彩葉という名の春
第20章
遠く離れても
──恭介が出征してから──
季節は春を過ぎ、初夏に移り変わっていた
出征したあの日から
彩葉は毎日、恭介との最後の朝を何度も何度も思い返していた
──離れていく指先
──胸に響いた「必ず帰る」という声
──風に舞う桜の花びら
それら全てが
今でも昨日のことのように鮮明だった
「……恭介……」
ぽつりと呼ぶ声は
座敷の静けさに静かに吸い込まれていった
隣にいたはずの温もりは
もう何ヶ月も消えたままだった
彩葉は、恭介の出征前に残した羽織を
まるで抱き枕のように毎晩抱きしめて眠っていた
そこには、微かに残る彼の香りがあった
──
町では、出征兵の家族が集まる慰問会や
婦人会の炊き出しなどが頻繁に行われていた
その度に、彩葉も無理に笑顔を作って参加した
「……大丈夫?彩葉さん……」
田嶋が時々様子を見に来ては
優しく気遣ってくれていた
「……大丈夫です」
「無理は、しなくていいんですよ?」
「……でも、待つしかないから」
「……」
田嶋はそれ以上何も言わず
ただそっと肩に手を置いた
──
数週間後──
軍から、恭介からの手紙が届いた
封筒を開ける手は震え、胸は高鳴った
『彩葉へ──』
──
『こちらは激しい戦地にいますが、私は無事です。
彩葉、君が待ってくれていると思うだけで力が湧いてきます。
毎晩、あの夜の君の笑顔を思い出して眠りにつきます。
どんな状況でも、君への想いは揺らぎません。
──必ず、帰る。
愛しています。
藤宮 恭介』
──
手紙を読み終えた彩葉の目から
とめどなく涙がこぼれた
「……ありがとう……恭介……」
それは、彩葉にとって
何よりの命綱だった
手紙を抱きしめながら泣き
泣きながら笑った
──
──だが、その後──
手紙は途絶えた
何週間経っても
何ヶ月経っても
新しい便りは届かなかった
彩葉はそれでも
毎日玄関の前を掃き、郵便が届く音に耳を澄ませた
「……きっと、遅れてるだけ……大丈夫……」
そう自分に言い聞かせる日々が続いた
──
そして──ある日
役所から、一通の通知書が届いた
封筒を開いた瞬間
彩葉の手からその紙が滑り落ちた
『──戦地にて消息不明──』
「……いや……うそ……」
その場に崩れ落ち、畳の上で声にならない嗚咽が漏れた
「いやだ……嘘だよ……恭介……帰るって……言ったのに……」
震える体を抱えながら
必死に呼吸を整えようとする
でも、喉の奥から次々と嗚咽が溢れた
「……約束……したじゃない……!」
彩葉は
ひとり声を殺して泣き続けた
誰の慰めも届かない
誰の言葉も響かない
恭介の最後の声だけが
胸の奥で何度も何度も反響していた
──必ず帰る──
──
その夜
彩葉は恭介の羽織を抱き締めたまま
眠れぬまま朝を迎えた
窓の外では
春の終わりを知らせるように
静かに桜の花びらが舞っていた
まるで──
「……置いていかないでよ……恭介……」
声にならない言葉が
震えた唇から零れ落ちていた
──
──こうして彩葉は
どこかでまだ恭介は生きていると信じながら──
その”春”を超えられずにいた
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