キスはボルドーに染めて
 こくんとうなずく陽菜美に、「私が行きたぁーい」と、どこからか沙紀の声が飛ぶ。

 すると一斉に騒々しくなったフロア内で、蒼生が軽く手を上げ、再び皆が口をつぐんだ。


「さて、課長。もろもろの手続きは追ってご連絡しますが、用件はもうひとつあります」

 蒼生はそこまで言うと、陽菜美に向き直った。

「ところで結城さん。この会社を辞める前に、一つ言っておくことがありますよね? えっと、彼に……」

 蒼生はフロア内を見渡すと、離れた位置に呆然と立っている貴志に向かって手の平を向ける。

 貴志は何か身の危険を察知したのか、「ひっ」と呻くような声を出した。


 陽菜美はしばらく逡巡した後、蒼生の顔を見上げる。

 すると目の前には、蒼生の力強い瞳が見えた。

 陽菜美はブースの壁につけていたマグネットを取り外すと、ぎゅっと両手で握り締める。

 そして「松岡主任」とわずかに震える声でそう呼びかけると、貴志をまっすぐに見つめた。

 今から何を言われるのかわからない貴志の顔は、同情するほどに青ざめている。

 フロア内では、事態の飲み込めない多くのスタッフが、固唾(かたず)を飲んで(こと)の行方を見守っていた。
< 32 / 230 >

この作品をシェア

pagetop