触れてはいけない距離

扉の向こうにいるあなた

 玄関のチャイムが鳴った瞬間、心臓が一度だけ強く跳ねた。

 キッチンでしっかり手を拭きながら、綾乃は何度も呼吸を整えようとした。けれど、そのたびに胸の奥のざわめきがひどくなる。義弟との久しい再会――兄の弟を迎えるだけのはず。そう言い聞かせても、鼓動は勝手に速くなっていく。

 廊下を突き進み、上り口でピタリと足を止めた。

 玄関に佇んだだけでわかる、扉の向こうに感じる気配。この感覚を、綾乃はよく知っている。三年前、駅まで見送ったあの日の背中が、なぜか焼きついて離れなかった。

 意を決して扉を開けると、そこに立っていたのはもう“少年”ではなかった。

「湊、さん……?」

 無意識に漏れた綾乃の声は、少しだけ震えた。

 長身の影が、雨の匂いを連れて目の前に立っていた。三年前と比べて骨格が引き締まり、肩にかけた黒いカメラバッグがその体格によく馴染んでいる。濡れた前髪を手で払う何気ない仕草でさえも、綾乃の胸を僅かに締めつけた。

 「お久しぶりです、綾乃さん」

 見た目は変わっていたけれど、耳に届いたその声は、あの頃と変わっていなかった。しかしながら瞳の奥にあったはずのあたたかさは、どこか影に隠れているように見える。

「……ほんとうに、大きくなったのね」

 残念なくらいに、間の抜けた言葉になってしまった。口元に手を当てた綾乃を見て湊は小さく笑ったが、その瞳にはどこか迷いが浮かんでいる。

「三年も経てば、さすがに大きくなりますって」

 穏やかな調子のまま、彼の唇は僅かに引き結ぶ。その一瞬のなにげない表情が、綾乃の目に鮮やかに留まった。それを悟られないようにすべく、慌てて視線を逸らして体を横にずらし、彼に靴を脱ぐよう促した。

「どうぞ、上がって。荷物、運ぶわね」
「あ、いや、自分で持てます」


 不意にバッグに伸ばした綾乃の指先に、湊の指が触れる。それだけで、息が詰まるような感覚が走る。

「ありがとうございます。でも俺の荷物ですし、重いから」

 その口調は丁寧だった。けれどその言葉の裏に、どこか見えない境界線が引かれているのを綾乃は感じ取る。やんわりとした優しい拒絶――それは彼の成長の証か、それとも……。

 あの日、春の光の中で見送った湊とは、明らかに違った。ただ時間が流れただけじゃない。彼の瞳には、なにか決意のようなものが宿っているように見て取れた。そしてそのまなざしは、まっすぐ綾乃だけを見ていた。

 客間へと続く廊下を歩きつつ、綾乃は背後から注がれる熱を持った視線に気づかぬふりをした。振り返ればなにかが壊れてしまいそうで、怖くてたまらなかった。
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