触れてはいけない距離

沈黙のなかで揺れる

***

 綾乃は、今朝の食卓を思い返す。崇の「無言」が怖かった。なにも言わず、見つめられただけ。それだけなのに、心の奥をまるごと見透かされたような感覚。気づかれている。たぶん、もうとっくに。

 でも崇はなにも言わない。ただ黙ってひとつずつ、距離を測るようにテーブルを離れていく。

(これだったら責められたほうが、随分と楽だった――)

 心の奥底でそんなことを思ってしまう自分が、いちばん醜い気がした。

 
 
***

 湊の視線には、優しさがあった。気づかないふりをしていたけど、ほんとはずっと見られていたのだとわかっていた。

 でもそれが嫌ではなかった。そのことがなによりも罪深い。

「……義姉さん、相変わらずちゃんと食べてるんだね。朝ごはん抜かないの、偉い」

 そんな何気ない一言が、胸の奥に引っかかったままになる。

 ――あの人は、気づいてくれた。自分がどんな気持ちで朝食を用意したかも、どれだけ気持ちを整えて笑ったかも、見てくれていた。

(崇さんには……気づかれたくなかった)

 けれど、湊には気づいてほしかった。

 

***

 仕事から帰宅し、リビングに戻ってきた湊の背中を、何度か盗み見ていた。ただ座っているだけのその姿に、どこか安心するような気持ちがあって、でもそれ以上は近づけない。

「綾乃さん」

 そう呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。彼の口からその名前を聞くたび、自分が「妻」ではなく「ひとりの女」として見られている気がする。

 それが怖いのに、どこか嬉しかった。

 

 
***

 深夜、眠れずにベッドに横たわる。崇はまだ帰ってこない。

 結婚してからずっとそうだった。触れられないままの関係。無言で埋められていく毎日。なのに湊のたった数語の言葉や視線が、自分の中のなにかを簡単に揺らしてしまう。

(――どうして、こんなふうに思ってしまうの?)

 自分が選んだのは崇だ。契約でも家のためでも――それが「妻」という立場。だけどそれとは別に、女としての感情があるのなら。

 ――それはいったい、誰のものだろう?

「……もう、駄目かもしれない」

 自分に向けた独り言だった。誰にも聞こえないはずのその声に、ほんの少し涙が滲む。「妻としての私」と「女としての私」が、同じ身体の中にいるのが苦しかった。
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