触れてはいけない距離

超えてはならない影

***

 東京駅から乗ったタクシーが、閑静な住宅街へと差し掛かる。目的地は兄・崇が暮らす自宅――そこは行き慣れた場所だというのに、湊の指先はどうにもじっとしていられず、スマートフォンを何度も握り直した。

「……馬鹿みたいだな、俺」

 独りごちた声は、タクシーのエンジン音と雨粒のリズムにかき消される。

 ただの義姉。兄の嫁。そう思い込んできた。けれど三年前、海外に発つ前にふらりと立ち寄ったあの家で――彼女がリビングで差し出した紅茶の湯気越しに見えた、上品な白い手。そこに自然と、目が吸い寄せられた。

 最初はそれだけだったのに――気がつくと彼女の声、笑顔、左手の薬指に光り輝くエンゲージリングなど、細部が記憶に焼きついて、なぜだか離れなくなった。

「兄貴と……ほんとに夫婦なんだろうか」

 何度そう疑ったかわからない。夫婦の間に交わされるはずの視線がまったくなくて、湊の目から見ても、ふたりの言葉と心が見事にすれ違っていた。

 兄・崇は“間宮”の長男らしく、冷静で誠実――それゆえにどこか、情というものが希薄だった。

 だからこそ、湊にはわからなかった。

 ――なぜ彼女が兄を選んだのか。なぜ自分はその“答え”を知りたくなるのか。

「……忘れろ湊。そんなの、越えちゃいけない線じゃないか」

 そう、自分に何度も言い聞かせた。けれど心はとっくにその線の向こう側で、綾乃という女の影を追っている。

 タクシーがマンションのエントランスにゆっくりと滑り込み、ブレーキ音とともに停まる。フロントガラスを細かく叩く小雨の音が、やけに騒がしく耳に響いた。

 湊はひとつ息を吸って、ゆっくりと吐き出す。運転手に礼を告げ、荷物を手早く引き上げて外に出た。

 エレベーターで兄の住む階へ昇り、マンションの静かな廊下を抜けて、兄夫婦が住む間宮家の玄関前に立つ。インターホンに伸ばしかけた指が、ふと途中で止まった。

 このボタンを押したら最後、きっともう戻れない――そんな直感が、脳裏をよぎった。

 でも、それでも。彼女の顔をこの目で確かめたいと、どうしようもなく思ってしまう。

「ただの再会だ。なにも起きるはずがない。きっと……」

 そう呟き、意を決して指を伸ばす。インターホンが鳴る音が、心の奥にじんわりと広がっていった。

 ――インターフォンを押す直前に告げたその言葉が嘘だということを、誰よりも自分が一番よくわかっていた。
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