彩葉という名の春
第19章

別れまでの短い春


 

 

──出征まで、残されたのは一ヶ月──

 

 

町の空気は日に日に張り詰めていった

 

 

出征する者
見送る者
支える者──

 

 

誰もが、それぞれの不安を胸に
「日常」を続けようとしていた

 

 

でも、彩葉にとっては
もう「日常」なんて存在していなかった

 

 

「……あと、一ヶ月」

 

 

カレンダーを見つめるだけで
胸が締め付けられた

 

 

それでも
彩葉は懸命に、いつも通り振る舞おうとしていた

 

 

 

──

 

 

ある日──

 

 

庭に並んで座るふたり

 

 

梅はすでに散り
代わりに桜がほころび始めていた

 

 

「……咲き始めたね、桜」

 

「ええ……もうすぐ満開です」

 

 

柔らかな風が花びらを運ぶ

 

 

まるで、儚さそのものみたいだった

 

 

「この桜……来年も、見たいな」

 

 

彩葉の言葉は
ふと、空に消えるように小さく震えていた

 

 

「来年も、必ず一緒に見ましょう」

 

「……約束、だよ?」

 

「ええ。約束します」

 

 

恭介は、迷いなくそう答えた

 

 

けれど──
その声の奥に潜む微かな痛みに
彩葉は気づいていた

 

 

 

──

 

 

その夜──

 

 

「彩葉、まだ眠れませんか?」

 

「あ……恭介……」

 

「やっぱり、眠れないでしょう?」

 

「……うん」

 

 

ふたりは並んで縁側に座った

 

 

夜風は少し肌寒かった

 

 

恭介が自分の羽織をそっと彩葉の肩にかける

 

 

「……ありがとう」

 

「……」

 

「……怖いの」

 

「……」

 

「あなたがいなくなるのが怖いの……」

 

「……」

 

「戻ってこられなくなるかもしれない──そう思うと、息が苦しくなるの」

 

「彩葉──」

 

 

恭介が静かに彩葉を抱き寄せた

 

 

「私も同じです。
あなたを残して行くことが、一番怖い」

 

「なら……行かないでよ……」

 

「……行かずに済むのなら、どれだけ良かったでしょう」

 

 

彩葉は、堪えきれず泣き出した

 

 

恭介は何も言わず
ただ、ぎゅっと強く抱き締め続けた

 

 

 

──

 

 

翌朝──

 

 

町では、出征する者たちの準備が本格化していた

 

 

出征前の記念写真
見送りの準備
役場への最終報告──

 

 

恭介も例外ではなかった

 

 

「本当に、準備が忙しそうだね……」

 

「ええ。少しずつ、身の回りの整理を進めています」

 

「……必要ないのに」

 

「彩葉……」

 

「戻ってくるなら、整理なんて要らないのに……」

 

 

恭介は苦しそうに微笑んだ

 

 

「……戻ってきます。必ず」

 

「……本当に?」

 

「本当に」

 

 

そう言う彼の声は
いつもと変わらぬ穏やかさだったけれど──

 

 

彩葉にはわかっていた

 

 

彼がどれほど無理に平静を保っているか

 

 

 

──

 

 

その夜──

 





 

とうとう、恭介の出征前夜が訪れた

 

 

部屋の灯りを落とし
ふたりは畳に並んで座っていた

 

 

静かな月明かりだけが、ふたりを照らしていた

 

 

「……いよいよ、明日だね」

 

「ええ」

 

「……信じたくないのに」

 

「私もです」

 

 

彩葉は震える指先で
そっと恭介の手を握りしめた

 

 

「ねえ、お願いがあるの」

 

「なんでも、言ってください」

 

「今夜は──離れたくないの」

 

「……」

 

 

恭介は一瞬だけ目を伏せたあと
そっと彩葉の頬に手を添えた

 

 

「私も、同じ気持ちです」

 

 

そのまま、唇が重なった

 

 

長く、深く──
切なさと愛しさが混ざり合うように

 

 

どちらからともなく
ふたりは互いを強く求め合った

 

 

 

──初めての夜──

 

 

それは
短すぎる幸福と
長すぎる別れの前に

 

 

ふたりがやっとたどり着いた
“ひとつ”になれた夜だった

 

 

月明かりの下で、彩葉は何度も恭介の名を呼び
恭介は何度も「愛している」と囁き続けた

 

 

その声は
静かな春の夜に溶けていった

 

 

──

 

 ──出征当日の朝──

 

 

夜明け前の空気はまだ冷たく
遠くで鳥の声が静かに鳴いていた

 

 

彩葉はほとんど眠れぬまま
ただずっと、恭介の隣に身を寄せていた

 

 

「……もう少しだけ、このままでいさせて」

 

「ああ……もちろんです」

 

 

彼の胸に頬を当てると
静かな鼓動が耳に優しく響いてくる

 

 

その音を聞くたびに
胸の奥が苦しくなる

 

 

「夢だったらいいのに」

 

「……」

 

「こんな朝が来るなんて……本当は、ずっと来なければいいと思ってた」

 

「私も……できるなら、何度でも朝が来るのを止めたかった」

 

「……どうして……」

 

「国のため、だとしか言えません」

 

「……そんなの、知らないよ……国なんかより、私には……」

 

 

彩葉の声が震えながら詰まった

 

 

「……私には、あなたが必要なのに」

 

 

言葉が涙に変わっていく

 

 

恭介は強く彩葉を抱きしめた

 

 

「私もです。あなたがいるから、ここまで歩いてこれた」

 

「なら……行かないでよ……」

 

「彩葉──」

 

 

恭介の声も掠れていた

 

 

「でも私は──必ず帰ってくる。必ず、あなたのもとに戻る」

 

「……ほんとに?」

 

「ああ──約束する」

 

 

その言葉に彩葉はしがみつくように
彼の背中に腕を回した

 

 

──どうか神様、この人を奪わないで──

 

 

心の中で何度も何度も叫んだ

 

 

 

やがて、朝の光が昇り始める

 

 

「……そろそろ、行かねば」

 

「……いやだ……」

 

「泣かせてしまって、すまない」

 

「もう……何度泣いても、止まらないの……」

 

「私も、こんな朝を迎えたくはなかった──」

 

 

ゆっくりと
ふたりの体が離れていく

 

 

でも指先だけは
最後の最後まで離れたくなくて

 

 

「彩葉──愛している」

 

「……私も……ずっと、愛してるから……」

 

「必ず戻る。君の元へ──」

 

「……待ってる……どんなに長くても、どんなに辛くても、ずっと待ってるから……」

 

 

ふたりの指が、最後の瞬間にそっと触れ合い──

 

 

別れの朝は、静かに幕を閉じた

 

 

桜の花びらが
まるで別れを惜しむように
優しく舞い降りていた

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