触れてはいけない距離
 リビングの沈黙が、どこか甘やかなものに変わりかけた。綾乃の髪に添えられた湊の指が、そっと動く。まるで、触れてはいけないものに縋るように――。

 ふたりの距離があと少しで許されない一線を越えてしまいそうになった、その瞬間――。

 ガチャリ。

 玄関の扉が開く音が、静寂を裂くように家の中へ大きく響いた。

「……!」

 綾乃は雷に打たれたように、その場で凍りつく。湊も即座に手を引き、慌てて立ち上がった。

「ただいま」

 廊下の奥から届いたのは、無機質な崇の声だった。予定では深夜帰宅のはずだった夫の、まさかの帰還。きっと弟が来ていることで、帰宅を早めたに違いない。

 綾乃は動揺を押し殺すように、深く息を吸い込む。心のざわめきを無理やり押し込み、いつもの“妻”の顔を貼りつけながら、ソファから腰をあげたタイミングで、リビングの扉が開かれる。

「た、崇さん。おかえりなさい。思ったより早かったのね」

 スーツ姿の崇が姿を現した。その目がふたりを捉えた瞬間、ぴたりと視線が止まる。

「……仲良く話していたようだな」

 皮肉とも冷笑とも取れる口調が、綾乃の背筋にぞくりと冷たいものを走らせた。

「湊、今日着いたばかりなんだろう。疲れてるはずだ。客間でゆっくりするといい」
「……ああ。ありがとう、兄貴」

 湊は短くそう言い、崇と視線を交わすことなくリビングを後にする。その背中には、まだ消化しきれぬ感情がハッキリと滲んでいた。

 残されたのは綾乃と崇。リビングに重く張りつめた沈黙が落ちる。

「湊と、なにを話していたんだ?」

 崇の声は穏やかだった。少なくとも言葉の上では。けれどその奥にあるなにか――感情の気配のようなものが、綾乃の肌にじわりと忍び寄る。

「久しぶりだったから、近況を少しだけ」

 綾乃は笑顔を崩さず、平静を装う。ついさきほどまで心を揺らしていた“熱”の痕跡を、必死に奥へと押し込めながら――。
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