キスはボルドーに染めて
 蒼生は一歩、陽菜美に近づくと、耳元にそっと顔を寄せた。

「彼がそうなのかと聞いている」

 蒼生の声は、まるで怒っているように低く冷たい。

 陽菜美ははっとすると、隣で動揺したように瞳を泳がす貴志を見つめる。

 オロオロと落ち着きなく立つ様は、まるで迷子の子犬だ。

 陽菜美は今更ながら、この人に捨てられて、なぜあんなにも泣けたのだろうと、情けなくなってくるほどだ。

「……はい」

 陽菜美が小さく声を出すと、「そうですか」とため息にも似た蒼生の声が聞こえた。

 貴志はというと、二人のやり取りに訳がわからず、じりじりと後ずさっている。


「ところで課長……」

 すると蒼生は貴志からパッと顔を背けると、課長に向き直った。

「先程の報告会で聞いた話によると、結城さんは派遣のため、今は化粧品会社のオペレーターを務めているそうですね」

 蒼生に顔を覗き込まれ、課長はずり落ちた眼鏡をぐいっと持ち上げる。

「は、はい。まぁ、人員不足の部署から埋めている関係で……」

「それは非常にもったいない」

「え?」

 蒼生が大きく首を振り、課長は眼鏡を押さえながらキョトンと顔を上げた。
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