その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子が遠慮がちに尋ねる。

「貴之さん、タオル……ありがとうございました。座席、濡らしてしまってごめんなさい」

少ししょんぼりした声に、貴之は小さく笑って首を振った。

「気にするな。あのくらい、すぐ乾く」

「でも……タオル、いつもトランクに入れてるの?」

「そうだな。特に夏の間はな。急な雨とか、海に寄りたくなることもあるし……」

ちらりと麻里子を見る貴之の目が、どこか優しく光っていた。

「まあ、今日のために入れておいたみたいなもんだな」

そう言って、ふっと口元を緩める。「たまに。学生時代、友達と海沿いをドライブしたり……仕事を始めてからは、たまに気晴らしで夜中に走りに来ることもある」

「夜中に? 一人で?」

「運転してると、無になれるからな。仕事のことを考えすぎたとき、夜の海を見に来ると、少し落ち着く」

「……なんか、わかる気がする。私もときどき、泳ぎに行くの。夜のプールとか」

「水泳?」

「うん。ずっとやってたから、泳いでると、自分の中のざわざわが消えるのよ」

貴之はちらりと横目で麻里子を見る。
運転中でなければ、そのままじっと見つめていたかもしれない。

「意外だな。君、そういうふうに感情を整理してるんだ」

「私、見えにくい?」

「うん、ちょっと。いつも冷静で、仕事は完璧。隙がないって思ってた」

「……隙、あるわよ。いっぱい」

麻里子は苦笑するように言った。

「むしろ、隙だらけにならないように必死だっただけ。ずっと」

しばらく沈黙が流れたあと、貴之がふと優しく言う。

「……今日は、必死にならなくていい。ずっと素のままでいてくれ」

貴之の思いやりに、麻里子は心が温かくなるのを感じた。

大げさな言葉があったわけじゃない。ただ、当たり前のように差し出されたタオルと、変わらない落ち着いた声。

(こういうところ……やっぱり、この人らしいな)

窓の外には、濡れたアスファルトが陽を受けてきらきらと光っている。タオルを握る手にほんの少しだけ力を込めながら、麻里子は静かに息をついた。

何気ない時間の中に、安心できる空気が確かにあった。

車内では、流れる音楽に耳を傾けながら、互いの好きなバンドの話で盛り上がった。思いがけず話が弾み、麻里子は気づけば緊張を忘れていた。

もうすぐマンションに着く頃、麻里子がそっと言う。

「タオル、洗ってからお返ししますね。ありがとうございました」

「わかった」

車がエントランス前に止まり、麻里子が降りようとしたとき、貴之がさらりと言った。

「後で、パン持っていく」

「え? だ、大丈夫ですよ」

慌てる麻里子に、貴之はすぐに続ける。

「麻里子、パンだけじゃなくて野菜もあるだろ。カフェでオーナーから分けてもらってたやつ。だったら俺も、一息ついたらそっちに持っていくから」

言いながら、もう出発の準備をしていた。

「そうだな……一時間後くらいに行く」

麻里子が何か返そうとした瞬間、車は静かに走り出していた。

残された風だけが、ふわりと彼女の髪を揺らした。
< 11 / 127 >

この作品をシェア

pagetop