敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
ティナはのどに手をあて、部屋を出ていくルシアンの後ろ姿を見送った。
ドレイザル──ルシアンは、そう言わなかったか。遠い北の国、ドレイザル。その名を、ティナは知らないでもなかった。
閉ざされた雪山の彼方にあり、掟と血の誇りだけを頼りに生きる、冷酷なまでに保守的な国。雪と沈黙の牢獄という異名を持つドレイザルで、異国の女は到底ひとりでは生きていけないだろう。
手を引いて立ち上がらせてくれるマリスは、青ざめている。彼女も知っているのだ。ドレイザルへ行くことの過酷さを。
大丈夫よ。安心して。そんな言葉はかけられない。それどころか、……かける声をふたたび失ってしまった。
ティナはのどを押さえ、声を出すしぐさをしたあと、首を左右に振る。「まさか……」とつぶやくマリスにうなずきかけ、ティナはテーブルの上から木製ボードを引き寄せると、炭筆で急いで書き記す。
『声が出ないわ』
「お嬢様……っ」
マリスは絶望を浮かべ、両手で顔を覆う。しかし、悲嘆に暮れている時間はない。ティナは彼女の肩を叩くと、さらにボードに書き込む。
『どうしたら……?』
ドレイザルへ行くことを、なんとしても回避しなくてはいけない。すぐにレオニスの顔が浮かんだが、まだ病床の身である父が国王に掛け合うのは無理だろう。
では、カタリーナは? いくら、憎い義理の娘であっても、ドレイザルへ行かされると知ったら、彼女の人脈を使って、他の貴族とともに、処分をとどまるよう、国王を説得できるのではないか。
そう考えたが、ティナは不安だった。レオニスもカタリーナも、……セレスだって、もしかしたら、この状況に強い関心を持たないかもしれない。
「……お嬢様、すぐにお逃げください」
低く覚悟を決めた声で、マリスが声を絞り出す。
『逃げるって、どこへ?』
行くあてなんてない。レオニスは地方に広大な領地を持っているが、王政を支える要職に就いているため、王都を離れることはほとんどなく、ティナがその地を訪れる機会は、これまでに一度もなかった。そんなところへ逃げても、助けてくれるものがいるかもわからない。
途方に暮れるティナの両手をがっしりと握りしめ、マリスはゆっくりと、だけれど、力強く声を発する。
「ルヴェランにお逃げください。あちらは今も、モンレヴァル家を敬い、その末裔に敬意を持っておられます。必ずや、助けてくださいますよ」
マリスの目は真剣だった。本気で、彼女はルヴェランへ逃がそうというのか。
『私がモンレヴァルの血筋だと、証明をしなくては……』
ボードに走り書きする文字は震えていた。マリスだってわかっているではないか。その証明が難しいことに。
「大丈夫ですよ。エレオノーラ様そっくりのそのお姿が、お嬢様をお守りくださるでしょう」
マリスは胸を張ると、すぐにクローゼットを開き、トランクを引っ張り出し、荷造りを始めた。
「お嬢様には黙っておりましたが、ラビエール閣下とカタリーナ奥様の話を聞いたのです。国王陛下はルヴェランとの和平に応じる気は最初からなかったのだと。ですから、和平へ尽力されたお嬢様のご発言に、陛下は大層お怒りなのです」
それは、ルシアンの言動からも明白だった。セレバルの要求を、ルヴェランが無条件で全面的に受け入れなければ、停戦する気はなかっただろう。
マリスはトランクを閉めると、クローゼットの奥から、フードのついた茶色の外套を取り出し、ティナの肩にかぶせる。
「王都の西に、ルヴェランへ続く関所がございます。あちらには今、ルヴェランの騎士団が駐在していると聞きます」
『騎士団?』
「そうでございますよ。国王直属の騎士団です。停戦合意の調印のため、宮殿を訪れているそうです。和平交渉を成功させたお嬢様のことならば、保護に動いてくださるはずですよ」
騎士団と聞けば、すぐにラスの顔が浮かんだ。あの人は確か、騎士団長ではなかったか。
大きな体に鋭いまなざしが思い出されて怖くなったが、ドレイザルへ行かされることを思えば、大したことなどないような気がする。
何より、あのとき、会合の席でティナの言葉を誰よりも真剣に聞いてくれたのは──あの人だった。もしかしたら、もう一度……と、ティナの胸に小さな光がともる。
わかったわ、とティナは力強くうなずき、『マリスは?』と書いたボードを見せる。彼女は途端に頼りなげにほほえみ、優しく手を握りしめてくる。
「マリスは大丈夫でございますよ、お嬢様。カタリーナ奥様のことはお任せください。旦那様もセレス様も、話せばわかってくださいます」
『でも……、あなたにもしものことがあったら……』
「お嬢様がお幸せになることが、マリスの喜びです。マリスを連れていこうなどと思わず、必ず逃げ仰せてください」
マリスの手に引かれ、ティナは部屋を抜け出した。
屋敷の北端には、使用人たちが朝夕に食材を運び込む勝手口がある。いつもは薪や野菜を載せた荷車が出入りしているが、今は雪に埋もれ、通る者の姿はない。
「ここからなら、兵の目も届きません。……さあ、急いで」
そう言うと、マリスはティナをドアの外へ押し出す。
「この雪です。お嬢様の足跡はすぐに埋もれて見えなくなるはずです。まっすぐ……、西へ向かって、ひたすらまっすぐ行くのですよ」
フードを深くかぶり、振り返るとマリスが祈るように両手を合わせている。
「どうか、どうかご無事で」
もう二度と会えないかもしれない。そんな思いがよぎったが、ティナは覚悟を決めると、小さなトランクを握りしめ、降りしきる雪の中を駆け出した。
ドレイザル──ルシアンは、そう言わなかったか。遠い北の国、ドレイザル。その名を、ティナは知らないでもなかった。
閉ざされた雪山の彼方にあり、掟と血の誇りだけを頼りに生きる、冷酷なまでに保守的な国。雪と沈黙の牢獄という異名を持つドレイザルで、異国の女は到底ひとりでは生きていけないだろう。
手を引いて立ち上がらせてくれるマリスは、青ざめている。彼女も知っているのだ。ドレイザルへ行くことの過酷さを。
大丈夫よ。安心して。そんな言葉はかけられない。それどころか、……かける声をふたたび失ってしまった。
ティナはのどを押さえ、声を出すしぐさをしたあと、首を左右に振る。「まさか……」とつぶやくマリスにうなずきかけ、ティナはテーブルの上から木製ボードを引き寄せると、炭筆で急いで書き記す。
『声が出ないわ』
「お嬢様……っ」
マリスは絶望を浮かべ、両手で顔を覆う。しかし、悲嘆に暮れている時間はない。ティナは彼女の肩を叩くと、さらにボードに書き込む。
『どうしたら……?』
ドレイザルへ行くことを、なんとしても回避しなくてはいけない。すぐにレオニスの顔が浮かんだが、まだ病床の身である父が国王に掛け合うのは無理だろう。
では、カタリーナは? いくら、憎い義理の娘であっても、ドレイザルへ行かされると知ったら、彼女の人脈を使って、他の貴族とともに、処分をとどまるよう、国王を説得できるのではないか。
そう考えたが、ティナは不安だった。レオニスもカタリーナも、……セレスだって、もしかしたら、この状況に強い関心を持たないかもしれない。
「……お嬢様、すぐにお逃げください」
低く覚悟を決めた声で、マリスが声を絞り出す。
『逃げるって、どこへ?』
行くあてなんてない。レオニスは地方に広大な領地を持っているが、王政を支える要職に就いているため、王都を離れることはほとんどなく、ティナがその地を訪れる機会は、これまでに一度もなかった。そんなところへ逃げても、助けてくれるものがいるかもわからない。
途方に暮れるティナの両手をがっしりと握りしめ、マリスはゆっくりと、だけれど、力強く声を発する。
「ルヴェランにお逃げください。あちらは今も、モンレヴァル家を敬い、その末裔に敬意を持っておられます。必ずや、助けてくださいますよ」
マリスの目は真剣だった。本気で、彼女はルヴェランへ逃がそうというのか。
『私がモンレヴァルの血筋だと、証明をしなくては……』
ボードに走り書きする文字は震えていた。マリスだってわかっているではないか。その証明が難しいことに。
「大丈夫ですよ。エレオノーラ様そっくりのそのお姿が、お嬢様をお守りくださるでしょう」
マリスは胸を張ると、すぐにクローゼットを開き、トランクを引っ張り出し、荷造りを始めた。
「お嬢様には黙っておりましたが、ラビエール閣下とカタリーナ奥様の話を聞いたのです。国王陛下はルヴェランとの和平に応じる気は最初からなかったのだと。ですから、和平へ尽力されたお嬢様のご発言に、陛下は大層お怒りなのです」
それは、ルシアンの言動からも明白だった。セレバルの要求を、ルヴェランが無条件で全面的に受け入れなければ、停戦する気はなかっただろう。
マリスはトランクを閉めると、クローゼットの奥から、フードのついた茶色の外套を取り出し、ティナの肩にかぶせる。
「王都の西に、ルヴェランへ続く関所がございます。あちらには今、ルヴェランの騎士団が駐在していると聞きます」
『騎士団?』
「そうでございますよ。国王直属の騎士団です。停戦合意の調印のため、宮殿を訪れているそうです。和平交渉を成功させたお嬢様のことならば、保護に動いてくださるはずですよ」
騎士団と聞けば、すぐにラスの顔が浮かんだ。あの人は確か、騎士団長ではなかったか。
大きな体に鋭いまなざしが思い出されて怖くなったが、ドレイザルへ行かされることを思えば、大したことなどないような気がする。
何より、あのとき、会合の席でティナの言葉を誰よりも真剣に聞いてくれたのは──あの人だった。もしかしたら、もう一度……と、ティナの胸に小さな光がともる。
わかったわ、とティナは力強くうなずき、『マリスは?』と書いたボードを見せる。彼女は途端に頼りなげにほほえみ、優しく手を握りしめてくる。
「マリスは大丈夫でございますよ、お嬢様。カタリーナ奥様のことはお任せください。旦那様もセレス様も、話せばわかってくださいます」
『でも……、あなたにもしものことがあったら……』
「お嬢様がお幸せになることが、マリスの喜びです。マリスを連れていこうなどと思わず、必ず逃げ仰せてください」
マリスの手に引かれ、ティナは部屋を抜け出した。
屋敷の北端には、使用人たちが朝夕に食材を運び込む勝手口がある。いつもは薪や野菜を載せた荷車が出入りしているが、今は雪に埋もれ、通る者の姿はない。
「ここからなら、兵の目も届きません。……さあ、急いで」
そう言うと、マリスはティナをドアの外へ押し出す。
「この雪です。お嬢様の足跡はすぐに埋もれて見えなくなるはずです。まっすぐ……、西へ向かって、ひたすらまっすぐ行くのですよ」
フードを深くかぶり、振り返るとマリスが祈るように両手を合わせている。
「どうか、どうかご無事で」
もう二度と会えないかもしれない。そんな思いがよぎったが、ティナは覚悟を決めると、小さなトランクを握りしめ、降りしきる雪の中を駆け出した。