敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
***
その日は珍しく、ラスが部屋を訪ねてきて、朝食を一緒に取ろうと言った。ティナは彼とテーブルをはさんで向き合いながら、落ち着かないままパンに手を伸ばす。
はちみつを塗ったパンを口に運びながら、黙々とソーセージをほおばるラスに、ティナは気づまりを感じていた。
(突然どうしたのかしら。もしかして、閣下に何か言われたのかしら……)
ちらちらと、ティナはラスの様子をうかがった。
ゲレールに結婚話を持ち出されてから、数日が経つ。ラスがどこまで聞いているかわからないだけに、直接尋ねるわけにはいかない。あなたはどうしたい? もし、そんなふうに彼に聞かれたら、ティナはまだなんと答えていいかわからなかったのだ。
「ティナ様、プラムはお召し上がりになりますか? 庭園で育てているのですが、今年はたくさん実をつけまして、例年より甘みも強くてとてもおいしいですよ」
よそよそしい気配をさらうように、マギーが助け舟を出してくれる。
「はい、いただきます。あたたかくなるころに、セレバルでもよくプラムをいただきました」
食べやすい大きさに切り分けられたプラムを受け取り、ティナはひと切れ口に入れる。甘酸っぱくてみずみずしい果肉が口の中に広がると、ふと、カリスト邸の食卓を思い出した。
母のエレオノーラが大切に育てていたプラムの木。いまも、あの庭園に根を張っているだろうか──。
「いかがですか?」
「おいしいです。それに、とても懐かしい味がします」
「喜んでいただけてよかったです」
そっと微笑むマギーから目を離し、しみじみとプラムを眺めていると、ラスが話しかけてくる。
「セレバルが恋しいか?」
「……え、いえ、そういうわけでは」
ティナはぶんぶんと大きく首を振った。懐かしい思いはあるが、それは幸せだったころの記憶なだけで、自分でも不思議なぐらい、カタリーナのいる屋敷へ戻りたいとは少しも思わなかった。
「すでに、スレイでの紛争は落ち着いた。近々、セレバルから友好使節団を招いて、和平調印後、初めてとなる晩餐会が王宮で開かれる。もし、あなたがセレバルに戻りたいというなら、使節団を通じて交渉しよう」
「帰りません」
間髪入れずに、ティナは声をあげた。強めの口調にラスも驚いたようだったが、すぐに「そうか」と彼はつぶやいた。
帰ってほしかっただろうか。意に沿わぬ結婚を強いられるぐらいなら、いっそ、ティナなどいない方がいいと思っているかもしれない。毎日迷惑していて、せいせいするとも。しかし、いつも不機嫌そうな彼からはまったく感情が読み取れない。
「あ……、違います。和平が保たれようとも、ヴェルナード国王陛下はいまだに私をお許しにはなっていないでしょうし、ラスフォード様があちらに交渉を持ちかけることは、ルヴェランの不利益にもなります。これ以上のご迷惑はかけられません」
「迷惑だと言った覚えはないが?」
鋭い目ににらまれて、ティナは思わず首をすくめた。
「ら、ラスフォード様がご迷惑でなければ、私は今しばらくここに。実は……、ジルヴァンさんにお尋ねしたら、アリアーヌの家でのお手伝いでも、お給金というものがいただけるそうなんです。それだけでは生活がまかなえるものではないのですが……」
「その金で、この屋敷を出ていくつもりか?」
面白くなさそうに、ラスは鼻を鳴らした。
「今はまだ難しいのですが、いずれは……」
「あなたはここにいればいいと言ったはずだ。何も気づかう必要はない」
「でしたらっ。でしたら、セレバルに戻りたいかなどと聞かないでください。私はもう、セレバルに帰る気はないんです。ラスフォード様と過ごす日々は、セレバルにいたころの何倍も楽しくて……」
みるみるとラスの顔が奇妙に歪むから、ティナはハッと息を飲む。自分がむきになっているのに気づくとともに、とんでもなくはしたないことを口にしたのではないかと戸惑った。
「あ、あの……」
「とにかく」
ラスはゴホンと咳払いし、グラスの水を一気に飲み干した。
「とにかくだ、あなたの気持ちはわかった。セレバルの使節団はなんらかの交渉を持ちかけてくるだろうが、俺に任せておいてくれ」
「ラスフォード様も晩餐会に行かれるのですか?」
「あまり行きたくもないがな」
「あちらの……セレバルの使節団にはどなたが?」
とっさに浮かんだのは、ルシアン・ラビエールの冷たい琥珀色の目だった。彼ならば、必ず王命を受けて、ティナを取り戻そうとするだろう。
「今わかっている情報では、ユリウス・ヴェルナード王太子が来るようだ」
「王太子……殿下が?」
思いがけない人物の名に驚いた。話に聞くところによると、ユリウスはティナよりも年下の十八歳。艶やかな金髪に、澄んだ碧眼。整った美貌に、父親譲りの冷ややかなまなざしを持ちながらも、その威風堂々とした姿には、父親とは違う誠実さがあるとも称される、若きセレバルの王太子。
「ああ。会ったことは?」
「私は……一度も」
「ないのか?」
ラスがひどく驚くから、そんなに意外だろうかとティナは首をひねる。
「はい……、私は晩餐会などには行きませんでしたので。王太子もまだお若く、公の場に出られることはあまりなかったのではないかと」
「たしかに、ユリウス王太子が外交の場に出るのは初めてらしいが、それだけ、ルヴェランとの関係を重視しているということだろう」
ラスが納得するようにうなずいたとき、ひかえめなノックの音がした。マギーが素早く扉を開けると、何かを差し出すメイドの姿があった。マギーはそれを受け取り、すぐにラスのもとへ運ぶ。
「ゲレール様からの書状だそうです」
ラスは無言で受け取り、手紙を広げると、すぐに眉をひそめた。そして、ティナへと目を移すと、重々しい声を吐き出す。
「ヴェルナード国王が身まかられたそうだ。体調がすぐれないとは聞いていたが……」
「それは本当ですか?」
「今朝、陛下に知らせが届いたそうだ。友好使節団を招いての晩餐会は予定通り行う。しかし、ユリウス王太子の出席は難しいゆえ、カリスト公とその娘、セレスタイン嬢を派遣すると」
「セレスが……ルヴェランに?」
まさか、という思いがよぎった。カタリーナが、セレスを異国へ──それも紛争が解決したばかりのルヴェランへ行かせることに反対しないはずがない。もし、彼女が賛成したというならそれは……。
「王太子の名代としてセレスタイン嬢がやってくるとなれば、あなたの妹はすでに次期王太子妃としての地位を確立しているのではないか?」
ラスはなぜか、苦しそうな表情をしていた。ティナだって戸惑いはある。妹が、堂々と王太子の婚約者としてやってくる──。その現実を、うまく飲み込めているか不安だ。
「セレスは王太子妃になるべくして生まれたといってもいいほどに美しく聡明な子ですから、立派に名代を果たすと思います」
「あなたはそれでいいのか?」
「いいって?」
ティナがふしぎそうに首をかしげると、ラスはますます眉をひそめ、何かをためらうように視線をさまよわせた。そしていきなり立ち上がると、ティナの前へとひざまずき、ひざの上にある彼女の手を取った。
「本来ならば、王太子妃になるのはあなただったはずだ。俺がルヴェランへ連れてこなければ、あなたは今ごろ……」
「それは違います」
ティナはきっぱりと答えると、ラスの大きな手をそっと握り返し、頼りなげにこちらを見上げる彼に微笑みかける。
「私はどこにいても王太子妃にはなりません。なりたいと思ったこともありません。今は、ルヴェランへ来てよかったと思っているんですよ」
その日は珍しく、ラスが部屋を訪ねてきて、朝食を一緒に取ろうと言った。ティナは彼とテーブルをはさんで向き合いながら、落ち着かないままパンに手を伸ばす。
はちみつを塗ったパンを口に運びながら、黙々とソーセージをほおばるラスに、ティナは気づまりを感じていた。
(突然どうしたのかしら。もしかして、閣下に何か言われたのかしら……)
ちらちらと、ティナはラスの様子をうかがった。
ゲレールに結婚話を持ち出されてから、数日が経つ。ラスがどこまで聞いているかわからないだけに、直接尋ねるわけにはいかない。あなたはどうしたい? もし、そんなふうに彼に聞かれたら、ティナはまだなんと答えていいかわからなかったのだ。
「ティナ様、プラムはお召し上がりになりますか? 庭園で育てているのですが、今年はたくさん実をつけまして、例年より甘みも強くてとてもおいしいですよ」
よそよそしい気配をさらうように、マギーが助け舟を出してくれる。
「はい、いただきます。あたたかくなるころに、セレバルでもよくプラムをいただきました」
食べやすい大きさに切り分けられたプラムを受け取り、ティナはひと切れ口に入れる。甘酸っぱくてみずみずしい果肉が口の中に広がると、ふと、カリスト邸の食卓を思い出した。
母のエレオノーラが大切に育てていたプラムの木。いまも、あの庭園に根を張っているだろうか──。
「いかがですか?」
「おいしいです。それに、とても懐かしい味がします」
「喜んでいただけてよかったです」
そっと微笑むマギーから目を離し、しみじみとプラムを眺めていると、ラスが話しかけてくる。
「セレバルが恋しいか?」
「……え、いえ、そういうわけでは」
ティナはぶんぶんと大きく首を振った。懐かしい思いはあるが、それは幸せだったころの記憶なだけで、自分でも不思議なぐらい、カタリーナのいる屋敷へ戻りたいとは少しも思わなかった。
「すでに、スレイでの紛争は落ち着いた。近々、セレバルから友好使節団を招いて、和平調印後、初めてとなる晩餐会が王宮で開かれる。もし、あなたがセレバルに戻りたいというなら、使節団を通じて交渉しよう」
「帰りません」
間髪入れずに、ティナは声をあげた。強めの口調にラスも驚いたようだったが、すぐに「そうか」と彼はつぶやいた。
帰ってほしかっただろうか。意に沿わぬ結婚を強いられるぐらいなら、いっそ、ティナなどいない方がいいと思っているかもしれない。毎日迷惑していて、せいせいするとも。しかし、いつも不機嫌そうな彼からはまったく感情が読み取れない。
「あ……、違います。和平が保たれようとも、ヴェルナード国王陛下はいまだに私をお許しにはなっていないでしょうし、ラスフォード様があちらに交渉を持ちかけることは、ルヴェランの不利益にもなります。これ以上のご迷惑はかけられません」
「迷惑だと言った覚えはないが?」
鋭い目ににらまれて、ティナは思わず首をすくめた。
「ら、ラスフォード様がご迷惑でなければ、私は今しばらくここに。実は……、ジルヴァンさんにお尋ねしたら、アリアーヌの家でのお手伝いでも、お給金というものがいただけるそうなんです。それだけでは生活がまかなえるものではないのですが……」
「その金で、この屋敷を出ていくつもりか?」
面白くなさそうに、ラスは鼻を鳴らした。
「今はまだ難しいのですが、いずれは……」
「あなたはここにいればいいと言ったはずだ。何も気づかう必要はない」
「でしたらっ。でしたら、セレバルに戻りたいかなどと聞かないでください。私はもう、セレバルに帰る気はないんです。ラスフォード様と過ごす日々は、セレバルにいたころの何倍も楽しくて……」
みるみるとラスの顔が奇妙に歪むから、ティナはハッと息を飲む。自分がむきになっているのに気づくとともに、とんでもなくはしたないことを口にしたのではないかと戸惑った。
「あ、あの……」
「とにかく」
ラスはゴホンと咳払いし、グラスの水を一気に飲み干した。
「とにかくだ、あなたの気持ちはわかった。セレバルの使節団はなんらかの交渉を持ちかけてくるだろうが、俺に任せておいてくれ」
「ラスフォード様も晩餐会に行かれるのですか?」
「あまり行きたくもないがな」
「あちらの……セレバルの使節団にはどなたが?」
とっさに浮かんだのは、ルシアン・ラビエールの冷たい琥珀色の目だった。彼ならば、必ず王命を受けて、ティナを取り戻そうとするだろう。
「今わかっている情報では、ユリウス・ヴェルナード王太子が来るようだ」
「王太子……殿下が?」
思いがけない人物の名に驚いた。話に聞くところによると、ユリウスはティナよりも年下の十八歳。艶やかな金髪に、澄んだ碧眼。整った美貌に、父親譲りの冷ややかなまなざしを持ちながらも、その威風堂々とした姿には、父親とは違う誠実さがあるとも称される、若きセレバルの王太子。
「ああ。会ったことは?」
「私は……一度も」
「ないのか?」
ラスがひどく驚くから、そんなに意外だろうかとティナは首をひねる。
「はい……、私は晩餐会などには行きませんでしたので。王太子もまだお若く、公の場に出られることはあまりなかったのではないかと」
「たしかに、ユリウス王太子が外交の場に出るのは初めてらしいが、それだけ、ルヴェランとの関係を重視しているということだろう」
ラスが納得するようにうなずいたとき、ひかえめなノックの音がした。マギーが素早く扉を開けると、何かを差し出すメイドの姿があった。マギーはそれを受け取り、すぐにラスのもとへ運ぶ。
「ゲレール様からの書状だそうです」
ラスは無言で受け取り、手紙を広げると、すぐに眉をひそめた。そして、ティナへと目を移すと、重々しい声を吐き出す。
「ヴェルナード国王が身まかられたそうだ。体調がすぐれないとは聞いていたが……」
「それは本当ですか?」
「今朝、陛下に知らせが届いたそうだ。友好使節団を招いての晩餐会は予定通り行う。しかし、ユリウス王太子の出席は難しいゆえ、カリスト公とその娘、セレスタイン嬢を派遣すると」
「セレスが……ルヴェランに?」
まさか、という思いがよぎった。カタリーナが、セレスを異国へ──それも紛争が解決したばかりのルヴェランへ行かせることに反対しないはずがない。もし、彼女が賛成したというならそれは……。
「王太子の名代としてセレスタイン嬢がやってくるとなれば、あなたの妹はすでに次期王太子妃としての地位を確立しているのではないか?」
ラスはなぜか、苦しそうな表情をしていた。ティナだって戸惑いはある。妹が、堂々と王太子の婚約者としてやってくる──。その現実を、うまく飲み込めているか不安だ。
「セレスは王太子妃になるべくして生まれたといってもいいほどに美しく聡明な子ですから、立派に名代を果たすと思います」
「あなたはそれでいいのか?」
「いいって?」
ティナがふしぎそうに首をかしげると、ラスはますます眉をひそめ、何かをためらうように視線をさまよわせた。そしていきなり立ち上がると、ティナの前へとひざまずき、ひざの上にある彼女の手を取った。
「本来ならば、王太子妃になるのはあなただったはずだ。俺がルヴェランへ連れてこなければ、あなたは今ごろ……」
「それは違います」
ティナはきっぱりと答えると、ラスの大きな手をそっと握り返し、頼りなげにこちらを見上げる彼に微笑みかける。
「私はどこにいても王太子妃にはなりません。なりたいと思ったこともありません。今は、ルヴェランへ来てよかったと思っているんですよ」