その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

プロローグ

「うん、もう重いなあ……あの扉が寝室ね。もうすぐ、がんばれ、私!」

麻里子は、ぐでんぐでんに酔った上司・貴之の体を全身で支えていた。
スーツの上からでもわかる筋肉質な体。日頃の鍛錬の賜物なのか、見た目以上にずっしりと重い。
慎重に、一歩一歩寝室へと運びながら、内心では何度もため息をついていた。

(あと少し……!)

ようやくベッドまでたどり着き、なんとか彼の体を横たえると、麻里子はふうっと息を吐いた。
やれやれ、と思いながらベッドから離れようとしたそのとき——

「……っ!」

ガシッと、手首を掴まれた。

「えっ?」

振り返る間もなく、予想外の力で引き寄せられた麻里子は、バランスを崩してベッドに倒れ込んだ。

「きゃっ!」

慌てて起き上がろうとするが、手首はまだしっかりと掴まれたまま。
動揺する麻里子の耳に、貴之のかすれた声が届いた。

「……麻里子、水……くれ……」

「え、あ、はいっ!」

顔が火照るのを感じながら、麻里子は一旦立ち上がり、足早にキッチンへ向かった。
ミネラルウォーターのボトルとグラスを手に戻ると

貴之は、すでに寝息を立てていた。

「……なんなのよ、もう」

安堵と脱力が入り混じった吐息を漏らしつつ、麻里子はそっとグラスをテーブルに置き、ベッド脇の照明を消した。

その瞬間だった。

「……っきゃ!」

不意に、貴之の腕がぐいっと動き、麻里子の体を抱き寄せた。

「えっ……ちょ、ちょっと、所長……!?」

温もりと体温に包まれ、麻里子の心臓が激しく脈打ち始める。
眠っているはずの彼の腕は、思いのほかしっかりと、自分をその胸に閉じ込めていた。

麻里子はすぐに体を起こそうとした。けれど、

(……うそ。離れられない……)

貴之の腕の中は、思いのほかしっかりとした力に満ちていて、麻里子の華奢な体では到底かなわない。
胸元に顔を埋めるような格好になってしまい、ますます心臓がうるさくなる。

(ちょっと……まったくもう……)

ため息をひとつ。けれど本気で怒る気にもなれない自分に、余計に困惑した。

(仕方ないわ。もう少ししたら、力も抜けるかもしれないし。それまで……我慢、我慢)

そう言い聞かせながら、そっと身を硬くしていた麻里子だったが—

(起きてなきゃ。これは誤解されるような状況……っ)

そう思えば思うほど、重たくなる瞼を意識してしまう。

忙しさのピークをようやく乗り越えたばかりの疲労。
そして、お酒の残る身体の奥に、ぽうっとした眠気がじわじわと広がっていく。

(だめ……寝ちゃだめ……)

必死に抗おうとするも、貴之の胸のぬくもりと規則正しい寝息が、妙に心地よくて。

気づけば、麻里子の瞼は静かに、ゆっくりと閉じていった。

—こうして、予想もしなかった一夜は、思いがけないかたちで幕を下ろした。
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