敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
_______


 ああ、知っている。母が死に、父を探して王宮へ向かったあの日のことは、十年以上経った今でも鮮やかに思い出せる。命がけの一日だった。

 母エリシャは商人キャラバンの踊り子で、王宮の宴に呼ばれた夜、剣士の腕に抱かれて子を身ごもった。それからはキャラバンを離れ、王都ダルハインの貧民街で息子を育てた。

 明るく冗談好きな母は、貧民街でも人気者だった。男たちは競うように差し入れを持ってきては、母に取り入ろうとした。そのうちのひとり、質屋のオブリは裕福な男で、熱心に母へ結婚を申し込んだ。しかし、母は「ラスフォードの父親は、あんたよりずっと金持ちさ」と笑って断った。

 とはいえ、少年のラスには、顔も名前もわからない父親より、父親になりたがり、衣食住の面倒を見てくれるオブリの方が、何倍も頼もしく見えた。

 エリシャが日に日に痩せていくようになったのは、ラスが十五になったころだった。オブリが医師に診てもらおうと何度も言ったが、そんなぜいたくはできないと、彼女は拒んだ。その数日後、彼女は息を引き取った。

 ラスはとっさに、父に知らせなければ、と思った。エリシャに群がる男たちより、熱心に面倒を見てくれたオブリよりも、まず真っ先に、母が最後まで会いたがっていた実の父に会おうと決意した。

 父は「セレバルで一番強い剣士」ということしかわからなかった。ならば、王宮に出入りしているのではないか。安直に考え、ラスは王宮を目指した。

 王都ダルハインは豪華絢爛たる都だった。貧民街しか知らないラスは、その雅な光景に目がくらんだ。

 ボロ布で作られた服に袖を通したラスは、ドレスに身を包んだ婦人たちに、あからさまにさげすむ目を向けられても、父に会わなければと必死だった。

 息を切らして美しい街を走り抜け、金の旗が揺れる大きな門へ到着すると、門兵に話しかけた。しかし、要件を伝える前に、彼らは持っていた槍でラスの足もとをすくった。

「そのような薄汚れた姿で王宮に入れると思うか」

 転げたラスを門兵は笑った。

「父さんに会わせろっ」

 叫んだら、ふたりの門兵は顔を見合わせ、げらげら笑った。

「聞いたかよ。こんな汚らしいやつの父親が王宮にいるってよ。寝言は寝てからいうもんだよなぁ。この、目汚しめっ」

 門兵はいきなり笑みを消すと、ラスの胸ぐらをつかみ、殴りかかった。ラスは両腕で頭を抱えこみ、背中を丸めた。殴られ蹴られても、歯を食いしばって抵抗した。

 しかし、兵士ふたりに武器も持たずに勝てるはずはなく、ラスは地面に倒れ込み、ぴくりとも動けなくなった。

 このまま死ぬのか……。

 母はいない。父の顔も知らない。オブリに養う理由ももうない。それでも死ぬのは嫌だった。だったら、こんな冷たいセレバルなんか出てやろう。母の生まれ故郷、ディアンナを目指してもいい。いや、どこだっていい。

 母と自分を捨てた父をいつか、見返してやりたい。堂々と王宮に入れるほどの、立派な剣士になってやる──。

 ラスはよろよろと立ち上がった。鼻をこすったら、手が真っ赤に濡れた。腫れ上がったまぶたで、視界もかすんでいた。それでも、前へ進まなければと思った。

 一歩、また一歩と歩き、ラスは地面に倒れ込んだ。全身の痛みに耐え、ぼんやりしていると、小さな足音が聞こえた。うっすらまぶたをあげると、真っ白なドレスの裾が目に入った。

 また貴族が笑いに来たのか。ラスはうっすら口もとに笑みを浮かべた。何が貴族だ。ただそこに生まれ落ちただけの、利己的で傲慢で……、毎日誰よりも楽しく生きた母とは比べものにならないほど、醜い心の持ち主たち──。

 ラスは威嚇してやろうと、目を見開き、歯を剥いた。そのとき、目に飛び込んできた少女の姿に、ラスは目を見張った。

 これまで、見たことがないほどに美しい娘だった。月明かりのような淡い金の髪に、透き通った薄紫の瞳。息を飲むほどに輝いて見えた。

 少女は何かを叫ぶように口を開いたが、声はなかった。ラスはうっすら笑った。助けを呼ぶふりをするだけの偽善者だ。馬鹿にしてるのかと、腹立たしかった。

 だから、少女が胸もとからキラリと光るものを取り出し、無言でこちらに差し出してくるのを見るや否や、それを血濡れた手でむしり取った。

 なぐさみか何かわからないが、多くのものを持つ者から、多少のものを奪っても痛くも痒くもないだろう。くれるというのだから、遠慮なくもらえばいい。

 今となれば、なんと浅はかだったか。びっくりして手を引っ込めた少女をにらみつけると、ラスは彼女から奪った硬いものを握りしめて貧民街へ向かってひた走った。
< 52 / 61 >

この作品をシェア

pagetop