明は、会社の後輩の友人だった。
 恋愛経験の乏しかった真由子に、明は情熱的にアプローチしてきた。
「この人なら」と思った。頼られることにも悪い気はしなかった。

 でも――
 そんな時期は、もうずいぶん前に終わっていた。

 浴室から出てきた明が、真由子の肩をそっと抱き、「愛してるよ」と囁いた。

 彼の顔が近づいた瞬間、真由子は手を伸ばして制した。

「……今日は、そういう気分じゃないの」

 言葉の温度に、明はそれ以上何も言わず、背中を向けてベッドに入った。
 真由子も、彼と反対側を向いて布団に潜り込む。

 二人の間には、言葉より重い沈黙だけが横たわっていた。

   ◇◇

 翌朝、真由子はいつもより早く目を覚ました。
 化粧を終え、コーヒーを飲み終わるころ、明を起こす。

「そろそろ行くよ」
 身支度を促し、彼を引きずるようにマンションを出た。

 駅へと向かう道すがら、真由子は長いため息をついた。

 付き合い始めた頃は、幸せだった。
 けれど、明は仕事を転々とし、浮気の影も絶えなかった。
 最初のころの温かさや優しさは、気づけば幻のように遠ざかっていた。

「もう終わりにしないと」
 そう、何度も思った。何度も。

 けれど、彼が壊れてしまうんじゃないかと、そう思うと、決断できずに今日まで来てしまったのだった。
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