触れてはいけない距離

残り香のように

 玄関のドアが閉まる音がした。カチャリと鍵が回る音が、なぜか妙に長く響いた気がして、綾乃はふと顔を上げる。

(……行ってきます、って言わなかった)

 湊は毎朝、必ず声をかけてくれた。明るく、どこか気遣うように。けれど今朝は、その一言もなく家を出て行った。

 胸の奥に、ぽつりと小さな空洞が生まれる。その空洞が、朝の光の中で妙に冷たく感じた。

(昨日、わたし……なにかした?)

 問いは自分自身に向けたものだった。答えがないとわかっていても、心の中で何度も自問自答を繰り返す。

 視線は自然と、湊がさっきまで座っていたソファへと向かっていた。クッションの位置が僅かにずれていて、そこに体温が残っているような気がした。

 思いきって、声をかければよかった。たとえば「今日も仕事?」とでも。ただの一言でよかったのに、言えなかった。目を合わせるのが怖くて、逃げてしまった。

 なのに今、こんなにも――行かないで、なんて……。

 口に出せるはずもない感情が、胸の奥でぐらりと揺れる。義理の弟にそんな想いを抱くなんて、間違っている。わかってる。なのに、それでも――。

 湊の名前を呼びかけそうになった唇を、きゅっと噛みしめた。

 そのとき、ふと背後に気配がした。

「……行ったのか、湊」

 振り返ると崇が立っていた。寝室から出てきたばかりなのか、シャツのボタンもいくつか外れたままで、どこか寝起きの気配を残している。その顔には無表情の仮面が貼りついていたけれど、目元だけがどこか探るように鋭かった。

「ああ……うん。もう、出たみたい」

 綾乃の返事に、崇は「そうか」とだけ短く言った。

 たったそれだけ。だけどその沈黙に、なにかが滲んだ気がした。崇の瞳がほんの一瞬だけ、綾乃の視線を正面から捕らえた――ような気がした。

 けれど次の瞬間には目を逸らし、無言で冷蔵庫を開ける。

(気づかれた? ……まさか、そんな)

 心臓がドクンと脈を打った。自分でも予想していなかったほどの速さで。

 崇は変わらず無口だった。けれど今日の沈黙は、いつもより深く重たい。それはまるで問いかけを飲み込んだあとの沈黙のように、綾乃には思えてならなかった。

(――ごめんなさい)

 口には出せない謝罪の言葉が、胸の中で静かに繰り返される。自分が今、誰に対して謝っているのかも、もうはっきりとはわからなかった。
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