キスはボルドーに染めて
 陽菜美は一度ぐっと目を閉じると、大きく息を吸う。

 貴志に言いたいことは山ほどあるし、恨み言だって心の中には溢れていた。


 ――でもこれは、私が前へ進むための言葉だ。


 陽菜美はパッと目を開くと、貴志に向かいまっすぐに声を出して叫んだ。


「松岡主任。奥さんを裏切るようなことは、決してしないでください! お幸せに!」

 フロア内は、陽菜美の言葉の意味を探るように、しーんと静まり返っている。

 その静けさを破るように、くくくっと蒼生の楽しそうな笑い声が響いた。

 陽菜美は、眼鏡をずり落としている課長に向き直ると深々と頭を下げる。

「課長、今まで大変お世話になりました。追って派遣会社から、ご連絡させていただきます」

 顔を上げた目線の先には、蒼生の笑顔が見える。

 陽菜美は、賞賛するように手を叩く蒼生の元に駆け寄った。


「松岡くーん。ちょっと別室で、詳しく話を聞かせてもらえるかな?」

「は、はひっ……」

 課長と貴志の声を背中で聞きながら、陽菜美は蒼生と顔を見合わせるとくすりと笑い合う。

 そして複雑な表情で皆が見送る中、顔を上げてフロアを後にしたのだ。
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