敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
ほんの少し前まで、ルヴェランはセレバルと争っていた。ラスが活躍したということは、それだけセレバルの兵が傷ついたということ。とてもではないが、ティナは手放しには喜べなかった。
しかし、マギーは青ざめるティナの様子に気づかず、まるで壮大な物語を語るような目をしていた。
「戦場でのラス様は、それはそれは勇壮なお姿だったと言います。敵兵の前へザフレア神のように立ちはだかり、敵将をたちまち降参させたと言うではありませんか。その後、ルヴェランには神がいるといううわさがあっという間に広がり、聖ルヴェラン騎士団が戦場に姿を現すだけで、セレバル軍は撤退していったと言いますよ」
「ザフレア神……?」
「はい。ルヴェランに古くから伝わる戦いの神なんです。ザフレア神は、自ら剣を振るうことをほとんどしません。その代わりに、重々しい沈黙によって敵軍を震えあがらせ、戦わずして勝利をもたらす神として崇められています」
「ラスフォード様は、その……ザフレア神にたとえられるほどの方なんですね」
「それはもう、剣を抜くだけですさまじい気迫を見せるのだとか」
マギーの目は輝いていた。本当にラスを、神の化身だとでも思っているかのよう。
「剣を交える前から、勝敗が決まるのですね……。そんなにお強い方とは……」
「ティナ様の前では、そのようなお姿は見せませんから、信じられないのも無理はございません。けれど、ラス様はどの貴族にも負けないほど、陛下の信頼を受けているんですよ。なかなか王宮へ行かれないので、陛下が気を揉むほどだとか。それを妬む貴人はおりましょうが、ティナ様がお気にされる必要はありませんよ」
黒毛の馬にまたがる、堂々たるラスの姿を想像するのは難しくなかった。大きな背中に国を背負い、セレバル軍と対峙した彼は、どれほど立派な騎士だっただろうか。そして、流血を防ぎ、最低限の被害で紛争を終わらせたというのならば、次期国王として推されても不思議ではないのかもしれない。
「マギーはなんでも知ってるのね」
「それほどでは。ラス様のことは昔から存じてますし、王宮のうわさ話も漏れ聞こえてくる程度ですよ」
「どなたか、仲の良い方が王宮にいるの?」
ティナはふと尋ねた。漏れ聞こえるといっても限度があるだろう。ラスも、ゲレールや騎士団員以外とは懇意にしていないのだから。
「前にもお話しましたでしょうか……」
マギーはそう前置きをすると、窓へとそっと目を向ける。その先に見えるのは自然が連なる山々だったが、彼女の目には別のものが映っているような、遠い目をしている。
「私たち兄弟は生活のためにそれぞれの道を歩みました。姉のクラリッサもまた、生きるために陛下のもとへと嫁いだのです」
クラリッサ……。たしか、先日、クラリッサ妃殿下から手紙が届いたと、マギーはラスに話していた。
「それでは……」
「嫁いだと言っても、正妃ではありません。幼い私や老いた両親のために、姉は結婚していきました。もうずいぶん前のことです。あのころ、ラス様と私は孤児院にいて、一緒に婚礼の行列を街道から見送りました。あのときのラス様の目は、いまだに忘れられません。だから、陛下にもなかなかお会いにならないのかとも……」
「どんなご様子だったか、聞いても……?」
ラスとマギーが孤児院にいたころというなら、もしかしたら、ラスはまだルヴェランへやってきたばかりのころだったかもしれない。
「ラス様は孤児院でいつもひとりでした。どこか愛情に飢えた獣のように目をギラギラとさせていて……本当に、今のお姿からは想像がつかないほど、何かに傷ついているようで。ですから、行列をにらみつける姿を見たときも、貴族を恨んでいるように見えたんです」
ラスの目には、幸せな結婚ではなく、生活のために売られていくようにでも見えたのだろうか。富と権力を持ちながら、人を人として扱わないとでも誤解を……。
ラスがそれほど貴族を毛嫌いしているのだとしたら、やはり、自分を捨てた父親が身分ある騎士だからだろうか。
「マギーは、ラスフォード様のお父さまを知っているの?」
マギーは小さく首を振る。
「何も存じ上げません。ただ……」
「ただ?」
「あっ……いえ、ただ一度だけ、ゲレール様が……」
ふたたび、マギーは言いよどんだが、じっと見つめるティナの目に根負けしたように、ぽつりとつぶやく。
「ラス様によく似た男がセレバルにいると聞いたことが……」
「侯爵閣下がそうおっしゃったの?」
「はい……。セレバル出身とは聞いていましたので、ゲレール様もお調べになったようでした」
「ご兄弟がいるのかしら」
「いえ、見た目ではなくて……どこか、芯の強い目が……というお話だったような。私もまだ子どもでしたので、はっきりとは覚えてなくて……申し訳ありません」
マギーがあまりにも情けない顔をするから、ティナはそっと笑んで首を振る。
「もういいわ、ありがとう」
マギーは深々と頭を下げ、静かに部屋を後にした。その後ろ姿を見送ったティナは、小さなため息をつく。
ザフレア神と崇められるラス。彼を国王にと望むゲレール。まだ見ぬ彼の父親。そして、セレバルにいるという、彼によく似た男──。
ティナは窓辺へと歩み寄り、ガラス窓にそっと手を添える。いつもと変わらない景色がかすんで見える。穏やかだった日々が音もなく崩れていくような気がして、胸の奥がひやりとした。
しかし、マギーは青ざめるティナの様子に気づかず、まるで壮大な物語を語るような目をしていた。
「戦場でのラス様は、それはそれは勇壮なお姿だったと言います。敵兵の前へザフレア神のように立ちはだかり、敵将をたちまち降参させたと言うではありませんか。その後、ルヴェランには神がいるといううわさがあっという間に広がり、聖ルヴェラン騎士団が戦場に姿を現すだけで、セレバル軍は撤退していったと言いますよ」
「ザフレア神……?」
「はい。ルヴェランに古くから伝わる戦いの神なんです。ザフレア神は、自ら剣を振るうことをほとんどしません。その代わりに、重々しい沈黙によって敵軍を震えあがらせ、戦わずして勝利をもたらす神として崇められています」
「ラスフォード様は、その……ザフレア神にたとえられるほどの方なんですね」
「それはもう、剣を抜くだけですさまじい気迫を見せるのだとか」
マギーの目は輝いていた。本当にラスを、神の化身だとでも思っているかのよう。
「剣を交える前から、勝敗が決まるのですね……。そんなにお強い方とは……」
「ティナ様の前では、そのようなお姿は見せませんから、信じられないのも無理はございません。けれど、ラス様はどの貴族にも負けないほど、陛下の信頼を受けているんですよ。なかなか王宮へ行かれないので、陛下が気を揉むほどだとか。それを妬む貴人はおりましょうが、ティナ様がお気にされる必要はありませんよ」
黒毛の馬にまたがる、堂々たるラスの姿を想像するのは難しくなかった。大きな背中に国を背負い、セレバル軍と対峙した彼は、どれほど立派な騎士だっただろうか。そして、流血を防ぎ、最低限の被害で紛争を終わらせたというのならば、次期国王として推されても不思議ではないのかもしれない。
「マギーはなんでも知ってるのね」
「それほどでは。ラス様のことは昔から存じてますし、王宮のうわさ話も漏れ聞こえてくる程度ですよ」
「どなたか、仲の良い方が王宮にいるの?」
ティナはふと尋ねた。漏れ聞こえるといっても限度があるだろう。ラスも、ゲレールや騎士団員以外とは懇意にしていないのだから。
「前にもお話しましたでしょうか……」
マギーはそう前置きをすると、窓へとそっと目を向ける。その先に見えるのは自然が連なる山々だったが、彼女の目には別のものが映っているような、遠い目をしている。
「私たち兄弟は生活のためにそれぞれの道を歩みました。姉のクラリッサもまた、生きるために陛下のもとへと嫁いだのです」
クラリッサ……。たしか、先日、クラリッサ妃殿下から手紙が届いたと、マギーはラスに話していた。
「それでは……」
「嫁いだと言っても、正妃ではありません。幼い私や老いた両親のために、姉は結婚していきました。もうずいぶん前のことです。あのころ、ラス様と私は孤児院にいて、一緒に婚礼の行列を街道から見送りました。あのときのラス様の目は、いまだに忘れられません。だから、陛下にもなかなかお会いにならないのかとも……」
「どんなご様子だったか、聞いても……?」
ラスとマギーが孤児院にいたころというなら、もしかしたら、ラスはまだルヴェランへやってきたばかりのころだったかもしれない。
「ラス様は孤児院でいつもひとりでした。どこか愛情に飢えた獣のように目をギラギラとさせていて……本当に、今のお姿からは想像がつかないほど、何かに傷ついているようで。ですから、行列をにらみつける姿を見たときも、貴族を恨んでいるように見えたんです」
ラスの目には、幸せな結婚ではなく、生活のために売られていくようにでも見えたのだろうか。富と権力を持ちながら、人を人として扱わないとでも誤解を……。
ラスがそれほど貴族を毛嫌いしているのだとしたら、やはり、自分を捨てた父親が身分ある騎士だからだろうか。
「マギーは、ラスフォード様のお父さまを知っているの?」
マギーは小さく首を振る。
「何も存じ上げません。ただ……」
「ただ?」
「あっ……いえ、ただ一度だけ、ゲレール様が……」
ふたたび、マギーは言いよどんだが、じっと見つめるティナの目に根負けしたように、ぽつりとつぶやく。
「ラス様によく似た男がセレバルにいると聞いたことが……」
「侯爵閣下がそうおっしゃったの?」
「はい……。セレバル出身とは聞いていましたので、ゲレール様もお調べになったようでした」
「ご兄弟がいるのかしら」
「いえ、見た目ではなくて……どこか、芯の強い目が……というお話だったような。私もまだ子どもでしたので、はっきりとは覚えてなくて……申し訳ありません」
マギーがあまりにも情けない顔をするから、ティナはそっと笑んで首を振る。
「もういいわ、ありがとう」
マギーは深々と頭を下げ、静かに部屋を後にした。その後ろ姿を見送ったティナは、小さなため息をつく。
ザフレア神と崇められるラス。彼を国王にと望むゲレール。まだ見ぬ彼の父親。そして、セレバルにいるという、彼によく似た男──。
ティナは窓辺へと歩み寄り、ガラス窓にそっと手を添える。いつもと変わらない景色がかすんで見える。穏やかだった日々が音もなく崩れていくような気がして、胸の奥がひやりとした。