過去を捨て、切子の輝きに恋をする
第一章 「新たな出発」

1.

 真由子は、ストラテック・ソフトウェアで営業事務として働いている。企業向けのパッケージソフトを販売している中堅IT企業だ。

 午前9時。パソコンのメールを開きながら、担当営業のスケジュールを確認する。

 辰巳工業宛ての請求書。ネットマーキュリー社向けの提案書。午後の営業会議。
 タスクは山積みで、ため息が漏れそうになる。

「田中さん。報告書まだ?遅れてるの、あなただけよ。この前も言ったわよね、なんでまた……」

 隣のデスクから、先輩社員の声が響く。苛立ちを隠さず電話でまくし立てている。

 ――そんな言い方しなくても。電話越しに怒鳴る必要、あるのかな。

 真由子は、営業が常に時間に追われているのを知っている。だから、余裕のあるときは社内事務も進んで手伝っていた。

 以前、この先輩に「社内事務であっても、もう少し営業をサポートしてもいいのでは」と提案したこともある。

 だが返ってきたのは、冷たい一言だった。

「それは営業が自分でやることよ。できない営業が多すぎて困るのよ」

 営業と営業事務の境界は曖昧で、責任の所在もはっきりしない。
 数字で評価される営業とは違って、事務職には明確な成果指標もない。
 何より、せっかくの英語力を活かす場面が、ここでは一度もなかった。

 ――こんなはずじゃなかった。もっと、自分にふさわしい仕事があるはず。

 心の奥に、ずっとそんな思いがくすぶっていた。

   ◇◇

 その日の帰り道。満員電車の中、真由子はスマートフォンを開いた。
 通知に、転職サイト経由のスカウトメールが届いていた。

 件名:ZenCraft International社長秘書ポジションのご案内
 Yuasa様のご経歴を拝見し、ご紹介させていただきたい案件がございましたのでご連絡いたしました。
【企業】ZenCraft International(外資系商社)
【ポジション】社長(米国人)秘書
【年収】交渉可能
【勤務地】東京都港区
 ご興味ありましたら、お電話にて詳細についてお話できればと存じます。

――社長秘書? そんな経験、私にあったっけ。

一瞬戸惑ったが、すぐに返信した。

 ご連絡ありがとうございます。社長秘書の仕事内容に大変興味があります。
 火曜日から金曜日の18:00以降であれば、お時間を取ることができます。
 詳しくお話を伺えれば幸いです。
 よろしくお願いいたします。

   ◇◇

 数日後、転職エージェントの夏野と名乗る女性から電話があった。

「先日、スカウトメールをお送りした夏野です。
 ZenCraft Internationalは、まだ小規模な外資系商社でして、日本の伝統的な商品――たとえば日本酒や工芸品などを海外に紹介する事業を行っています」

「面白そうですね」
 真由子は思わず、口元がほころぶのを感じた。

「今回の募集は、米国人社長の秘書ポジションです。秘書といっても、一般的な秘書業務だけでなく、営業同行や交渉のサポートも含まれます。英語力と営業事務経験をお持ちの方を探しておりまして、湯浅さんのご経歴が非常にマッチしていました」

「営業に同行したことは……たまにありますけど」

「それで十分です。何より、“言われたことをやる”のではなく、“必要なことを見つけて動ける人”が求められているポジションです。ご興味、ありますか?」

 真由子は、少し息を吸い込んでから、はっきりと答えた。

「はい。ぜひ、前向きに考えたいです」
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