敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
「お姉さまっ」
ユリウスに誘われた食事会を辞退し、騎士団員の待つ馬車へと向かうティナの背を、透き通った声が呼び止めた。
振り返れば、セレスが息を切らしながら駆け寄ってくる。
「一人で来たの? まだ婚約の身とはいえ、危ないわ、セレス」
思わず小声を言ってしまったティナは、口うるさいカタリーナに似てしまったのではないかとひるんで、肩を小さくすくめた。
セレスはそんな気持ちも見透かしたように、ふふふとほほえんで、ティナの手を取る。彼女がこんなふうに穏やかに触れてくるなんて想像もしていなかった。
「殿下から伝言を預かってまいりました。セレバルは和平交渉に尽力したフロレンティーナ・カリスト嬢の勇気を讃え、いついかなるときでも、あなたが戻りたいと願うときは受け入れる準備があると──」
「セレス、それは……」
ちらりとラスの横顔をうかがうと、彼はいつもと変わらない不機嫌な様子で口をつぐんでいる。今回ばかりは本当に機嫌が良くなさそうだけれど。
「と、お伝えしましたけれど、無用な心配だと、殿下には話しておきますね。無爵の騎士など、何が良いのかわかりませんけれど、お姉さまがお幸せそうで安心しました」
セレスのほんの少し棘のある言い方には、らしさを感じて笑ってしまう。
「……それともう一つ、殿下がお姉さまを他国の要人だとおっしゃったことはお気になされないでください。そうでも言わなければ、あの場を収めきれないと考えられたのだと思いますから」
「ええ、わかっています。殿下には、ラスフォード様が剣を抜かずに済ませてくださいましたことに感謝していますと、お伝えください」
「ザフレア神のような凄まじい気迫……というものを拝見してみたい気持ちもありましたが、その姿を見ない日が続くことが、私たちの求める国づくりかもしれません」
「ザフレア神って……」
ルヴェランでしか知られていない神の名だと思っていただけに、ティナは戸惑う。
「ご存知ないのですか? ルヴェランにはザフレア神のような守護神が騎士団長をつとめていると、大陸各地で恐れられているのだとか」
「いいえ、ラスフォード様の勇姿を私が知らないはずはないではありませんか」
ティナが少々不満げに答えると、ラスはわざとらしい咳払いをする。
「ティナ、遅くなる前に行こう」
あいさつは済んだのだろう? とラスに腰を抱かれたとき、広場の方から一台の豪奢な馬車がやってくるのが見えた。
「あれは……」
「カリスト公爵家の旗だな」
ラスの言う通り、見慣れた旗を揺らめかせる馬車が目の前でとまり、父のレオニスが降りてくる。
久しぶりに見る父の髪はすっかり白くなっていたが、思っていたよりも元気そうだった。
「お久しぶりでございます、お父さま」
父を前にしたら、ほんの少し緊張した。一つ深呼吸して小さくお辞儀すると、意外なことに、レオニスはまだエレオノーラが生きていたころに見せていた、慈しみに満ちた表情を見せた。
「話はすべて聞いた。ティナが自らの意思でセレバルへ戻ってきたことを誇りに思う。このまま屋敷へともに戻ろう。カタリーナにはきつく言ってある。今までのような生活にはもうなるまい」
「お父さまは私を許してくださるのですか?」
「詫びるのは私の方だ。ゆっくり話せる機会をくれないだろうか。みなもティナの帰りを待ち焦がれている」
ティナは戸惑いながらラスを見上げる。
待ち焦がれていることなどあるのだろうか。……乳母のマリスの顔が、ちらりと脳裏に浮かんだ。その温かな笑顔を思い出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。彼女なら、あるいは。しかし、ほかの使用人たちはどうだろう。どうしても、ティナの頭の中をよぎっていくのは、不安な表情で送り出してくれたライモンドやマギーをはじめとするメイドたちだった。
「私は……」
ぽつりとつぶやき、ラスの腕に寄り添った。彼はほんの少し驚いたようにまばたきをしたが、すぐに支えるようにティナの背中を抱いた。
「お父さま、私はこのままルヴェランへ帰ります。もし、本当に屋敷のみなさんが私の帰りを待ち望んでいるというなら、ルヴェランへ渡った私の幸せも、同じように喜んでくれると思います」
「……そうか」
レオニスは残念そうに嘆息するが、伏せたまぶたをあげたときにはほがらかな笑みを見せ、ラスへと歩み寄る。
「娘のフロレンティーナをどうか、よろしくお願いします。ルヴェランの英雄であるラスフォード殿ならば、ユリウス殿下とともに良い友好国を築かれるであろうと信じておりますよ」
ラスは胸に手をあて、最大限の敬意を見せると、浅くまぶたを伏せた。
「ご期待に添えるよう努力いたします」