触れてはいけない距離
 湊が指先で触れただけ――たったそれだけなのに、綾乃の心はひどくざわめいた。

 不意に、窓の向こうで風が吹き抜ける。雨脚がさらに強くなったようだった。外の音にかき消されるように、綾乃は小さく吐息をこぼす。

 湊は手を握らない。ただ、どこまでもそっと寄り添うように、そのぬくもりを保つだけ。

「……ごめんなさい。私、ずるい人間だわ」

 やっと漏れた綾乃の言葉は、懺悔のようだった。

「あなたにそんな目を向けられて、怖くてたまらないの。心が揺れてる自分が、どうしようもなく怖い。でも……それでも、こうしていられることに、少しだけ安堵してる」

 その告白に、湊は静かに瞳を細めた。責める色はどこにもない。ただ、深く深く、ずっと押し殺してきた想いがそこにある。

「俺は……ずっと、あなたを忘れられなかった」

 過去の自分に語りかけるような、低く静かな声だった。

「家族でもない。兄嫁として見なければならないって、何度も自分に言い聞かせた。でも……俺を見て笑うたびに、声をかけられるたびにどうしても、気持ちが止められなかった」

 綾乃の指が、僅かに震える。

「私、崇さんに、愛されたことがないの」

 それは誰にも言ったことのない、綾乃の本音だった。

「彼は私を“妻”として必要としただけ。間宮の家にふさわしい、体裁の整ったパートナーとして。私たちは利害の一致で結婚しただけ……それでも私は女として――崇さんに愛されたいと願ってしまった」

 俯いたまま綾乃の瞳から一粒、涙がこぼれ落ちる。それを湊の指先がそっと拭った。

「じゃあ俺に教えてください」

 綾乃が顔を上げる。湊は慈しむようなまなざしで、彼女を見つめた。

「あなたが欲しいもの。必要としてるぬくもり。全部……俺に教えてください。俺にそれを、与えさせてほしい」

 その一言に、綾乃の心が大きく揺れる。

 ――いけない。これ以上は、踏み越えてはいけない。けれどこの瞬間だけは、この言葉に縋りつきたかった。

 綾乃はなにも答えないまま、そっと目を閉じる。

 そして湊の指先が、頬から髪へと優しく触れたとき――ふたりの距離はもう“家族”ではいられないところまで、ゆっくりと近づく。
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