触れてはいけない距離

静かな裂け目

 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルが、手の中で冷たく汗をかいている。崇はそれを一口だけ口に含むと、まだ静けさの残るキッチンに目を向けた。

 綾乃の後ろ姿が見える。洗ったカップを丁寧に伏せ、きちんとクロスで拭く指先。その動きは、まるでなにかを“誤魔化す”かのようにゆっくりだった。

 ――湊が出ていったあとの空気が、いつもと違う。

 それに気づいたのは、さっきの「うん、もう出たみたい」という綾乃の声。

 平静を装っていたが、あの声にはどこか名残惜しさのような、寂しさのような……割り切れないなにかが、滲んでいるように聞こえた。

(……俺の勘違いか?)

 そう思いたかった。だが、ふたりの間に流れる空気はここ最近、確かに少しずつ“温度”を帯びていた。

 湊の視線が綾乃を追っていることも。綾乃の笑みが、自分には見せたことのない柔らかさを湊にだけ向けていたことも――崇は、気づいていないフリをしてきた。

 目を逸らしていた。それを直視すれば、なにかが壊れるような気がしたから。

(――まさか、な)

 だが、“まさか”が心に巣食いはじめると、それは静かに広がっていく。今まで見えなかったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。

 例えば、綾乃の微妙な沈黙。湊のさりげない気遣い。そして自分と彼女の間にある、埋まらない距離。

 崇はリビングへと視線をやった。そこには、ほんの僅かに形が崩れたクッションがあった。湊がさっきまで腰掛けていた場所だろう。

 ――綾乃が視線を落としていたのも、確かそこだった。

 喉の奥が、じくりと痛む。彼女は、なにを思っていたのか。なにを――感じているのか。

 問いかける勇気は、まだ自分にはない。けれど、これ以上“知らないふり”を続けるのは……難しいかもしれない。

(俺たちは……どこですれ違った?)

 口には出さない問いが、崇の胸に静かに降り積もっていく。やがてそれが、亀裂を深くする予兆だとも知らぬままに。
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